イスパルタ王国建国
馬を駆けさせ、ダーマードはマルマリズを目指す。ただ脇目も振らずに真っ直ぐ向かったかと言うと、実はそうではない。彼は途中、他の貴族たちのところへ寄りながら、マルマリズを目指していた。
「今は一刻も早く、マルマリズへ赴くことこそが肝要」。ダーマードはそう語っていたし、今もその気持ちに変わりはない。それでも、いわば寄り道をしているのは、他の貴族たちを説得するためだった。
「我々はジノーファ様を支持すると決めたはず。ここでまごついている場合ではありませぬぞ!」
やはり面子や罠を気にしてマルマリズへいくことを渋っていた貴族たちを、ダーマードはそう言って説得した。彼に説得されたことで、渋っていた者たちもようやく態度を決めた。皆、マルマリズへ行くことを決めたのである。
そうやって説得しているうちに、ダーマードはふとあることに思い至った。あのような手紙を送ってきた、ジノーファの意図についてである。ジノーファは恐らく、ダーマードらが本当に自分を王として敬うつもりがあるのか、試しているのだ。
もし敬うつもりがないと思われれば、ジノーファはクワルドを腹心と頼み、ロストク帝国を後ろ盾として国を治めるだろう。その時、ダーマードら貴族たちの立場はどうなるのか。
ジノーファはガーレルラーン二世ほど冷徹な態度は取らないだろう。だが「傀儡になるつもりはない」と言っていたし、その上で貴族らが敬う態度を取らないなら、彼は相応の対応をするに違いない。
すぐに考え付くのは交易だ。ロストク帝国との間で行われる交易から、貴族たちは排除されるかもしれない。排除はされずとも、歓迎もされないだろう。例え財政が厳しくならずとも、活発な貿易を傍で見ているだけというのはなかなか辛い。他にもどんな手を打ってくるのか。考えるだけで、背筋が寒くなる。
ダーマードは己の判断に心から安堵した。そしてジノーファを侮ってはならぬと自分に言い聞かせる。彼は自力でマルマリズを手に入れた。さらにロストク帝国の後ろ盾もある。彼はもう、ただの無力な浪人ではないのだ。
さて、マルマリズにやってきたダーマードを、ジノーファは太守府で出迎えた。独立と建国の宣言はまだだが、太守の椅子に座る彼はすでに王者の風格を漂わせている。彼の前でダーマードは自然と片膝をついた。
「ジノーファ様。ネヴィーシェル辺境伯ダーマード、御前に参上いたしました」
「よく来てくれた、ダーマード。卿が来てくれて、わたしも嬉しい」
わざわざダーマードと同じ目の高さになって彼の手を取り、ジノーファは穏やかに微笑んでそう言った。ガーレルラーン二世であれば、このようなことは決してするまい。そう思うと、ダーマードはなんだか無性に感激してしまい、彼の手を両手で握り返した。
その後、ダーマードとジノーファは少し話をした。魔の森のことや、辺境伯領のことだ。特に密貿易ができなくなったことを、ジノーファは気にしていた。
「ご心配には及びませぬ。確かに物流は減ってしまいましたが、そもそも密貿易は永遠に続けるわけにはいかぬもの。防衛線の維持も不安はありませぬし、今はロストク帝国と正式に交易できる日を心待ちにしております」
「そうか。なら良かった。……ところで、誓詞は持ってきただろうか?」
「無論でございます。こちらに」
そう言ってダーマードは懐から建国の誓詞を取り出し、ジノーファに差し出した。彼はそれを受け取ると、中を確かめてから一つ頷く。そして彼はダーマードにこう尋ねた。
「ダーマード、クワルドもここへ名前を記させたいと思うのだが、良いだろうか?」
「ご随意に」
ダーマードは恭しくそう答えた。ジノーファは一つ頷くと、誓詞をクワルドへ手渡す。彼は誓詞を広げると、末席に名前を連ね、さらに他と同じように血判を押した。そして誓詞をジノーファに返す。そこに書かれたクワルドの名前を見て、彼は満足げに微笑んだ。
「これでクワルドもわたし達の同志だ。クワルド、ダーマード、これからも頼むぞ」
「御意」
「ははっ」
それから彼らは場所を移し、建国に向けたことを、そしてその後の事柄を話し合った。その中でダーマードが少し気になったのは、ジノーファが他の貴族について一切言及しなかったことだ。その様子を見て、「やはり彼は自分たちを試していたのだ」とダーマードは思った。
だからこそ、ダーマードはその夜に自分の部屋を訪ねてきた来客の顔を見て驚いた。彼を訪ねてきたのはジノーファの従者であるユスフだったのだ。話があるという彼を部屋に入れ、ダーマードは彼と差し向かって座る。そしてこう尋ねた。
「それでユスフ殿、ご用件は?」
「実は閣下に折り入ってお願いしたいことがあり、こうしてお訪ねさせていただきました。実は、まだマルマリズに来られていない方々に、閣下のほうからもお手紙を書いて欲しいのです」
「ほう。それは、それは……」
ユスフの頼み事を聞き、ダーマードは興味深そうにそう呟いた。ユスフの頼み事とはつまり、誓詞に名前を連ねながらも、まだマルマリズに来ていない貴族たちに対し、ダーマードのほうからも説得の手紙を送って欲しい、ということだ。
ダーマードはマルマリズに来るまでに、道すがら他の貴族たちを説得してきた。そしてその反応は良いものだったが、誓詞に名前を連ねた貴族を全て説得できたわけではない。やはりまだ、来ることを渋っている者もいるのだ。
「なぜ、そのような事を?」
「独立と建国の宣言の際、誓詞に名前を連ねた方々が全員揃っていなければ、新王国の一致団結した姿を内外に示すことができません。それは他国の、特にガーレルラーン二世の付け入る隙となりましょう。
また全員が揃わなければ、ジノーファ様の、陛下の威光と尊厳に傷がつきます。独立し、いよいよこれから船出というときにケチがつけば、イスパルタ王国は他国の笑い者にされかねません」
ユスフはすらすらとそう答えた。それを聞いてダーマードも頷く。彼の言っていることは理解できるし、納得もできる。そして手紙を送るのなら、確かにダーマードこそが適任者だろう。だが彼はすぐに同意するのではなく、さらにこう尋ねた。
「ではこの件は、ジノーファ様のご意向と考えてよろしいのですな?」
「陛下の御心に沿うものと確信しております」
「なるほど、なるほど」
ユスフの返答を聞き、ダーマードはにんまりと微笑み何度か頷いた。大よその事情を察したのだ。
ユスフはこの件をジノーファの意向だとは言わなかった。つまり表向き、これはユスフの頼み事であり、ジノーファの頼み事ではない。しかしユスフが主の意向を無視してこんなことをするはずがない。
要するに本来、これはジノーファの頼み事なのだ。しかし今、彼は貴族たちを試している側。おいそれと歩み寄ることはできないし、また弱みを見せるわけにもいかない。それで従者の独断と言う形で話を持ってきたのだ。
(ただ……)
ただ、この少々迂遠なやり方は、ジノーファの発案ではないように思えた。彼ならもっとも真っ直ぐに、それこそ自分で頼みに来るだろう。恐らくだがクワルド辺りに相談して、こういう仕儀になったに違いない。
「分かりました。この件、お引き受けしましょう」
ダーマードはそう応えた。どのような裏事情があるにせよ、彼はとことんジノーファを支持すると決めたのだ。ならばこの程度のこと、協力するのは当然である。
ダーマードの返事を聞くと、ユスフはほっとした顔をして「では、お願いします」と言い、一礼してから彼の部屋を辞した。ユスフを見送ると、ダーマードは早速手紙を書き始める。筆のすべりは軽やかだった。
ユスフとダーマードが話をしていた頃、ジノーファの方はクワルドと話をしていた。彼はクワルドにあるリストを見せる。渡されたリストを一瞥してから、クワルドはジノーファにこう尋ねた。
「ジノーファ様、これは?」
「ウファズの商人たちのリストだ」
そう言われ、クワルドはもう一度リストに目を落とす。なるほど、確かに彼の知る名前がちらほらとある。彼らは確か、交易で儲けている商人たちだったはずだ。彼の知らない名前もあるが、これも商人であるか、その関係者なのだろう。
さらにそのリストには、それぞれの商人が取り扱っている商品や、どこの商会と取引があるのかも記されている。なかなか詳しく調べられていて、ちょっとした諜報機関の報告書のようだ。
(しかしこれほどの人数、一体どこでお調べになったのか……)
リストをめくりながら、クワルドは内心で舌を巻いた。ジノーファはつい最近までロストク帝国にいたはずなのに、こうしてウファズの詳しい内情を知っている。そのことがクワルドに、得体の知れない凄みを覚えさせた。
実のところ、このリストはシュナイダーのところで見せてもらった資料を参考に作ったものだ。ウファズは優良な貿易港であるから、そこを重点的に調べるのは当然のことで、かなり詳細な資料が揃っていた。ジノーファはそれを利用したのである。
とはいえ、ジノーファもそんな事情をいちいち説明したりはしない。代わりに彼はクワルドにこう尋ねた。
「そこに名前のある者たちと接触して、ウファズに味方を作りたいと思うのだが、どうだろうか?」
「……よろしいかと存じます。ただ、相手は商人です。交渉するにしても、利を見せればやりやすいかと思います」
「ああ、分かっている。だから……」
あらかじめ考えておいたのだろう。ジノーファは商人たちに提示する条件をすらすらと口にした。それを聞いてクワルドも頷く。ウファズの商人だけを優遇する案ではないが、それでも確かに商人たちが食いつきそうな餌だった。
「それだけ約束してやれば十分でしょう。リストもありますし、上手くいくはずです。ただ秘密裏に動く必要があります。バハイルにやらせましょう」
クワルドはそう答えた。バハイルとは、彼の次男のことである。かつて防衛線の指令所に忍び込んだこともある男で、適任であるように思われた。ちなみにクワルドの長男は名をエクレムといい、今は父親と一緒にジノーファを支えてくれている。
ジノーファとクワルドがさらに幾つかの打合せを行っていると、そこへユスフがダーマードのところから戻ってくる。彼が無事に手紙の件を頼めたことを報告すると、ジノーファも安堵の笑みを浮かべた。
「ダーマードが手紙を書いてくれれば、他の者たちも来やすいだろう。それでも来たくないというのなら、もうどうしようもないが……」
後半部分を小さく呟き、ジノーファは少し顔を曇らせた。彼は「貴族たちを試す」とはっきり宣言していたはずなのだが、それでもやはり心配なのだろう。ただし、彼が心配しているのは自分の権威が傷つくことではない。来た貴族と来なかった貴族の間に亀裂が生じ、後者が後でいわば報復を受けるのではないかと、それを心配しているのだ。
マルマリズを押さえ、さらに東域で最有力の貴族であるダーマードがジノーファ支持を明確にした以上、もはや他の貴族の支持はどうしても必要というわけではない。誓詞に名前を連ねている全員が来ようが来るまいが、ジノーファはマルマリズで独立と建国を宣言する。それはもう確定事項だ。
幸い、このまま行けば半分以上の者たちはマルマリズに集まるだろう。すると来なかった者たちは少数派になる。多数派から見て彼らの振る舞いが好ましくないのは明白で、それが原因で禍根が残ったり、報復感情が生まれたりするかもしれない。
ジノーファが危惧しているのはそういうことだった。だからこそ、ユスフを通じてダーマードに手紙を書いてもらうことにしたのだ。いわば身内からの言葉のほうが、受け入れやすいだろうと考えてのことである。
(お優しいことだ)
ジノーファの様子を見て、クワルドは内心でそう呟いた。例えばこれがガーレルラーン二世であれば、彼は貴族達のことなどまったく気にかけなかっただろう。むしろそれを口実に冷遇し、力をそいで影響力を排除しようとするに違いない。
それと比べると、ジノーファのやり方は優しいのを通り越して、いっそ甘いとさえ言える。クワルドも無論そう感じてはいたが、その一方でジノーファがガーレルラーン二世と同じようになって欲しいとも思わない。
そうであるなら、ジノーファの「優しさ」を認めたうえで、彼を支えていくより他ない。それこそがクワルドの選んだ主であり、そして王なのだから。
□ ■ □ ■
大統歴六四〇年六月十七日。この日は風も穏やかで、気持ちのよい青空が広がっていた。そしてこの日、マルマリズの太守府において、アンタルヤ王国からの独立とイスパルタ王国の建国が、ジノーファによって宣言されたのである。
式典に参列する者たちの中には、誓詞に名前を連ねた者たちが全員揃っている。ダーマードの説得が功を奏したのだ。彼らが全員揃ったことに、ジノーファは喜ぶよりむしろ安堵した様子で、それがユスフの印象に残った。
ジノーファは今、バルコニーから群集に向かって建国の誓詞を読み上げている。彼は国王らしく豪奢な衣を纏っていたが、彼の頭に載っているのはオリーブの若枝で編んだ冠だった。
黄金と宝石で作られる予定の王冠は、まだ用意されていない。今後、国内が落ち着いてから正式な戴冠式を行う予定だった。仮でも良いのでこの日のために王冠を作るべきではないかという意見もあったが、これはジノーファが却下した。
『いかにも急造なら、わざわざ取り繕う必要もない』
彼はそう言ったと、後世には伝わっている。またユスフの手記には、「戴冠式までには家族を呼び寄せたい」との趣旨の言葉を話していたと書かれている。
さて、誓詞の朗読も佳境を向かえようとしていた。ジノーファは朗々とした声でついにイスパルタ王国の建国を宣言する。
「我々はアンタルヤ大同盟の精神を受け継ぎ、人類の守護者たらんとすることを誓う。天と地よ、照覧あれ。太陽と月も、刮目せよ。ここにイスパルタ王国の建国を宣言する!」
その瞬間、ラッパが鳴り響き、白いハトが空を飛んだ。万雷の拍手と歓声が鳴り響く中、一本の旗が掲げられる。白地に青い糸で描かれているのは双翼図。イスパルタ王国の旗である。
掲げられた旗を見て、群衆の熱気はさらに増した。ジノーファは彼らに手を振って応える。この時の情景を、参列していた貴族の一人は次のように書き残している。
『降りそそぐ陽光の下、ジノーファ陛下の髪は銀色に輝いて見えた。それが陛下と言う存在にさらなる精気を与え、群衆は若き英雄を新たな王として迎えることに、歓呼の声を上げていた』
この日、歴史上にイスパルタ王国が姿を現した。建国の時点でイスパルタ王国の国土は二六州。王都はマルマリズに定められた。
クワルド「おお、我らが王よ……!」