イスファード、出陣
「ふはははははは! 道化の分際で思い上がったことを!」
ジノーファがイスパルタ王国を建国したことを知ると、イスファードは狂ったように笑い声を上げた。彼の顔に浮かぶのは、憎悪ではなく嘲笑と喜悦だ。
「これで、これでヤツを殺せる……!」
イスファードは狂気を滲ませながらそう呟いた。王太子に冊立されてからと言うもの、彼はジノーファが目障りで仕方なかった。何をしてもジノーファと比べられてしまう。奴はもう、何もできないというのに。ここにいるのは自分であるというのに。
だがこれまで、イスファードはジノーファに手が出せなかった。彼はロストク帝国にいたからだ。しかも要職に就くわけでもなく、飼い殺しにされている。それ自体、奴が有能とは言いがたいことの証ではないか。そんな奴が自分と比べられることそれ自体に、彼は苛立ちを募らせていた。
しかしそれももう終わりだ。ジノーファは大逆の謀反人となった。軍を持ってこれを討伐することに、何の遠慮もいらぬ。そして奴を真正面から殺せば、口さがのない者どもも黙るだろう。
自分の方が王太子として相応しいことをようやく、疑いの余地なく証明できるのだ。自らの手がジノーファの首元に届いたのだと思い、イスファードはたいそう愉快な気分だった。後は、締め上げてやるだけだ。
「カルカヴァン、兵を集めろ! 思い上がった道化を成敗してやるぞ!」
「お、お待ちください、王太子殿下」
今にも馬にまたがり駆け出しそうなイスファードを、カルカヴァンは焦った様子で宥めた。確かにイスファードの下には多くの戦力がある。ただしこれらの戦力は、すべて魔の森に対する防衛線を維持するためのもの。与えられた特権も同様であり、これをイスパルタ王国討伐のために使えば、それをガーレルラーン二世に咎められる可能性があった。
もちろんガーレルラーン二世にとっても、イスパルタ王国討伐のために軍を動かすことは必定だ。イスファードは彼の世子であるし、メルテム王妃にとっては大切な一人息子。普通に考えれば、多少のやんちゃは許してもらえるだろう。
しかしその一方で、ガーレルラーン二世の意向に逆らえば、それを口実に我が子であっても力を殺ぐようなことをするのではないか。彼の纏う冷厳さが、カルカヴァンにそう思わせる。
ガーレルラーン二世は特権だけを与えてくれるような、そんな甘い王ではない。それでまずは王都クルシェヒルに使者を出し、王の意向を確認するべき。カルカヴァンはイスファードに強くそう進言した。
「陛下が兵を集めるにも時間がかかります。そんな中で、すぐさま動けるのは我々だけであると、陛下もお分かりのはず。殿下が望めば、一軍を率いて攻め込むこと、間違いなくお許しいただけましょう。
焦ってはなりませぬぞ、殿下。焦って拙速に動けば、勝ったとしても、後々それをとやかく言う者が現れましょう。口先だけは滑らかな者どもに、わざわざ口実を与えてやることはありませぬ」
「ぬう……、物わかりの悪い者どもめ……!」
忌々しげにそう呟き、大いに不満を覚えながらも、イスファードはカルカヴァンの勧めに従った。すぐさま使者をクルシェヒルへ走らせ、彼は父王からの返事を今か今かと待ちわびる。しかしながら使者が持ち帰った返事は、彼の望んだようなものではなかった。ガーレルラーン二世は「動くべからず」と言ってきたのである。
『イスファードに与えた兵権は、防衛線を維持するためのものである。よってこの勤めを忠実に果たし、もって祖国の安寧を守れ』
ガーレルラーン二世の返答を要約すれば、このようなところであろうか。今、防衛線を手薄にすれば、イスパルタ王国の大義を認めることに繋がりかねない。ガーレルラーン二世には当然、その危惧があっただろう。
なにしろ、イスパルタ王国はアンタルヤ王国について「アンタルヤ大同盟の精神はすでに失われた」と断罪しており、その精神を受け継ぐことを謳って建国を宣言した。それで彼のこの返答は、防衛線維持を確実にすることにより、アンタルヤ王国が大同盟の正当な後継者であることを、国内外に示す狙いもあったと思われる。
だがしかし、父王のこの命令は、イスファードにとって到底承服しかねるものだった。ジノーファを討つ機会が目の前にあるのに、指を咥えて見ていろと言われたのだ。彼は勅書を破り捨て、奇声を上げて頭を掻きむしった。そして頭を抱えたまま、ソファーにドスンと腰を落とす。
「…………カルカヴァン、兵を集めろ」
幾ばくかの沈黙の後、イスファードは焦点の定まらぬ声で呻くようにそう言った。その声は小さなものであったのに、しかしやけに大きく部屋に響く。そしてそれ以上の衝撃をカルカヴァンに与えた。彼は王命を無視するつもりなのだ。
「殿下、それは!?」
「勝てばいいのだ、勝てば!!」
イスファードは頭を上げてそう叫んだ。彼の目は血走っており、激怒と憎悪に染まっている。カルカヴァンは気圧されながらも、しかしここで唯々諾々と従うわけには行かなかった。カルカヴァンは我が子のように育ててきた義理の息子の肩を両手で掴み、そして彼にこう言い聞かせる。
「殿下、なりませぬ。なりませぬぞ! 王命に逆らえばたとえ殿下といえどもお叱りは免れませぬ。ともすれば廃嫡さえあり得ましょう! 道化のことなど放っておきなさい。殿下が未来を賭けるような相手ではありませんぞ!」
「黙れっ!!」
しかしイスファードはカルカヴァンの言葉に耳を貸そうとはしなかった。それどころか彼はソファーから勢いよく立ち上がると、育ての親にして義父である彼を突き飛ばした。そして腰間の剣をゆっくり抜くと、尻餅をつく彼にその切っ先を突きつける。
「っ!」
カルカヴァンは鋭い切っ先を見て息を呑んだ。それでも彼は口を開こうとしたが、ごっそりと感情の抜け落ちたイスファードの顔を見て、彼の舌は固まった。二人の視線がこすれるが、火花が散ることはない。やがてイスファードが口を開いてこう言った。
「父上からお叱りを受けるなら、その時にはジノーファの首を差し出してお許しをいただくまで。勝てば良いのだ……。勝てば何の問題もない。反乱は鎮圧され、国家の綱紀は粛然とする。そうだ、すべては祖国の安寧を守ることに繋がるではないか……!」
イスファードの口の端が徐々につり上がっていく。それに伴い、彼の目もまた爛々と輝き始めた。しかしカルカヴァンはそこに、生気よりも狂気を覚える。背中に冷や汗が流れたことに、彼は気づかなかった。
「それとも臆したか、カルカヴァン。そうであるなら老いたということだ。これを機会に隠居してはどうだ、エルビスタン公爵」
「……そうまで言われては、私も黙ってはいられませぬな」
声に力を込めてそう応え、カルカヴァンは立ち上がった。胸を反らせるが、半分は虚勢だ。しかし彼はここで怖じ気づいた姿をさらすわけには行かなかった。
カルカヴァンはすでにイスファードの説得を諦めていた。むろん本音を言えば、独自に動くことに彼は反対だ。しかしここで強固に反対し続ければ、イスファードはそれこそ自分を斬り殺してでも、イスパルタ王国討伐を強行するだろう。彼にはそれが分かっていた。
そしてまた、気にくわぬからといって隠居するわけにもいかない。そうであるなら可能な限り関与を強める方向でいくしかないだろう。イスファードを今のまま暴走させるわけにはいかないのだ。
「そこまでおっしゃるのでしたら、よろしい、兵を集めましょう。我らで反乱を鎮圧し東域を平らげてしまえば、陛下といえども無下にはできますまい」
「よく言った! それでこそカルカヴァンだ」
イスファードは上機嫌になってそう言い、剣を鞘に収めた。こうしてイスファードが独自に兵を出すことが決まったわけだが、その一方で兵は思うように集まらなかった。派閥の貴族たちが戦力を出し渋ったのである。
イスファードが王命より出陣を止められたことは、すでに貴族らの知るところとなっている。勅命に背くことになるのを、彼らは恐れたのだ。加えて防衛線のこともある。よそに兵を出して、その間に防衛線が破られるようなことがあれば、その被害をもろに受けるのは彼ら自身なのだ。
どうせガーレルラーン二世が討伐軍を出すのだ。であればこれに任せてしまえば良い。彼らはそう考え、王命を盾に兵を出すことを拒んだ。また実際問題として、防衛線にも戦力を残さねばならない。こうなると、イスファードとカルカヴァンが動かせる兵は限られてくる。
それでもなんとか、カルカヴァンは一万五〇〇〇の戦力を集めた。この内、五〇〇〇はエルビスタン領軍の戦力だ。残りの一万は派閥の外の戦力、つまり全国から徴用して防衛線で戦わせていた兵士たちだった。
「寄せ集めではないか……!」
自らが率いる軍(後の歴史書には王太子軍と記されている)の内訳を聞き、イスファードは不機嫌そうに眉をひそめた。彼は大軍を率いるつもりでいたのだ。しかしカルカヴァンは自信たっぷりにこう告げる。
「いえ、これで良いのです」
他の貴族たちを排除したことにより、武功はすべてイスファードとエルビスタン公爵家のものになる。これにより、より絶対的な権勢を確立できるだろう。上手くすれば、ガーレルラーン二世に退位を迫り、イスファードがすぐさま王位に就くことさえ可能かも知れない。
カルカヴァンにそう説明され、イスファードはまんざらでもない様子だった。ジノーファは、まがい物とはいえ王を名乗った。それに負けたくない気持ちは、当然彼にある。このような情勢だからこそ、王位というのは魅力的だった。
そんなイスファードの様子を見ながら、カルカヴァンは内心で安堵の息を吐いた。派閥の貴族たちの協力が得られなかったことを、カルカヴァンは説明していない。「排除」という言葉にすり替えて、その問題を隠したのだ。
そうしなければ、イスファードの穂先はまず身内に向きかねない。それを危惧してのことである。内輪揉めで血を流すなど、絶対にあってはならない。そんな当たり前のことにまで神経を使わねばならないことに、カルカヴァンは徒労を覚えていた。
(いや、これが終われば殿下も冷静になってくださるはず……)
カルカヴァンは胸中で自分にそう言い聞かせる。イスファードがジノーファに固執していることを、彼もさすがに気づいていた。二人の間の因縁が、互いに無視することを許さないのだろう。
カルカヴァン自身は、ジノーファのことをそれほど意識していない。独立などという大それたことをしでかしたことには驚いたが、それも冷静になって考えてみれば、担がれただけであろうと推察できる。そう考えると、いっそ哀れですらあった。
(利用されるだけの人生とは……)
利用しているのはロストク帝国か、それともダーマードら東域の貴族たちか。何にしてもいっそ無名のままでいれば、ダンジョン攻略をして身を立て、人並みの幸福を得ることができたであろうに。だが事ここに至れば、同情も憐憫も無意味である。アンタルヤ王国としては、どうしても彼を討たねばならない。
そうであるなら、せめてイスファードの刃にかかって死んでくれれば良い。カルカヴァンはそう思っていた。そうすればイスファードも因縁を解消し、王者として正道を歩んでくれるだろう。それだけが、カルカヴァンがジノーファに望むことだった。
さて、話を王太子軍に戻そう。王太子軍は騎兵三〇〇〇、歩兵一万二〇〇〇からなっている。このうち、騎兵と歩兵の五〇〇〇がエルビスタン領軍の戦力だ。残りの歩兵一万が、防衛線から抽出してかき集めた戦力になる。
当初イスファードが不満を覚えたとおり、反乱軍を討伐するための戦力としては、少々心許ない。だが防衛線の維持に支障をきたさない範囲で集められる戦力となると、これが限界だった。
これでジノーファを討てるのか。その懸念はカルカヴァンにもあった。ただ、イスファードがジノーファを気にしているように、ジノーファもまたイスファードを無視できないはず。また周囲も二人の因縁を知っている。イスファードが来たことを知れば、彼は動かざるを得ないだろう。
イスファードの軍事的才覚は確かなもので、しかもこれまで防衛線でモンスター相手とはいえ実戦を繰り返している。一方のジノーファは、これまで大軍を指揮したことはない。それで一度相対してしまえば、多少の戦力差は問題にならないだろう、とカルカヴァンは思っていた。
「ではカルカヴァン、行ってくるぞ。吉報を待っていてくれ」
出陣に際し、イスファードは馬上からカルカヴァンにそう声をかけた。甲冑を身に纏った彼の姿は見事な益荒男ぶりで、神々しくすらある。
「はっ。ご武運を」
カルカヴァンはそう応えた。今回、彼はイスファードに同行しない。防衛線の指揮を執るためだ。加えて王太子軍の兵站の面倒も、彼が見ることになっていた。
言うまでもなく、非常に重要な役割だ。確かにカルカヴァン以外の者には任せられない。ただ、それだけが理由ではなかったと言われている。要するに、イスファードが彼を疎んだのだ。
イスファードが王太子として冊立されてから、初めて臨んだあの戦。あの戦で、カルカヴァンは周囲を包囲されるや、すぐさま降伏を選択した。あの状況下では仕方のないことだったし、イスファードも結局は降伏を強いられている。だから、この件でイスファードが彼を責めたことはない。
とはいえ、人の感情とはそう単純なものではない。さっさと降伏したカルカヴァンの姿が、イスファードには保身を優先して自分を見捨てたように思えたのだろう。そうでなくとも、あの時の彼の姿が脳裏をよぎったのは間違いあるまい。
前述した事情のため、イスファードと共に征かないことを決めたのはカルカヴァン自身だ。ただそのことを聞いたとき、イスファードは小さく頷き翻意を促すことはなかったという。
そのような訳で、カルカヴァンは今回、留守居役となる。その代わり、彼のいわば代理としてイスファードを補佐する者が選ばれた。カルカヴァンはその者に視線を向け、重々しくこう告げた。
「良いか、ジャフェル。王太子殿下のこと、よくよくお助けするのだぞ!」
「お任せください、叔父上」
ジャフェルはイスファードと同じく馬上からそう応えた。彼はカルカヴァンの甥で、イスファードとは義理の従兄弟にあたる。子供の頃にはよく一緒に遊んだ間柄だ。さらに言えば、カルカヴァンには娘のファティマ以外に子供がいない。それで現在は彼の後継者として指名されていて、名実ともにイスファードの腹心と言える存在だった。
王太子軍の総司令官は言うまでもなくイスファードだが、このジャフェルが副将として彼を補佐することになる。二人とも十分以上に優秀なことはカルカヴァンのお墨付きだ。
この二人に率いられ、王太子軍は出征した。アンタルヤ王国の将来を担う若い二人の、輝かしい門出である。その背中を見送りつつ、しかしカルカヴァンは一抹の不安を覚えた。彼らは上手くやるだろうか。失敗しても、自分は助けてやることができない。そこまで考え、彼は苦笑する。あるいは子供を独り立ちさせる親というのは、こういう心情なのかも知れない。
ただ、今回の出征に不安要素が多いのは事実だ。兵が寄せ集めであることは否めないし、なにより王命に背いての軍事行動である。イスファードは「勝てばよい」と言っていたが、では負けた場合どうなるのか。カルカヴァンとしては、そこを考えずにはいられない。
(いずれにしても……)
いずれにしても、賽は投げられたのだ。今回カルカヴァンは共に征かなかったが、だからこそできることもあるだろう。そう思い、彼は身を翻した。
イスファード「さあ、因縁の対決だ……!」