セルチュク要塞掌握
ジノーファは貿易港ウファズを押さえた。しかも無血占領である。交易地の機能をいささかも損なわずにすみ、彼は人知れず安堵の息を吐いた。ただしここで気を緩める訳にはいかない。続いて国境の要衝、セルチュク要塞を落とさねばならないのだから。
ウファズを押さえた次の日、バハイルにウファズの戦力を掌握させ太守と商人たちの監視を任せると、ジノーファは全軍を率いてセルチュク要塞へ向かった。とはいえ彼がこの要塞に攻撃を仕掛けることはなかった。彼が到着するより早く、セルチュク要塞は降伏したのである。
その報せを、ジノーファは要塞へ向かう途中で受けた。要塞がすでに降伏したのであれば、わざわざ七〇〇〇もの兵を連れて行く必要はない。護衛として五〇騎を選び、残りはダーマードに任せてマルマリズへ戻すことにした。
「ではダーマード、後は任せた」
「はっ。陛下もお気をつけて」
短くそう言葉を交わすと、ジノーファは護衛を引き連れてセルチュク要塞へ向かった。騎兵のみで駆け抜ける彼らの移動速度は速く、ジノーファたちはその日の夕刻前に要塞に到着することができた。
要塞にはすでにアンタルヤ王国の旗は掲げられておらず、代わりにイスパルタ王国の旗がたなびいている。ただし、その旗はたった一つだけ。準備のための時間が短く、未だに十分な数の旗さえ用意できていないのだ。
建国したとはいえ、イスパルタ王国がいかにも急造な国家であることの証左と言っていい。ジノーファはとしては、気にならないではないが、こればかりは焦っても仕方がないと自分に言い聞かせていた。
「陛下、お待ちしておりました」
セルチュク要塞の城壁の内側で、クワルドがジノーファを出迎える。ジノーファは一つ頷いて馬を下りると、彼に案内させて要塞の中へ入った。そして会議室の一つに入り椅子に座ると、人心地つく間もなく彼にこう言った。
「報告は聞いている。ただ、もう一度説明して欲しい」
「はっ。結論から申し上げれば、要塞が降伏したのはロストク軍が動いたからです」
クワルドのその言葉に、ジノーファは一つ頷く。ロストク軍が動いたことは、すでに報告を受けて知っている。それでジノーファは無言で続きを促した。
「ロストク軍の戦力はおよそ三〇〇〇。要塞の東側に布陣しております」
クワルドが率いていた部隊と併せ、要塞を東西から挟み込むような格好になっていたわけだ。ただし、戦力としては合計しても六〇〇〇程度。しかも連携がとれている訳ではないのだ。三〇〇〇の兵を擁し、さらに堅牢な城壁を誇るセルチュク要塞を落とすには足りない。
「恐らくですが、カスリムは我々の戦力の故に降伏を決めた訳ではないでしょう」
カスリムというのは、セルチュク要塞の司令官の名だ。彼はジノーファの通告に対して堂々と非服従の返事をしてきたし、攻めてきたクワルドに対しても当初は徹底抗戦の構えを見せていた。しかしカスリムは北東からロストク軍が現れるや、ほとんど間を置かずに降伏を決断したのである。その理由は一体何か。
「降伏の条件として、カスリムは自らを含め、希望者をアンタルヤ王国へ退去させることを求めております」
それに対しクワルドは、「取りなしはするが、最終的な判断はジノーファ陛下が下す」と答えた。カスリムは幾分迷ったらしく、返事は数時間遅れた。それでも結局、彼は降伏することを選んだのである。
「なるほど。カスリム卿とは後で会うとして、彼は一体何を考えているのだと思う?」
「このタイミングでロストク軍が動いたことで、我々と帝国の間には、強固な繋がりがあるのだと彼は考えたはずです。それをガーレルラーン二世に報告することが、彼の目的であると考えます」
クワルドの推察に、ジノーファは一つ頷いて同意した。戦力を恐れたのでなければ、確かに降伏の理由はそれ以外に考えられない。
カスリムは当初、要塞を頼みに粘れるだけ粘るつもりだったのだろう。そうすることでイスパルタ王国の戦力を分散させ、ガーレルラーン二世率いる討伐軍を援護するつもりでいたのだ。
しかしロストク帝国が動いたことで事情が変わった。もはやイスパルタ王国の討伐のみを考えていれば良い状況ではなくなったのである。
真の敵はロストク帝国であり、炎帝ダンダリオン一世なのだ。しかしそれを知らずに戦えば、例えイスパルタ軍を討伐せしめたとしても、その次に控えるロストク軍に敗北するやも知れぬ。
それで、この情報はどうしてもガーレルラーン二世の耳に入れなければならない。ただ伝令を走らせるとしても、敵国の只中を突っ切る必要がある。確実に知らせられるとは思えず、やむなくカスリムは降伏を決断したのであろう。
「それで、カスリム卿は今どうしている?」
「一室に軟禁してあります。お会いになられますか?」
「いや、先にロストク軍の方を済ませてしまおう。指揮官の名前は分かるか?」
「ルドガー将軍です」
「ああ、ルドガー殿か」
そう言って、ジノーファはうれしげに微笑んだ。彼を寄越したと言うことは、ダンダリオンが気を使ってくれたのだろう。そして恐らく、ルドガーは彼からの言付けも預かっているはずだ。
早速ルドガーに会いに行こうとするジノーファを、クワルドが慌てて止めた。他国の将のもとに自分から出向くなど、一国の王のすることではない。そう言って説得し、クワルドは使者を走らせた。
「ようこそ、ルドガー将軍」
城門のすぐ内側で、ジノーファはルドガーを出迎えた。傍に立つクワルドは、少々渋い顔をしている。彼は要塞内の謁見の間で待つように進言したのだが、ジノーファはそうしようとはせず、こうして外へ出てきたのである。
出迎えるジノーファの姿を見て、ルドガーは少し驚いたような顔をする。しかしすぐに彼は小さく微笑みを浮かべた。ジノーファの気性が少しも変わっていないのを見て、それを嬉しく思ったのだ。
とはいえ、以前のように話しかけることはできない。それで彼は拱手して片膝を付き、改まった口調でこう応えた。
「ジノーファ陛下御自らのお出迎え、恐悦至極に存じます」
「ああ、将軍も壮健な様子でなによりだ。さあ、立ってくれ。話を聞かせて欲しい」
そう言ってジノーファはルドガーを立たせた。その際、二人の目が合ったのだが、その時ジノーファはどこか可笑しげに微笑んだ。つい先ほどの、小芝居のようなやりとりが可笑しかったのだろう。その気持ちはルドガーにもよく分かり、彼は頬が緩みそうになるのを全力で堪えなければならなくなった。
クワルドに案内させて、ジノーファはルドガーらロストク軍の幕僚らを客室の一つへ通した。そして彼らにソファーをすすめ、自らも腰を下ろす。全員に紅茶が用意されたところで、ジノーファはルドガーにこう尋ねた。
「それで、ルドガー将軍。此度のロストク軍の行動は、どのような意図があってのことだろうか?」
ルドガーは紅茶を一口啜ってから答え始めた。彼の話によると、ロストク軍が動いたのはやはりダンダリオン一世の勅命によるもの。ただし、セルチュク要塞に対して積極的に攻撃を仕掛けるつもりはなかったという。
「陛下がおっしゃるには、我が軍が動くだけで十分な援護になるだろう、と」
「……確かに、その通りでしたな」
ジノーファに目配せをされ、クワルドはそう言った。実際、カスリムが降伏したのはロストク軍が動いたからだ。とはいえ、彼の口調は少々苦い。何もかも、ダンダリオン一世に見透かされていたように思えるのだ。
一方でジノーファも似たような感想を抱いてはいたが、それほど深刻には考えていない。ダンダリオン一世にイスパルタ王国を侵略する意図はない、と確信しているからだ。それは彼と実際に話をしたからこそ、持ち得た確信である。
ジノーファはシェリーとベルノルトを帝都ガルガンドーに残して来た。さらに皇女マリカーシェルを正妃に迎えることを約束している。だからこそ、ジノーファはダンダリオンの好意を素直に受け取ることができるのだ。
そうでなければ、裏の意図について勘ぐらねばならぬ。今のクワルドがそうであるように。それでジノーファは小さく苦笑すると、ルドガーにさらにこう言った。
「お陰様で、と言うべきなのかな。ともかく我々は、こうしてセルチュク要塞を確保することができた。これでロストク軍の目的は達成されたと考えていいのだろうか?」
「はい。ただもう一つ、建国して以来の情勢の推移について聞いてくるよう、仰せつかっています」
ルドガーはそう答えた。ダンダリオン一世としては当然、気になることであろう。ジノーファも一つ頷き、それからウファズを掌中に収めたことなどを説明する。彼の手並みに、ルドガーは少し驚いた様子だった。
「セルチュク要塞とウファズを押さえ、国の東側はほぼ固めたつもりだ。ロストク帝国と交易を行える日を楽しみにしている、とダンダリオン陛下にお伝えしてほしい」
「了解いたしました。確かにお伝えいたします。それと、マリカーシェル殿下にも何かお伝えすることはございますか?」
「……では『マルマリズは美しく、また活気のある都です。そこで会える日を心待ちにしています』と」
ジノーファがそう答えると、ルドガーは「確かに承りました」と言って小さく微笑んだ。彼の瞳には、ほんの少しだけ同情の色が浮かんでいるように見えたが、ジノーファはあえてそれを無視した。すべてはジノーファ自身が望んだこと。同情されるべき者がいるとして、それは自分ではないと彼は分かっていた。
それからさらに、二人はいくつかの点について話し合った。ルドガーは部隊を率いて一度帝都へ帰還する。そして恐らくは交易に関わる話をするため、また別の者が派遣されるだろうと話した。ジノーファもそれに対応するべく、要塞に人を残しておくことを約束する。
気心の知れた二人であるから、話し合いはスムーズに進んだ。最後にルドガーは紅茶を飲み干して立ち上がり、それからふと思い出したようにジノーファに視線を向ける。そして彼にこう告げた。
「そうそう。シェリー様とベルノルト様ですが、お二人とも健やかにお過ごしですよ」
「それは、良かった。わたしの方も心配はいらない、二人とも愛している、と伝えて欲しい」
ルドガーは「承知いたしました」と応えた。彼らが要塞を去ってロストク軍の陣中に戻ると、すでに用意をさせていたのだろう、ロストク軍はすぐさま撤退を開始した。ジノーファは城壁の上からそれを見送る。彼らの背中が見えなくなるより早く、彼は身を翻して要塞の中へ戻った。やるべきことはまだ多いのだ。
ロストク軍を見送った後、ジノーファはクワルドに命じてカスリムを連れてこさせた。彼は当然丸腰であったものの、卑屈になることなく真っ直ぐに顔を上げている。少々無精髭が目立ったが、誇り高い姿である。そんな彼に、ジノーファはこう話しかけた。
「カスリム卿。話はクワルドから聞いている。卿を含め、希望者をアンタルヤ王国へ退去させることが望みだそうだな」
「はっ。左様でございます」
カスリムの言葉遣いは丁寧だった。しかし視線は鋭い。礼を逸するつもりはないものの、彼はあくまでも敵と話しているつもりなのだ。実際その通りであるので、ジノーファも彼を咎め立てするつもりはない。むしろこう尋ねた。
「その上で聞いて欲しい。このまま、わたしに仕える気はないか?」
「……私は近衛の将官であります。いみじくもガーレルラーン陛下よりくだされた禄を食む以上、我が剣は陛下にのみ捧げられるべきでありましょう」
それは明確な謝絶の返事だった。断られてしまったジノーファだが、悪い気分はしない。むしろ無骨なこの返事を聞いて、彼はカスリムがどういう人物なのか、少し分かった気がした。
「卿のような人物がいるとは、アンタルヤ王国はやはり人が多い。我々としては、あまり望ましくないことだよ」
ジノーファは小さく笑ってこう言った。カスリムは小さく頭を下げるだけで何も言わない。ジノーファもまた、何か返事を期待していたわけではなかった。それで続けて彼にこう告げる。
「相分かった。そちらの要求を呑もう。クワルド、手配してやってくれ」
「御意」
クワルドの返事に一つ頷くと、ジノーファは立ち上がった。そして三歩ほど歩いたところで立ち止まって振り返り、カスリムにこう告げた。
「ガーレルラーン陛下にお伝えしてくれ。『いずれ出生の秘密を伺いに参上する。その日まで壮健なれ』」
その言葉を聞いた瞬間、カスリムの顔がさっと強張った。クワルドもまたいささか緊張した面持ちをしている。そんな中で、ジノーファだけがいつもと変わらない様子だった。
「…………確かに、お伝えいたします」
言葉を探すように何度か口を開け閉めしたあと、カスリムは結局それだけを口にした。ジノーファは小さく頷くと、身を翻して今度こそその場を後にする。後ろで誰かがため息を吐く音が聞こえた気がした。
その後、カスリムと共にアンタルヤ王国へ退去する希望者が募られた。ただ兵士の大半は東域の出身で、希望者はごく少数にとどまった。残った兵士はすべて、今後はイスパルタ王国の兵士として戦うことになる。彼らはひとまず、クワルドの指揮下に入れられた。
カスリムら退去希望者は、馬車でアンタルヤ王国との国境まで運ばれることになった。比較的少数であるとはいえ、彼らを国内で自由に行動させることについては反対意見が多かったのだ。護送のために五〇人が選ばれ、彼らは西へと向かった。
カスリムらがセルチュク要塞を離れてからも、ジノーファにはするべき仕事がいくつかあった。それを済ませると、彼もまた要塞を離れ、マルマリズへ戻ることにした。要塞に残るのは五〇〇の兵士だけで、ジノーファはこれをクワルドの長子であるエクレムに預けた。
エクレムをセルチュク要塞に残すことにしたのは、東の国境に睨みを利かせるためと言うよりは、むしろ政治的な配慮によるものだった。遠からず、ロストク帝国から交易のための交渉を行う、外交官が派遣されて来るだろう。彼らを出迎えさせるために、ジノーファはエクレムを残したのである。
「ではエクレム、後は頼んだ」
「はっ、お任せください」
最後にエクレムとそう言葉を交わしてから、ジノーファはセルチュク要塞より出立した。彼に従う軍勢の数は五五〇〇。当初セルチュク要塞へ向かわせたのは三〇〇〇だったから、ほぼ倍増した形である。要塞を押さえ、さらに戦力を減らすことなくむしろ増やしたのだから、考え得る限り最上の戦果と言っていいだろう。
とはいえ、馬にまたがりマルマリズへ向かうジノーファの心は、それほど晴れやかではなかった。なるほど、確かにここまでは上手くいっている。しかし本当に苦しくなるのは、たぶんこれからだ。
次に戦うのは、近衛軍の将軍か、あるいはガーレルラーン二世その人か。いずれにしても楽に勝てる相手ではないだろう。そして次の戦端が開かれるのは、そう遠い未来のことではないのだ。
ジノーファのその予想は当たった。彼がマルマリズに帰還してすぐ、バラミール子爵とジュンブル伯爵の両方から、「敵見ゆ」の報が届いたのである。動いたアンタルヤ軍の戦力はおよそ一万五〇〇〇。これを率いるのは王太子イスファードであるという。
ルドガー「実は私も、あのスタンピードの折に同じ戦場にいたのですよ」
クワルド「なんと。縁は奇なもの、ですなぁ」