決意
『ジノーファ様、どうか我らの王となっていただけますように』
跪き、私はジノーファ陛下にそう懇願した。その時、陛下はすぐには応えられず、ただ小さな笑みを浮かべられた。今でも鮮明に思い出す。それはゾッとするほど、美しい笑みだった。
――――ネヴィーシェル辺境伯ダーマードの手記より
□ ■ □ ■
密貿易のため、いつものように防衛線の指令所を訪れたジノーファは、その日、ある予感を抱えていた。ただの勘みたいなものだが、根拠がないわけではない。時間的にそろそろだと思うのだ。
(さて、どうなったかな……)
ダーマードらが画策したファリク王子の擁立。その企みがどうなったのか、結果がそろそろ出ているはずだ。うまくいったのか、あるいは失敗したのか。ジノーファのところには何の情報も入っていない。いずれロストク帝国の諜報部も情報を掴むのだろうが、それよりも早く本人たちから結果を聞くことになりそうだ。
ただし、ジノーファが気にしているのは、陰謀の成否そのものではなかった。特に失敗していた場合について、その後の展開に自分が大きく関わることになるかもしれない。そう考えているからこその予感だった。
ではなぜ、ジノーファはそんな大それたことを考えているのか。それは彼がダーマードの思考を誘導したからだ。いや、誘導と言うほど大それたことはしていない。たった一言、彼の脳裏に種をまいたのだ。その種が芽を出しているのかいないのか。彼が気になっているのは、要するにそこだった。
(最初の一手、なんていうつもりはないけれど……)
それは世界と社会への自己主張。定められた轍を往くだけなら、する必要のなかった事柄。わずかな慄きと後ろめたさを感じながら、ジノーファは表面上なんでもない様子を装う。そしてダーマードから「話したいことがある」と言われたとき、彼の覚える予感は大きくなった。
南側の城壁の上、いつぞやファリク王子擁立の企みを聞いたのと同じ場所で、ジノーファはダーマードを待つ。今日は人の往来が多く、眼下には活気ある光景が広がっている。見ていると、皆表情が明るい。生活が困窮していない証拠だ。ジノーファの顔が自然とほころぶ。そして後ろから、そんな彼を呼ぶ声がした。
「お待たせしました。ジノーファ様」
「……少々、無用心ではありませんか、ダーマード閣下」
そう言ってジノーファはゆっくりと振り向いた。そしてやや非難がましい、それでいて半分諦めたような視線をダーマードに、そして彼が連れて来た一団に向ける。そう、彼は一人で来たわけではなく、取り巻きをひきつれていたのである。
その上彼は、衆目があるところでジノーファの名前を呼んだのだ。事と次第によっては、ダーマードは反逆罪に問われかねないし、ジノーファも逮捕されかねない。普通に考えれば、これはそういう行いである。
「申し訳ありませぬ。ですがご安心ください。この者たちには、信用できると見込んだ上で、すでにジノーファ様のことを話してあります」
「で、しょうね」
やや不満げにとそう答え、ジノーファは視線をダーマードから彼の後ろにいる者たちへ移した。そこにいるのは、身なりからして全員貴族だ。数人、見知った顔も混じっている。確か東域の貴族たちだったはずで、どうやらダーマードの派閥に所属する者たちのようだ。ジノーファの視線を受けると、彼らは一様に拱手して頭を下げた。
ダーマードのことであるから、秘密を漏らしかねない者をここへ連れて来るとは、ジノーファも思っていない。それでも返答がやや憮然としたものとなったのは、予期せず大人数で来られ、なんだか逃げ道をふさがれたように感じたからだ。
(でもまさか、これは本当に……)
これだけの人数を集めておいて、さらにジノーファの名前を呼んでおいて、まさか報告だけということはないだろう。これはまさか、本当に予感が的中したかもしれない。ジノーファはそう思ったが、表面上は少々憮然とした態度を崩さないまま、ダーマードにこう話を振った。
「それで閣下、お話とは一体なんでしょうか?」
「……そうですな。まずお伝えしなければならないのは、ファリク王子擁立の件です。結論から申し上げますが、これは失敗いたしました」
ダーマードは表情を変えずにそう話した。そしてそのまま、淡々と経緯を説明する。強引にオルハン侯爵家邸に踏み込んだ話をすると、ジノーファはわずかに顔をしかめた。それを見てダーマードは苦笑し、さらにこう説明を続けた。
「……ですが、ユリーシャ夫人に阻まれましてな。あえなく退散した次第です」
それを聞いて、ジノーファは小さく安堵の表情を浮かべた。それを見てダーマードも内心、安堵の息を吐く。そしてまた、彼は説明を続ける。
その後、侯爵家には取り合ってもらえず、ダーマードらは王都クルシェヒルを離れた。ただし彼の置かれた状況は最悪に近い。その状況を打破するべく知恵を絞り、彼らはついに一つの結論を得たという。
「その結論とは?」
「ジノーファ様が仰っていたことです。つまり、東域を独立させます」
ダーマードがそう言うと、ジノーファはなるべく淡白に聞こえるよう、「ほう」と小さく呟いた。どうやら彼がまいた種は、しっかりと芽を出したようだ。ただし、彼が思い描くとおりに物事が進むとは限らない。それで彼はまずこう尋ねた。
「では今回のお話と言うのは、ロストク帝国を新たな王国の後ろ盾に、と言うことでしょうか? 書状を用意していただければ、ダンダリオン陛下にお渡しすることはできると思いますが……」
「いえ、そういう事ではないのです。もちろん、我々は帝国の後ろ盾を必要としています。ですが今回ジノーファ様にお話したいのは、そういう事ではないのです」
ジノーファの言葉を遮るようにして、ダーマードは彼にそう告げた。それを聞き、ジノーファは小さく首をかしげて「ふむ」と呟く。そしてこう尋ねた。
「では、どのような用件なのでしょうか? わたしにできる事が、他にあるとは思えませんが……」
「ご謙遜なさいまするな。ジノーファ様はご自分で思っておられる以上に、力も名声もお持ちです」
ダーマードにそう言われ、ジノーファは本気で苦笑を浮かべた。彼が言うような力や名声を自分が持っているとは、我がことながら信じられない。持っているように見えるなら、それは全て借り物だろう。だからこそ、こうして回りくどいことをやっている。
ただ、力や名声の有無が、今の話の論点ではない。というより、力や名声を持っていると勘違いしてくれていた方が、ジノーファとしては都合がいい。それで彼は苦笑を浮かべたまま、ダーマードに話の続きを促した。
「……話が逸れましたな。東域を独立させ、新たな王国を建てる。それが我々の目標です。ですが一つ、大きな問題がございました。つまり、誰を国王として仰ぐのか、ということです」
「……ファリク王子、ではありませんね。ではダーマード閣下ご自身が、王として立たれるのですか?」
ジノーファがそう尋ねると、ダーマードは少々苦い顔をして首を横に振った。ファリク王子擁立の企みが失敗する前なら、そういう選択肢もありえただろう。しかし今となっては、彼が王となるのは不可能だ。
「私など、到底その器ではありませぬ。他の者たちも、私を王とは認めないでしょう」
「では一体どなたを、王とされるおつもりなのですか?」
「我々が王として戴くべき方、それはジノーファ様、あなたでございます」
ダーマードははっきりとそう告げた。ジノーファは表情を変えなかったものの、しかし返事を返すこともしない。そんなジノーファに、ダーマードはまるで王に拝謁するときのように片膝をつく。彼の後ろにいる者たちもそれに倣った。そして彼はジノーファを見上げながら、さらにもう一度こう告げた。
「ジノーファ様、どうか我らの王となっていただけますように」
その瞬間、ジノーファは思わず小さな笑みを浮かべた。しかしまだだ。財宝を目の前にちらつかされてそのまま飛びつくのは、いかにも下品である。そもそも重大な話であればあるほど、軽々に承諾するのは危険だ。それでジノーファはまずこう答えた。
「ご冗談を」
「冗談ではありませぬ。ジノーファ様には是非、我らの王となっていただきたいのです!」
「わたしはどこの誰かも分からぬ出自です。民衆は支配者の血に貴きを求めるもの。わたしが王では、民衆が納得しないでしょう」
血筋で言うと、例えばダーマードなどは由緒正しい家系だ。辺境伯家はもとを辿れば、この地を治めた王家に行き当たる。そういう積み重ねられた歴史と伝統がなければ、権威は軽くなる。そして王家の権威を軽んじられては、国は立ち行くまい。ジノーファはそう話したが、しかしダーマードはこう反論した。
「血統など、しょせんは箔付けにすぎませぬ。それ以外に誇るものを持たぬ者どもが、ことさら声を大きくして言い立てるのです。ジノーファ様は聖痕持ちでいらっしゃる。そして絶望的な状況の中でスタンピードとロストク軍を退けた、救国の英雄であらせられる。ジノーファ様ご自身が、すでに貴き存在なのです」
「そうは言いますが……」
「ジノーファ様! 一国の王となるは男児の本懐ではありませぬか! 血筋云々と申されるなら、ご自身が開祖となられませ!」
ダーマードはそう言って、煮え切らない態度を取るジノーファは叱った。叱られたジノーファは苦笑を浮かべる。そしてこう、口を開いてこう言った。
「ダーマード」
この時初めて、ジノーファはダーマードのことを呼び捨てにした。それはつまり、目上の立場から話しかけた、ということだ。
そしてそれを聞き、ダーマードはぞわりと背中が粟立つのを感じた。在りし日を、ジノーファがまだ王太子であった頃を思い出す。あの頃と比べ、彼の声はずっと落ち着いていて、また深みを増したように思った。
「何でございましょう、ジノーファ様」
「殿を任されたあの時、わたしはあそこで死ぬのだと思っていた。死んでも、歴史に名は残る。ならば立派な名を残そう。そう思っていたよ」
ダーマードらから視線を外し、遠くを眺めながら、ジノーファは懐かしむようにそう語った。一陣の風がふいて、彼の灰色の髪がふわり舞い上がる。あの日あの戦場にも、こうして風がふいたのだろうか。ふとそんなことを考えつつ、ダーマードはジノーファにこう応えた。
「……事実、ジノーファ様は歴史に冠たる勲を残されました。そしてその上で生き残られた」
「運が良かっただけだ……。まあ、それはいいとして、歴史に名を残すとは、つまり名を上げるということだ。だから、わたしにその欲がないとは言わない。その上で言おう。卿らの提案を受けようとは思わない。わたしは傀儡の王になるつもりはない」
ダーマードらのほうに視線を向け、はっきりとした口調でジノーファはそう言った。するとダーマードは驚いたような顔をし、反論のため勢い込んで口を開く。
「傀儡にするなど、そのようなつもりは!」
「卿らにそのつもりはないかもしれない。だがこれは現実的な問題だ。わたしには拠って立つ基盤がない。あまりにも無力だ」
それはジノーファの本音だった。いくら聖痕持ちとはいえ、所詮は一人でしかない。家臣団を抱えているわけではなく、領地を治めているわけでもないのだ。特に固有の武力を持っていないのは致命的である。叛乱を起こされた場合、鎮圧する術がないのだから。仮に王座についたとして、これでは裸の王様といわねばならない。
それでもジノーファに対しては、ダーマードらも忠誠を尽くしてくれるかもしれない。ジノーファにはロストク帝国の強力な後ろ盾がある。さらに西にはアンタルヤ王国の脅威が残っている。国内はジノーファを中心にして纏まらざるを得ない。
しかし彼の子孫はどうだろうか。世代を重ねれば、ロストク帝国との結びつきも弱くなるだろう。そんなとき、力の弱い王家はどうなるだろうか。征服されるか、取って代わられるか。傀儡となって生き残ることができれば、むしろ幸運だろう。
自分の子孫にそんな過酷な未来を歩ませることは、ジノーファにとって望むところではない。子供が生まれたせいか、最近は特にそう思う。それくらいなら、ロストク帝国の一臣下として生きた方がよい。ジノーファは功名心を否定しなかったが、これもまた彼の本心だった。
「力のない者が王になるべきではないし、またそういう者を担ぐべきでもないと思う」
「ではなぜ、ジノーファ様はあの時独立などと言われたのですか!? ご自分でそれを考えておられたからではないのですか!?」
声を大きくして、ダーマードがそう言い募る。そんな彼に、ジノーファは表情を変えないままこう告げた。
「考えたのは事実だ。考えて、無理だと判断したから笑い話にした」
「……っ」
淡々と応えるジノーファをどう説得するべきか、ダーマードは咄嗟に言葉が出なくなった。それでも彼がなんとか言い募ろうとした時、その機先を制する格好で後ろから別の声が上がった。彼の後ろにいた、他の貴族である。
「で、ではジノーファ様。こうしてはいかがでしょうか。東域には幾つか天領が点在しております。これをそのまま全て、ジノーファ様と王家の所領とするのです。そうすれば、ジノーファ様も固有の基盤を持つことができます!」
その提案を聞き、ジノーファは「ほう」と呟いた。東域の天領には、この地域の中心的な都市であるマルマリズや、優良な貿易港であるウファズが含まれている。これを押さえることができれば、他の貴族らに見劣りしない力を得ることができるだろう。
「ええっと、済まないが……」
「エディネル子爵家現当主、マフムトと申します。一昨年に代替わりしたばかりですので、ジノーファ様がご存じないのも当然かと」
「ではマフムト。卿の意見は全員の総意だろうか?」
「それは……」
ジノーファの問い掛けに、マフムトは言葉を濁した。彼の意見は事前に話し合ったものではない。事前の話し合いでは、東域に存在する天領の半分をジノーファの所領とする、と言うことになっていた。そして残りのもう半分を、独立戦争の戦果として分配するつもりでいたのだ。
だが今になってみれば、それは随分とジノーファを侮った、そして自分たちに都合の良い取り決めだったとマフムトは思う。一旦担ぎ上げてしまえば、あとはどうとでもなる。弱い王のほうが都合は良いし、兵を出して戦うのだから、それを上回る利が欲しい。そういう驕った気持ちがなかったとは言えない。そしてそれをジノーファに見透かされてしまった。
それを感じ取ったからこそ、ダーマードも「天領の半分を」とは切り出せず、むしろ咄嗟に言葉が出なくなったのだ。ここで半分などと言えば、「半分くれてやるから、四の五の言わず王になれ」と言っているようなもの。その時、ジノーファは完全にそっぽを向くだろう。
忘れてはいけない。後がないのはジノーファではなく、マフムトら東域の貴族たちなのだ。ここでジノーファに見捨てられたら、彼らを待っているのは凋落と、それに続く破滅である。居丈高になって、偉そうなことを言っている場合ではないのだ。
そう思ったからこそ、マフムトは誰かが「半分」と言い出す前に「全て」と言ったのだ。ジノーファの覚えを良くしておきたいという、打算がなかったとは言わない。しかしそれを大きく上回っていたのは、前述したような危機感である。
ただ、マフムトの発言が打ち合わせなしの、唐突なものであったことは否めない。彼自身、有力な貴族とは言いがたく、強硬に反対されればその意見は潰されてしまうだろう。しかし幸運なことに、危機感を抱いていたらしい者は、彼だけではなかった。
「私も、マフムト卿の意見に賛同いたします」
別の貴族が、そう言ったのだ。それを皮切りにして、次々に賛同の声が上がる。そしてダーマードも賛同したことで、流れは完全に決まった。
「ジノーファ様、これでもまだ躊躇われるのですか!?」
「ジノーファ様!」
貴族たちがジノーファに詰め寄る。その剣幕に圧されたわけではないが、彼はついに頷いてこう言った。
「……分かった。皆がそこまでいうなら、やろう」
「おお……!」
ジノーファが承諾すると、ダーマードらは一様に平伏した。その様子を見つつ、ジノーファは手を強く握った。もう後戻りはできない。けれども彼は確かに小さく笑った。
この日より、ジノーファは王者の道を歩み始める。ただし、彼が実際に王者として名乗りを上げるのは、もう少し先のことである。
ダーマード「これほど緊張した謁見は初めてだ」