報告
ジノーファは王となることを承諾した。ただ彼にも都合がある。もろもろ筋を通すためにも、彼は一度ロストク帝国へ戻ることを望み、ダーマードたちもそれに理解を示した。どの道、後ろ盾を得るためには帝国と協議しなければならず、その際の適任者はジノーファしかいない。
「誰か、同行させましょうか?」
「いや、大半はわたしの問題だ。ケリは自分でつける」
ジノーファはそう言って同行者を断った。そもそも、東域を独立させるという話は極秘事項であり、ダーマードらの身内でさえ知る者は少ない。その中から同行者を出すとなると、責任ある立場の者と言うことなり、そういう者が抜けると後のことに支障がでる。ダーマードらとしても引き下がらざるを得なかった。
それはそうとして、帝都ガルガンドーへ戻る前に、やっておくべきことが幾つかあった。その一つが誓詞の作成だ。つまり「ジノーファを王としてアンタルヤ王国から独立する」という密約を正式に書面にしたため、そこに署名して血判を押すのである。後の世に言う、「イスパルタ王国建国の誓詞」である。
歴史的に見て極めて重要なこの儀式は、指令所の一室で行われた。誓詞ではまず魔の森の活性化に触れ、その対応のためと称して行われた王太子イスファードやエルビスタン公爵の専横を批判している。「一方的な搾取は強盗と同じ」であり、それを行う者たちを「獅子身中の虫」と非難した。
さらに、それを掣肘もしなければ他に有効な手立てを講じることもないガーレルラーン二世を、「王の王たる資格なし」と断じている。そして「ガーレルラーン二世の態度は忠臣を死地へ追いやるものである」とし、「アンタルヤ大同盟の精神はすでに失われた」と誓詞は言葉を続けた。
これは、大きな意味を持つ言葉だった。アンタルヤ王国はアンタルヤ大同盟を基としている。その精神が失われたということは、つまり王国は大同盟の後継者たる資格はないと言っているに等しい。そしてその上で、誓詞はこう宣言している。
『我々はアンタルヤ大同盟の精神を受け継ぎ、人類の守護者たらんとすることを誓う。天と地よ、照覧あれ。太陽と月も、活目せよ。ここにイスパルタ王国の建国を宣言する!』
誓詞にはまず、代表者としてジノーファが名前を書き、それから血判を押した。続いてダーマードが同じようにし、他の貴族たちもそれに続く。全員が署名を終えて、誓詞は完成した。これでもう本当に後戻りはできない。
完成した誓詞は、誰の目にも触れないよう、当面はダーマードが金庫で保管することになった。次に誓詞が日の目を見るのは、恐らくイスパルタ王国の建国を大々的に宣言するときとなるだろう。
次に話し合われたのは、イスパルタ王国の旗についてだった。独立を宣言すれば、アンタルヤ王国との戦争は避けられない。その時、全軍の先頭に翻ってこれを導く旗が必要になる。
旗の紋様は、さほど紛糾することなく決まった。ジノーファの聖痕の紋様をそのまま使うことになったのだ。集まった貴族の中に、ダルヤン男爵ルステムという絵心のある者がいて、彼がジノーファの聖痕を紙に書き写した。
「……完成いたしました」
書き写された自分の聖痕を見て、ジノーファは「おや」と思った。数年前にもこうして聖痕を書いてもらったことがあったが、その時と比べ聖痕がより大きく、そして複雑になっている。それが、自分が成長した証のように思えて、彼は小さく微笑んだ。
ジノーファの聖痕は、鳥が両翼を広げたときのような意匠をしている。それでこの時に書き写された絵図は、後に双翼図と呼ばれるようになった。そしてイスパルタ王国のシンボルとして広く知られるようになるのだが、それはもう少し先の話だ。
ちなみにこの双翼図はイスパルタ王国の玉璽にも使われた。ただしそのまま使われたのではなく、双翼と共に双剣が描かれた。これは無論、ジノーファの得物を由来としてのことである。
さて、この他にもさらに幾つか話し合うと、ジノーファは指令所を離れて帰路についた。他の貴族たちも、それぞれ自分の領地へ戻っていく。そこで各自が独立に向けた準備を整えるのだ。そしてジノーファもまた、やるべきことをやらねばならない。
ダンジョンの中を移動している最中、ジノーファはユスフとノーラに自分達の計画を簡単に告げた。彼の話を聞き、ユスフは目を輝かせたが、ノーラは可哀想なくらいに狼狽する。そんな話を聞かされて、どうすればいいのか分からなかったのだ。
「あの、その、わたしは、どうすれば……?」
「ダンダリオン陛下とシュナイダー殿下には、わたしのほうから話す。だから報告を少し待って欲しい」
ジノーファがそう頼むと、ノーラは「わ、分かりました」と言って何度も頷いた。ジノーファも一つ頷くと、次にユスフのほうに目を向け、彼にこう言った。
「シェリーや屋敷のみんなにも、わたしの方から説明する。だからユスフも、人には話さないでくれ」
「分かりました。準備だけ進めておきます」
「うん、ありがとう。……それじゃあ、肉でも食べようか」
明るくそう言って、ジノーファは焼き上げたドロップ肉のステーキを切り分ける。そうしているうちにいつもの調子が戻って来て、彼らはミスなくダンジョンを抜けることができた。
船に乗り、帝都ガルガンドーへ向かう。その間、ジノーファはいつもと変わらない様子で過ごしていた。あまりにいつもと変わらないので、ユスフやノーラのほうが緊張してしまった。
ガルガンドーに到着すると、ジノーファはまず密貿易に関わる仕事を終わらせた。その時も淡々とした様子で、世界を驚かせる企みの中心にいるようには少しも見えない。そして仕事を終わらせると、彼は真っ直ぐ屋敷に帰った。
そして、その日の夜。ジノーファは「話したいことがある」と言って、シェリーを部屋に呼んだ。部屋にやってきた彼女に、ジノーファはダーマードらと話し合った計画について話す。
「そう、ですか……。ジノーファ様が、国王に……」
話を聞き終えると、シェリーはどこか呆然とした様子でそう呟いた。話が大きすぎて、理解が追いついていないのだ。そんな彼女の肩を抱きながら、ジノーファはさらにこう言葉を続けた。
「相談もせず、勝手に決めてきてしまってすまない」
「いえ、それはいいのです。少し驚いてしまいましたが、ジノーファ様がご自分でそうお決めになったのなら、わたしはそれで良いのです。ただ、陛下がどう思われるか……」
ダンダリオンは貿易港を手に入れるため、アンタルヤ王国へ遠征軍を送る計画を温めている。そしてその総司令官はジノーファだという。さらに遠征後は彼を総督とし、旧王国領を治めさせるつもりでいる。
だがジノーファらの計画が動き出せば、当然ダンダリオンの計画は頓挫することになる。それをダンダリオンがどう判断するかは、シェリーにとっても未知数だ。最悪、怒りを被ることになるかもしれない。彼女はそれが気がかりだった。
「陛下とも、できるだけ早く話をするつもりだ。ご理解いただけなければ……、まあ、その時はその時かな」
「まあ」
行き当たりばったりなジノーファの方針を聞いて、シェリーは少し呆れたように笑った。ただ本気で心配しているようには見えない。なんだかんだ言っても、彼女は彼女なりに、ジノーファのこともダンダリオンのことも信頼しているのだ。
だから、これがジノーファとダンダリオンの間の計画なら、シェリーは何の心配もしなかっただろう。しかし今回の計画を企てているのは、アンタルヤ王国東域の貴族たちである。
彼らはファリク王子の擁立に失敗したから独立を画策しているのであって、その根底にあるのは自分たちの権益を守ることだ。彼らをまったく信用するのは危険ではないか。シェリーにはそう思える。それで彼女はジノーファにこう尋ねた。
「ジノーファ様は、どうしてこの計画に加わろうと思われたのですか? 辺境伯らがまず考えているのは、結局のところ自分達の権益です。それはジノーファ様も承知しておられるのでしょう?」
「そうだね。ダーマードたちがあくまで派閥の理論で動いているのは、わたしも分かっているよ。だけど、だからこそ、そこに終始させてはいけないと思うんだ」
「ジノーファ様なら、それができると?」
「まあ、努力はしてみるつもりだ」
そうは言いつつも、ジノーファの決意は固い。シェリーにはそれが分かった。そして彼女はそれが嬉しくもあった。ついにジノーファが、彼女の胸で泣いていたあの少年が、立ち上がって自分の道を歩み始めるのだ。
「分かりました、ジノーファ様。わたしも動けるようになってきましたし、お手伝いいたしますわ」
「ああ、いや、その……。シェリーには、ここで待っていて欲しいんだ」
ジノーファが己を賭して一大事業に臨むというのだ。シェリーは当然、傍にあって彼を助けるつもりだった。しかしジノーファはついて来ることなく、むしろ待っていて欲しいという。
「陛下には、シェリーたちのこともお願いするつもりだ。もちろん、情勢が落ち着いたら呼び寄せる。それまで、ここで待っていて欲しい」
「そんなっ! イヤです!」
「ベルの傍にいてやってくれ。あの子を、わたしのようにはしないで欲しい」
「う、うぅ~」
ジノーファにそう説得され、シェリーは不満げにそう唸った。彼が幼い頃に親から愛情を注がれずに育ったことは、シェリーも知っている。それが彼の心の傷となっていることも、また。そしてその傷は、普段はなんともないのだが、ふとした拍子に今でも痛み始めるのだ。
その同じ思いを、息子にはさせたくない。ジノーファのその気持ちは、シェリーにも痛いほど分かった。だからそう言われてしまうと、もう何も言えなくなってしまう。それが何だか悔しくて、また何もできないことが苦しくて、彼女は小さくこう呟いた。
「……卑怯です」
「うん、ごめん」
そう言ってジノーファはシェリーを抱きしめた。彼の胸に縋りつきながら、シェリーは精一杯不機嫌な声を出す。
「許しません」
「うん」
「本当に、許さないんですからっ」
そう叫んで、シェリーはジノーファをベッドに押し倒した。
□ ■ □ ■
シェリーと夜を過ごしたその次の日。ジノーファはダンダリオンに謁見するべく、宮殿へ向かった。すでにシュナイダーを通じて申し込みはなされており、ジノーファは少し待たされただけで、ダンダリオンの執務室へ通された。
ジノーファはまず、ダーマードが企んでいたファリク王子の擁立について、それが失敗したことを報告する。彼から事の仔細を聞くと、ダンダリオンは呆れたように口元を歪めこう言った。
「焦りすぎたな。まあ、横槍を入れられたくない気持ちは分からんでもないが」
もっともダンダリオンに言わせれば、横槍を入れられたくらいで企みが頓挫するなら、それは計画段階で無理があったのだ。要するに、ダーマードらの視野が狭かった、ということだ。
「それで、辺境伯らはこれからどうするつもりなのだ?」
椅子の背もたれに身体を預け、ダンダリオンはそう尋ねた。彼の口元には皮肉気な笑みを浮かんでいる。これだけ大きな醜態を曝したのだ。ダーマードらは国内で完全に孤立してしまったに違いない。
彼らは勢いよく先走った挙句、盛大に躓いてしまったのだ。となれば、頼れるのはロストク帝国のみ。ジノーファを通じて、さらなる支援を求めてきたのだろう、とダンダリオンは思った。それは間違っていなかったのだが、次のジノーファの言葉は彼の想像の範疇を超えていた。
「ダーマード殿は、アンタルヤ王国の東域を独立させるつもりです。他の貴族の方々も、すでに賛同されています」
「……独立だと? 国を興すというのか。豪儀なことだが、一体誰を王とすつもりだ?」
ダンダリオンの声には、嘲笑の響きがあった。実際、彼はこの企みが成功するとは思えなかった。王となるのは恐らくダーマードであろうが、彼の求心力は低下している。新王国は結束力を欠くだろう。
帝国としては、実に結構なことである。ダンダリオンはそう思ったが、ジノーファの顔を見てどうやら何か違うらしいと悟る。彼は穏やかに微笑みながらも、真っ直ぐにダンダリオンを見ていたのだ。
「ジノーファ。お主、何を考えている?」
「はい。今日はそのことをお話しするために参りました。実はこの度、ダーマードらと一緒に、一国建ててみようかと考えています。つきましては、ご支援のほどを賜りたく……」
ジノーファが滑らかにそう答えると、対照的にダンダリオンは絶句した。彼は何度か口を開きかけ、その度に言葉を飲み込んだ。そしてたっぷりと時間が経ってから、ようやく彼はこう尋ねた。
「…………お前が、王になるのか?」
「はい。そのつもりでございます」
「そう、か……」
そう呟いて、ダンダリオンは顎先に手を当て、何事かを考え込んだ。それからジノーファの方へ視線を向ける。困惑はすでになく、その視線は鋭い。さらに彼の顔に、炎のような紋様が表れて赤く輝く。ダンダリオンが聖痕を発動させたのだ。そして彼はこう尋ねる。
「ジノーファよ。ロストク帝国が貿易港を求めていることは知っているな?」
「はい。陛下」
押し潰さんとするかのようなプレッシャーのなか、ジノーファは怯むことなくダンダリオンの目を真っ直ぐに見てそう答えた。その天晴れな態度に頬が緩みそうになるのを堪えながら、ダンダリオンはさらにこう詰問した。
「そうでありながら、お前は新たな国を建てるという。そなた、帝国に盾突くつもりか?」
「畏れながら、ダンダリオン陛下にお尋ねいたします。陛下はウファズに遷都することをお考えなのでしょうか?」
ウファズとは、アンタルヤ王国の東域にある、優良な貿易港のことである。王国の貿易港の中ではロストク帝国に最も近く、そのためまず狙うとすればここになる。
「いや、遷都は考えていない」
ダンダリオンはそう答えた。なるほど、確かにウファズは貿易港として栄えている。しかし併合したばかりの都市に都を移すなど、正気の沙汰ではない。それで彼の返答は十分に予測できるもので、それを受けてジノーファはさらにこう言葉を続けた。
「ではロストク帝国の政治と経済の中心は、あくまでもここガルガンドーということになります。そうであるなら陛下にとって重要なのは、ウファズを手に入れることよりも、ガルガンドーとウファズを陸の交易路で繋げることではありませんか?」
「ふむ。まあ、そうともいえるな」
「さらに、手に入れたからには統治しなければなりませぬ。またガーレルラーン二世も黙ってはいないでしょう。占領地を維持するために、多大な労苦を強いられる恐れがあります。それならいっそ土地には拘らず、交易の甘い果実だけを手に取るという方法もあるのではないでしょうか」
「ジノーファ。お主、意外と良く口が回るな」
「恐縮でございます」
ジノーファがそう答えると、ダンダリオンは苦笑を浮かべて聖痕を消した。そして彼はもう一度考えをめぐらせる。
確かにジノーファの言うことも一理あるのだ。ウファズを手に入れ交易で稼いだとして、占領地を維持するためのコストがそれを上回っていては意味がない。ロストク帝国はストローで甘い蜜を吸いたいのであって、蜜の中で溺れたいわけではないのだ。であれば、面倒なことは新王国に丸投げしてしまうのも一つの手であろう。
(それに……)
それに、現在も続いているランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争のこともある。この戦争の趨勢がはっきりするまでは、アンタルヤ王国に大規模な派兵はできない。だが新王国との間で自由な交易が行えるなら、それはそれでロストク帝国の利益に繋がる。
「ところでジノーファよ。新たな国の名は何と言う?」
「イスパルタ王国、と申します」
「なるほど、な」
ダンダリオンはそう言って小さく笑った。
シェリーの一言報告書「ジノーファ様ったらヒドいんですよ? わたしを置いていくなんて!」
ダンダリオン「報告書の体裁で愚痴を連ねるのはやめてくれ……」