宮殿暮らし
ダンダリオンらと別れて帝都ガルガンドーへ来てからしばらくの間、ジノーファは用意された客室に引き篭もっていた。癇癪を起こしていたわけでも、こん睡状態だったわけでもない。用意された食事は食べているし、受け答えもしっかりとしている。
ただその一方で、部屋から出て何かをしようという気が少しも起こらなかった。彼の事情は知れ渡っているので、周りの人々は同情的ではある。ただ、留守居役の皇太子ジェラルドを筆頭に、宮殿の人々は彼を半ば放置した。
そもそも、どうしてみようもない。病気なら医師に見せればよい。待遇に不満があるのなら、改善することができる。しかし引き篭もっている相手をわざわざ部屋から引きずり出す必要性を、彼らは認めなかった。ダンダリオンの命令は「賓客として遇するように」というだけで、「彼を立ち直らせろ」などと言う命令は一言もなかったのだから。
ベッドの上で膝を抱えるだけの生活が、およそ二週間も続いた。その間、ジノーファはぐるぐると色々なことを考えていた。最も多く自問したのは、「自分は一体何者なのか?」と言うことだ。
アンタルヤ王国の王太子である。今まではそう思っていた。しかしどうやら、違ったらしい。では一体、自分は何者なのか。ジノーファは考え続けた。
当然、答えなど出るはずもない。それを知っているのは恐らく、ガーレルラーン二世とメルテム王妃だけだろう。そして今のジノーファでは、二人に会う事は叶わない。いや、普通に考えれば生涯謁見することは叶わないだろう。彼はそれが分かるくらいには現実を知っており、それゆえに悲劇的だった。
(わたしは……、わたしは……)
自分が何者なのか分からない。まるで身体から芯がなくなったような不安定さを抱えて、この先ずっと生きなければならないのか。それを考えると、たまらなく不安になる。震える自分の身体を、彼は強く抱いた。
さて、そうして膝を抱えていたある日。ジノーファが使っている客室の窓辺に、一羽の小鳥が迷い込んだ。その小鳥を見て、彼はふとこんなことを考えた。
(この小鳥も、自分が何者であるのか、悩んだりするのだろうか……?)
そう考え、しかし彼はすぐに苦笑して小さく首を振った。例えこの小鳥が何者であろうとも、所詮、鳥は鳥でしかない。であれば「何者なのか」と悩むのは、少なくとも人の目から見れば滑稽なことだ。
そこまで考え、ジノーファはハッとした。自分もまた、同じではないか。例え彼が何者であろうとも、所詮、人は人でしかない。であれば、答えがでないと分かっているのに「何者なのか」と悩むのは、傍から見て滑稽であるに違いない。
ジノーファはクスリと笑った。そんな彼の視線の先で、迷い込んだ小鳥がまた外へ逃げていく。何者であろうとも、鳥は自由だ。そして今は、彼もまた。
(一度は死を覚悟したのだ。全てを失ったと考えるのはもうよそう。代わりに自由を得たのだと考えよう。そうすれば、少なくとも自分を哀れまずに済む)
そう自分に言い聞かせ、ジノーファは立ち上がった。窓辺から外を眺めると、気持ちの良い青空が広がっている。今の自分にはまだ少し眩しいなと思い、彼は苦笑した。それから部屋の出口へと向かう。
ドアを開けようとして手を伸ばし、しかし彼は一瞬躊躇った。この先に広がっているのは、自由である代わりに未知の世界だ。未知のものに挑むのはいつだって怖い。けれどもジノーファは進むしかなかった。全てを失った代わりに得た自由。たったそれだけが、今の彼が持つ財産なのだから。
引き篭もりを止めたジノーファがまず最初に確認したのは、この宮殿内で自分にどれほどの自由が与えられているのか、ということである。幸いにも「賓客として遇せ」というダンダリオンの命令はかなり強力らしく、国家機密の類を探ろうとしない限りはおおよそ思うとおりに行動しても良い、ということだった。
それでジノーファは、探検がてら宮殿内のあちこちを見て回った。その度にメイドや警備の兵士に声をかけ、そこがどういう場所なのかを尋ねてみる。その際、決して横柄な態度を取らぬよう心がける。彼らは初めこそ戸惑っていたものの、すぐに好意的になりいろいろと話を聞かせてくれた。
彼らの話を、ジノーファは喜んで聞いた。彼が喜ぶので、話をする側も気分が良くなり、さらに色々なことを話して聞かせた。そして聞き終われば丁寧に礼を言うので、次に会ったときにもまた何か話してやろうと言う気になるのだった。
さて、そんなある日のことである。ジノーファは宮殿の通路を歩いていた。するとどこからか、軽やかな歌声が聞こえてくる。どうやら中庭のほうから聞こえてくるらしく、彼は誘われるように通路を曲がった。
「~~♪ ~~♪」
歌っていたのは、一人のメイドだった。水やりをしているらしく、手には鉛色のじょうろを持っている。そしてジノーファの目は彼女に釘付けになった。
年の頃は十六、七くらいだろうか。ジノーファよりも年上に見える。整った容姿をしていて、その風貌は優しげだ。濡羽色の髪の毛が背中の半ばまで伸ばされている。彼女が歌いながらじょうろを振り回すと、水の飛沫が舞ってキラキラと輝いた。
「あら」
ジノーファがその光景に見惚れて立ち尽くしていると、メイドの方が彼に気付いて歌うのを止めた。そして少し気恥ずかしそうに頬を染めながら、彼女はジノーファにこう尋ねる。
「ご覧になられましたか?」
話しかけられてジノーファは慌てた。心臓の鼓動が大きくなり、顔に血が上っていくのが分かる。しどろもどろになりつつ、しかし黙っているわけにもいかないと思い、ジノーファはなんとか口を動かした。
「えっと、その……。き、綺麗だな、と思って……。その、お花、も……」
「まあ」
濡羽色の髪をしたメイドは、そう言って嬉しそうに笑った。華やいだその表情を見て、ジノーファはますます慌ててしまう。頭の中ではさっきから色々と考えているのだが、しかし一向に気の利いた言葉は出てこないし、心臓の鼓動も静まる気配がない。勝手に追い詰められた彼は、逃げ出すほかなかった。
「お、お仕事中にお邪魔して申し訳ないっ。わ、わたしはこれで失礼させてもらうのでっ!」
早口にそう言うと、ジノーファは返事も聞かず足早にその場を後にした。そしてしばらく歩き、人気のない場所で柱にもたれかかる。何度か深呼吸しているうちに、心臓の鼓動も静まってきた。
多少は冷静になったところで、ジノーファは先ほどのやり取りを思い出す。彼は顔が赤くなるのを自覚してその場にしゃがみ込んだ。治まったはずの鼓動が、また高鳴っている。
(ぶしつけに見つめてしまったのは失礼だったろうか……?)
いや、問題はたぶんそこではない。自分は彼女に何を言ったのか。あれではまるで口説き文句ではないか。
「何をやっているんだ、わたしは……。名前も知らない相手なのに……」
しゃがみ込んだまま頭を抱え、ジノーファはそう呟いた。そして無意識の内に、こう考える。
(彼女の名前は、何と言うのだろう……?)
脳裏に浮かぶのは、華やいで笑った彼女の姿。自然とジノーファの頬も緩んだ。胸の奥に温かいものを感じる。もてあまし気味のその感情に、彼はこの時まだ名前を付けられずにいた。
□ ■ □ ■
帝都での暮らしは、ジノーファにとって比較的充実したものだった。彼の行動範囲はほぼ宮殿の中だけに限定されていたが、アンタルヤの王宮にいたときもそうだったので、不自由さはさほど感じない。
宮殿の中には練兵場があり、ジノーファはそこへ頻繁に顔を出している。もちろん、兵たちに混じって身体を動かすためだ。二週間も引き篭もっていたために身体は多少鈍っていたが、それもすぐに元に戻すことができた。
今はダンダリオンの客人として衣食住を保証されているが、この先ずっとというわけにはいくまい。これからは多分、ダンジョン攻略を行って生活の糧を得ていくことになるのだろう。ジノーファはそう思っていた。そのためには身体が資本になる。鍛えておく必要があり、そのためにも宮殿に練兵場があるのはありがたかった。
兵達のほうも、ジノーファのことを歓迎した。彼が聖痕持ちであることはすでに知れ渡っている。つまり彼は炎帝に比肩する武人なのだ。ダンダリオン相手に模擬戦や訓練などそうそうできるものではないが、ジノーファに協力してもらえば同様に密度の濃い調練ができるだろう。
『いかがです、ジノーファ様。ご一緒されませんか?』
隊長格と思しき男がジノーファを誘った理由には、そういう思惑も含まれていたに違いない。いずれにしても、ジノーファはありがたく一緒に訓練させてもらうことにした。ここにいるのは全員、精強で知られるロストク帝国の皇帝直轄軍の兵士たち。その訓練に混じれるのなら、自分を鍛えるのに何の不足もない。
とはいえ、ジノーファは訓練ばかりしていたわけではない。彼を一番喜ばせたのは、宮殿内に設けられた立派な図書室とその使用許可だった。その日の朝もまた彼は図書室へ向かっていたのだが、そんな彼を後ろから呼び止める声があった。
「ジノーファ様!」
ジノーファは何となしに振り返った。こういう場合、用事があるからというよりは「ちょっと話しかけてみただけ」というものがほとんどで、ジノーファも気さくに応じるものだから、最近ではよく呼び止められる。
ただ今回は、主にジノーファの側の事情が違った。振り返った彼は小さく「あっ」と声を上げる。彼を呼び止めたのは濡羽色の髪をしたメイド、歌いながら水やりをしていたあのメイドだったのだ。
「先日は、失礼した」
心臓が高鳴ったがそれを顔には出さず、ジノーファは先日の非礼を詫びた。謝らねばならないと、あの後ずっと思っていたのである。しかし彼女は気にした様子もなく、ただ穏やかに笑ってこう応えた。
「いいえ。わたくしの方こそ、はしたないところを見せてしまい、申しわけありませんでした。……それで、今日はどちらに御用ですか?」
「うん、図書室に行こうと思っていたんだ」
「そうでしたか。では、ご案内いたしますね」
そう言うと、彼女はジノーファを先導し始めた。彼はもう何度も図書室を利用していて、その場所は分かっている。案内してもらう必要はないのだが、せっかくの好意を無碍にするのもどうかと思い、結局そのまま案内してもらうことにした。そしてその途中、彼は勇気を振り絞ってこう尋ねた。
「あの……、名前を伺ってもいいだろうか?」
「ああ、失礼しました。わたくしはシェリーと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「シェリー、か……。うん、よろしく」
ジノーファは頬を緩めてそう応えた。彼女の名前を口にすると、不思議と達成感を覚える。そして多少は言葉を交わして緊張が解けたのか、図書室へ向かうまでの間、彼はシェリーと他愛もない会話を続けた。
図書室へ入ると、二人は雑談を止めた。「図書室の中は静かに」。国が違っても変わらないルールである。ジノーファはシェリーに礼を言ってここで分かれるつもりだったのが、しかしそれより早く彼女が小声でこう尋ねた。
「ジノーファ様は、どんな本をお探しですか?」
「えっと、歴史書とか、兵法書を……」
「では、こちらですね」
そう言って、シェリーはまたジノーファを案内した。この図書室は広い。宮殿内の一室なので「図書室」と呼ばれているが、独立させれば立派な「図書館」になるだろう。ジノーファも最初のころは司書に案内してもらいながら使っていた。
だが、シェリーの足取りには迷いがない。ジノーファはもちろん目的の書架の場所を分かっているが、間違いなくそちらへ向かっている。つまり彼女もどの本がどこにあるのか、把握しているのだ。それも、恐らくはジノーファよりずっと詳しく。
「シェリーも、ここをよく使うのか?」
「メイドですから」
答えになっているような、いないような。不思議な返答である。けれどもそれが彼女らしく思えて、ジノーファはなんだか納得してしまった。
さて目的の書架に到着すると、ジノーファは次々に読みたい本を引っ張り出していく。結構量が多くなってしまったが、シェリーが持ってくれたので助かった。そしてそれらの本を持ってテーブルへ向かう。本をテーブルの上に置くと、ジノーファはシェリーに礼を言った。
「ありがとう。助かったよ、シェリー」
「お役に立てたのなら幸いです。ですが、こんなにたくさん読まれるのですか?」
「比較しながら読むんだ。一つの出来事について、功の部分しか書かれていなかったり、逆に罪の部分しか書かれていないなんてことも、良くあるからね」
そうやって物事を多角的に考えるように、というのは王太子時代に学んだ教師の教えである。不意に昔のことを思い出し、ジノーファは少しだけ寂しい気持ちになった。けれども彼が感傷に浸る前に、シェリーが一礼してこう言った。
「それでは、わたくしはこれで失礼させていただきますね」
「うん、本当に助かったよ。ありがとう」
もう一度礼を言ってジノーファはシェリーを見送る。胸に寂しさを感じるのは、過去を思い出したからではないだろう。彼は小さく苦笑すると、イスに座ってテーブルに向かった。そして持参したペンと紙をそこに置く。それから幾つかの本を開き、内容を読み比べつつ自分なりにまとめて書き記していく。いつしか彼は時間を忘れ、本の内容を考察することに没頭した。
「…………ジノーファ様、ジノーファ様!」
どれくらい時間がたっただろうか。名前を呼ばれてジノーファは顔を上げた。そこにいたのはシェリーだ。彼女はちょっと怒ったような顔をしている。ジノーファはわずかに慄き、そしてこう尋ねた。
「ど、どうかしたのか?」
「どうもこうもありません。もうお昼ですよ?」
「……お昼?」
ジノーファがそう聞き返すと、シェリーは少し怒ったような顔のまま「はい」と答えた。どうやら彼のことを呼びにきたらしい。やってしまったと反省しつつ、ジノーファは本や紙を片付け始めた。
「そのままにしておいても大丈夫ですよ。お昼を食べてから、また続きをされてはいかがですか?」
「いや。午後からは練兵場のほうへ行くつもりなんだ」
「そうでしたか。では、お手伝いいたしますね」
そう申し出たシェリーに手伝ってもらい、ジノーファは読んでいた本を書架に返した。そして昼食を食べに客室に戻る。その途中、彼はふとシェリーにこう尋ねた。
「……アンタルヤ王国との戦がどうなったのか、シェリーは何か知っているか?」
「いえ、詳しい事はなにも。ですが陛下は必ずや勝利なさいますわ」
「うん、そうだね。わたしも、そう思うよ……」
ジノーファは少しだけ寂しそうにそう答えた。帝都ガルガンドーの暮らしは穏やかだし、アンタルヤ王国はもはや彼にとってなんの関わりもない国だ。だが最も縁の深い国でもある。忘れてしまう事は、まだできそうになかった。