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ジノーファの忙しい日常


 大統歴六四〇年六月。ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争が始まって、およそ一年が経過した頃。ジノーファの屋敷で、立て続けに新たな命が誕生した。


 まずリーサがカイブとの子供を出産した。女の子で、エマと名付けられた。ちなみにリーサの妊娠が分かってから、屋敷では使用人の配置換えがあった。カイブはそれまで庭師として園芸の仕事を中心に働いていたのだが、今後は屋敷の中の仕事を優先して行うようになったのだ。


 これは今後、リーサの仕事量が減ると見込まれるからだ。その分をカイブがカバーするわけである。ただ、そうなると今度は彼が庭に手をかける時間が足りなくなる。それで手が回らなくなる部分は外注することになっていた。


「人手が足りないなら、使用人を増やしてもいいぞ?」


 ジノーファはそう言ったが、ヴィクトールはそうしなかった。今の人員で十分に仕事を回せると判断したのだ。今後、園芸の仕事を外注する分、維持管理費は増えると見込まれる。だがそれでも、新たに人を雇うよりは費用を抑えられる見込みだ。家令として、彼は無駄な支出には厳しかった。


 さて、新たな命を産み落としたのは、リーサだけではなかった。ラヴィーネもまた、五匹の子狼を出産したのである。子狼たちの身体をいとおしげに舐める彼女の姿は、もう立派に母狼だった。


「あの小さかったラヴィーネがなぁ……」


 ジノーファがまだ生まれたばかりの子狼ラヴィーネを拾ったのは、今からおよそ四年前のこと。ずっと成長する様子を見てきたこともあって、ただのペットではなくまるで娘のようにさえ感じる。その彼女の出産を向かえ、ジノーファも感慨深かった。


 ところでラヴィーネのお相手だが、実のところこれは妊娠が分かってからというもの、ずっと謎だった。何しろ彼女の近くには、それほどに親しげなオスの犬や狼はいなかったのだから。


 たまに近づいてくるオスはいたものの、ラヴィーネはそういう輩を歯牙にもかけない。実にそっけない態度を取り、それでも絡んでくるしつこいオスは、手酷く叩きのめして追い返していた。


 それで一体どこで種をもらって来たのか、ジノーファも不思議だった。だがその疑問はラヴィーネが産み落とした子狼たちを見た瞬間に氷解した。五匹の子狼たちのうち、三匹はラヴィーネと同じく真っ白な毛並みをしていたが、後の二匹は真っ黒な毛並みをしていたのだ。


「これは、ラグナが聞いたら喜ぶかな?」


「一匹か二匹くれ、と言うかもしれませんね」


 ジノーファとユスフはそう言って小さく笑いあった。少し先の話になるが、この五匹のうち、二匹は本当にラグナのところへ貰われていった。さらにもう二匹は、どこから話が伝わったのか、皇太子ジェラルドの息子ジークハルトのところへ貰われた。そして最後の一匹はルドガーの息子とのところへ貰われていった。つまりジノーファとラヴィーネのところには一匹も残らなかったのである。


「寂しいかい、ラヴィーネ?」


「クゥウン?」


 ジノーファが一人(一匹?)になってしまったラヴィーネの頭を撫でると、彼女はジノーファの顔を見上げながら不思議そうに首をかしげた。そんな彼女を見てジノーファは苦笑する。その様子はあまり寂しそうには見えない。人間ではなく獣なのだし、そんなものなのかもしれないな、と彼は思った。


 さてこの時期、ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争は、終わる気配を見せていない。そのため、ダンダリオンもアンタルヤ王国へ出兵する決断をなかなか下せずにいた。シュナイダーによるアンタルヤ王国東域への調略もまだ継続されている。その一環としての密貿易も続けられていた。


 当然、ジノーファも密貿易に関わる仕事を続けており、魔の森を経由して帝都ガルガンドーとネヴィーシェル辺境伯領を何度も往復していた。ちなみに密貿易には彼も出資している。さらなる増資もしたことで、彼はこの一年でずいぶんと稼いでいた。


 そのおかげで小さな商会といわず、中堅所の商会でさえ買収できそうな資産を、彼は蓄えていた。もっとも、ジノーファはそれを見せびらかして悦に浸るような性格はしていない。彼の暮らしぶりもほとんど以前と変わっておらず、そのため彼が大金を所有していることは、あまり周囲には知られていなかった。


 シュナイダーが密貿易を続けているということは、つまり直轄軍もまた、魔の森における活動を継続しているということである。昨年から今年にかけては、魔の森で越冬訓練まで行われた。


 ロストク軍が魔の森で活動するのは、主に訓練のためである。シュナイダーは「採算があう」と言っていたし、実際収支は黒字であると聞くが、直轄軍は傭兵部隊ではない。稼ぐことが彼らの目的ではないのだ。


 そして訓練がメインと考えると、魔の森で越冬訓練までするのは、危険が大きすぎるのではないか、とジノーファは思う。精兵を育てるために厳しい訓練を課すのは理にかなっているが、それをわざわざ魔の森でやる必要はないと思うのだ。


「継続的に攻略しておいたほうがリスクは少ない、って判断らしいぞ」


 密貿易に関する打ち合わせの際、そう教えてくれたのはシュナイダーだった。これまでの経験上、魔の森もダンジョンと同じく、継続的に攻略を行いモンスターを間引くことで、リスクの低減が見込めることが分かっている。直轄軍は今後も魔の森で活動を続ける見込みで、そのためには完全に撤退する期間を作らないほうがいい、という判断のようだ。


 とはいえ、それだけが理由ではないだろう。ジノーファは密貿易で魔の森を移動ルートに使っているが、それができるのは直轄軍がそこに陣を構えているからだ。直轄軍が越冬訓練をしているおかげで、ジノーファとシュナイダーは冬の間も密貿易を続けることができた。


 逆の見方をすれば、密貿易を続けさせるために、わざわざ直轄軍が越冬訓練をした、とも言えるのだ。密貿易はアンタルヤ王国東域調略の一環。そして調略はダンダリオンから下された勅命。決してありえない話ではないだろう。


「まあ、そういう側面はあるかも知れないな。だがそうだとしても、国益のために直轄軍が動くのは何も間違っちゃいない。お前さんが気にすることじゃないさ」


 シュナイダーは苦笑しながらそう言った。確かに彼の言うとおりではあるのだろう。だが前述したとおり、密貿易にはジノーファも出資していて、ずいぶんと稼がせてもらっている。そのせいか公私混同をしているように思えて、いくぶん気が退けるのだ。


「陛下は何も仰らないのですから、問題はありません。懐が暖かくなったとして、それは役得と言うものです」


 鼻息も荒くそう強弁したのはノーラだった。ただこれは彼女個人の意見と言うより、上司であるシュナイダーの意見と考えるべきだろう。実際、この密貿易で一番稼いでいるのは彼だ。公私混同を咎めるのなら、まずは彼を咎めねばなるまい。


「それに現実問題、冬の間も密貿易を続ける意味というか、理由はあるんです」


 声音を真剣なものにして、ノーラはそう言った。彼女はシュナイダーの下で調略の仕事にも関わっている。その彼女が言うには、密貿易を継続するべき理由は二つ。一つ目は、アンタルヤ王国東域に対する侵食を深めるためだ。


 その地域は現在、ほぼダーマードの派閥によって占められているわけだが、だからこそ王国の他の地域との交易が鈍化している。王太子イスファードとエルビスタン公爵による圧力のためだ。


 彼らの思惑としては、そうして圧力をかけることで、ダーマードらがを上げるのを待っているのだろう。実際、外圧によって経済規模が縮小したり、必要な物資が手に入らなくなったりすれば、防衛線の維持に支障が出かねない。


 そこへ密貿易による支援を行うとどうなるのか。第一に、ダーマードの派閥に対して恩を売ることができる。第二に、派閥間の対立が一層深くなる。そして第三に、王国東域のロストク帝国に対する経済的な依存度が上がる。つまり調略をより進めやすくなるのだ。


「特に、食糧の輸出は彼らにとってもいい稼ぎとなっています。搾り取られるだけだった東域の貴族たちは、かなり喜んでいますね」


 ノーラはそう語る。実際、収支が赤字から黒字にかわるのは、かなりのインパクトだ。そのインパクトをどう活用しているのかは分からないが、彼女の口ぶりからして、調略の手はかなり深くまで伸びているらしい。ジノーファとしては喜ぶべきなのだろうが、少々微妙な気分だった。


 そして密貿易を続けるべき理由の二つ目には、その食糧が関係していた。前述したとおり現在、ランヴィーア王国とイブライン協商国は戦争中だ。そして戦争では大量の兵糧が必要になる。


 特に協商国は肥沃な穀倉地帯を失い、さらに多数の傭兵を養う必要がある。そのため協商国は、備蓄する分も含めてなのだろうが、食糧の輸入を行っていた。その大口の輸入元が、アンタルヤ王国なのだ。


 要するに、イブライン協商国へ流れるはずだった食糧を、密貿易によってロストク帝国が買い上げているのだ。無論全てではないが、これは敵国の兵站への攻撃。同盟国への間接的な支援と言っていい。


 そうやって買い上げた食糧は、主に魔の森で活動する直轄軍が消費した。本国から調達するより、安上がりだったのだ。そうなると本国では、本来彼らが消費するはずだった食糧があまることになる。


 そうやって生まれた余剰分は、なんとランヴィーア王国へ輸出された。これもまた、同盟国への支援と言っていい。このように同時期に行われていた戦争が、冬の間も密貿易を続ける理由になっていたのである。


「戦争まで関係していたとは……」


 ノーラの説明を聞き、ジノーファは少し驚いた様子でそう呟いた。密貿易に従事していることからも分かるように、彼は今回の戦争には参加していない。ロストク帝国自体、今のところ二万の援軍を派遣しているだけだ。そのせいか、彼はこれまで戦争をどこか遠い国の事のように感じていた。


 全く無関係と思っていたのだが、ジノーファも密貿易を介して間接的に戦争と関わっていたことになる。そんな意識は少しもなかっただけに、彼はなんだか不思議な気分だった。それだけ戦争の影響は幅広く及ぶ、ということなのだろう。


 ちなみにランヴィーア王国へ輸出しているのは食糧だけではない。戦争のために必要なありとあらゆる物資が輸出されている。その中には密貿易で仕入れた物資(ダンジョン由来の資源など)も含まれており、そんなところでもジノーファは戦争と関わっていた。


「特に今回は、商人の国であるイブライン協商国が当事者だからな。そのせいもあるんだろう」


 大量の物資を消費する戦争と商人は切っても切り離せない。その商人が当事者になったのだから、物流の面でより大きな影響が出るのはむしろ当然。シュナイダーのその推論は納得できるものだった。


「ただ、そうなると少し気になることがあるんだよなぁ……」


「何ですか?」


 腕を組んで少し悩ましげな声を出すシュナイダーに、ジノーファはそう尋ねた。シュナイダーの気になることとは、アンタルヤ王国の他の地域で行われている交易の状況についてだった。それも特にイブライン協商国との交易についてだ。


「東域以外、特に南部からも、協商国に対して食糧等の輸出は行われているはずだ。ガーレルラーン二世も、優良な貿易港を天領として保有している。一体、どれだけ稼いでいるのやらなぁ」


 少々ぼやき気味になりながら、シュナイダーはそう話した。ガーレルラーン二世の財力が一体どれほどになっているのか。それはアンタルヤ王国の国土を狙うロストク帝国にとっても重大な問題である。


 最近では、魔の森の活性化や、イスファードとカルカヴァンが国内で派手に動いていることもあり、ガーレルラーン二世の動きは相対的に目立たなくなっていた。言ってみればその二人を隠れ蓑にしていたようなもの。交易は戦争が始まる前からずっと続けていたはずで、その間に彼は力を蓄えていたのだ。


「まあ、ガーレルラーン二世に隠れていたつもりはないんだろうけどな。こっちがあまり意識していなかったのは事実だ」


「はい。言われてみれば、その通りです。今後はガーレルラーン二世とその周辺の情報を重点的に集めます」


 ノーラは少し悔しそうにしながら、そう言って一つ頷いた。ただ、これには仕方のない面もある。


 密貿易が割って入っているのは、主にアンタルヤ王国の東域。派閥間の対立と言う問題もあり、ここは政治的にも経済的にも孤立気味の場所だ。だからこそ密貿易が露見する心配がないとも言えるのだが、その一方で他の地域の情報もあまり入ってこないのだ。決してノーラが情報収集を怠っていたわけではない。


 それでも彼女には痛恨事であったのだろう。ノーラは情報収集について決意を新たにする。その一方、ジノーファは口元に手を当てて何事かを考え込んでいた。それに気付いたシュナイダーが、彼にこう尋ねる。


「なんだ、ジノーファ殿。気になることでもあるのか?」


「いえ、大したことではないのですが……。ガーレルラーン二世はイスファード殿に大きな権限を与える一方で、肝心な部分はしっかりと抑えていたんだな、と」


「ああ、抜け目のないおっさんだよ」


 ガーレルラーン二世をおっさん呼ばわりしたシュナイダーに苦笑しつつ、ジノーファはさらに思案を続ける。大きな権限を与えられたことで、イスファードとカルカヴァンは力を増している。現在、アンタルヤ王国で最も勢いがあるのは彼らだろう。


 しかしガーレルラーン二世も負けてはいない。彼も力を保持しており、そして恐らくは増してさえいる。一方、人員や物資を徴発されたことで、アンタルヤ王国の貴族たちは総じて力を減じている。


(国内の勢力が、大きく三つに分かれつつある……?)


 つまりイスファードとカルカヴァンの派閥と、ダーマードを中心とする派閥と、ガーレルラーン二世が率いる勢力だ。この三つがそれぞれ北部、東部、南部に分かれる格好になっている。


(これは……)


 これは、ガーレルラーン二世の意図していることなのだろうか。思えば、ダーマードが派閥を拡大させるときにも、彼は何らその動きを掣肘することはしなかった。しかしそうは言っても、国内に対立構造を作ってどうするのか。大きく纏めてしまった方が制御しやすいと思っているのか、それとも……。


 ジノーファは難しい顔をしながら頭を振った。やはりガーレルラーン二世の思惑を予測するのは難しい。ノーラもこれから情報を集めるというし、それを教えてもらってからまた考えればいいだろう。そう思い、ジノーファはそれ以上考えるのをやめた。


 ともかくそのようなわけで、図らずも密貿易は当初考えていた以上に、その重要性を増していた。その影響がさまざまなところへ波及しているからだ。往復の回数も可能な限り増やされ、ジノーファは忙しい日々を送っていた。


「……よし、こんなもんか。そんじゃ、次もよろしく頼むぞ」


 シュナイダーのそんな言葉で打ち合わせが終わる。出航は明日。ジノーファはまた、ネヴィーシェル辺境伯領へ赴く。彼の運命の分岐点が、近づいていた。



シュナイダー「あのおっさん、商人のほうが向いてるんじゃないのか?」

ノーラ「あの強面で迫られたら、大抵の相手は頷いちゃいますねぇ」

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