魔の森とイスファード
アンタルヤ王国にとって魔の森の活性化は国家存亡の危機である。それを防ぐため防衛線で矢面に立っているイスファードは、実のところそれほどの危機感を抱いてはいなかった。むしろ彼は、この事態を心のうちで歓迎さえしていた。いや、歓迎と言うのは言い過ぎかもしれない。ただ、好都合であるとは思っていた。
魔の森の活性化と言う大きな問題を除けば、この頃、アンタルヤ王国を取り巻く情勢はおおよそ安定していた。ロストク帝国との間には不可侵条約の期間が残っており、ルルグンス法国はほぼ属国的な友好国。
イブライン協商国とも国境を接しているが、かの国とは交易の利を共にする間柄だ。そもそも協商国はその貿易港を他国に狙われている。わざわざアンタルヤ王国とまで対立することはしないだろう。
ただしこの情勢は、イスファードにとって好ましいものではなかった。武功が立てられないからだ。どこかで謀反でも起これば、それを鎮圧して功を得ることができるのだろうが、そのような気配はどこにもない。ガーレルラーン二世がエルビスタン公爵の派閥に行った仕置きの苛烈さが、国内の貴族たちを震え上がらせたのだ。
そこへ、魔の森が活性化するという事件が起こった。エルビスタン公爵カルカヴァンから支援の要請が来ると、ガーレルラーン二世の命令の下、イスファードは近衛軍三〇〇〇を率いて北へ向かった。
それからのおよそ一年間は、イスファードのそれまでの人生において最良の期間であったかもしれない。王太子として冊立され、これからと言うときに躓いて以来、ようやく華々しく活躍できるようになったのだから。
これより以前に、彼はエルビスタン公爵令嬢ファティマと盛大な結婚式を行っている。着飾った彼女は美しかったし、式典や披露宴も国家の威信をかけて行われた。国内ほとんど全ての貴族や代官たちが参列し、二人に祝辞を述べた。その様は王太子の結婚式として相応しく、イスファードもそれなりの幸福を覚えたが、その一方で満たされないものも感じていた。
その欠けたピースを、イスファードは剣を振るうことで埋めたのだ。思うままに兵を操り、押し寄せるモンスターの大群を殲滅する。戦場で失った信頼は、戦場でしか回復できない。彼は自らの軍事的才覚が非凡であることを証明したのだ。
人間相手の作戦ではなく、武功としてはいささか物足りなかったが、しかしだからこそ同情を覚える必要もない。イスファードはさまざまな戦術を考えては実行した。初陣でできなかったことを、ここぞとばかりにやったのだ。
「その様子はまるでおもちゃを与えられた子供のようだった」とカルカヴァンは書き残している。ただ、その全てである程度の成果を上げていたため、彼が見せたこの稚気がことさら問題になることはなかった。
むしろ、そうやって軍事的才覚を見せ付けることで、派閥の貴族たちはイスファードの評価を上方修正せざるを得なかった。それは彼が欲して止まなかった実績だ。彼は自らの力で口さがない者たちを黙らせたのである。
それまでは初陣の敗北や、一連の仕置きなどのことで、イスファードの評価はおよそ最低だった。「我らが仰ぐべき王として不安を覚える」と話す者さえいたほどだ。だが兵を手足のように操ってモンスターを駆逐していくその様は、彼に不満を抱いていた者たちでさえ認めざるを得ない。
「まあ、役立たずであるよりは良かろうよ」
苦し紛れにそう呟いた者もいたとか、いなかったとか。何にせよ、イスファードが防衛線で戦い始めてから、彼に対する陰口はかなりの程度減った。さらにその鮮やかな戦いぶりは、人心を着実に惹き寄せていく。
実際、着実に戦果を上げており、整った顔立ちをしていて、さらに王太子と言う身分も兼ね備えているのだ。特に防衛線を支える兵士達の間で人気が高まっていくのはむしろ当然であろう。
「ウチの王子様も、大したもんじゃないか」
「ああ、殿下についていけば、この魔境でも生き残れるな」
「他じゃあ、もう結構な被害が出てるって聞くぞ」
「本当か? じゃあ、ここはアタリだな」
兵士たちは口々にそう話した。そういう声はイスファードの耳にも届き、彼の自尊心を大いに満足させた。あのジノーファでさえ、これほど自在に兵を操り戦果を上げたことはない。彼の上に立てた気がして、イスファードは内心で安堵を覚えた。
「悪いわけではない、のだが……」
一方、カルカヴァンはイスファードのこの振る舞いに、あまり感心してはいなかった。前線で兵を指揮するイスファードの能力には、確かに目を見張るものがある。だがそれは大将の、王のやるべき事ではない。王は後方でどっしりと構え、全体の様子を見ながら差配を行うべきなのだ。
もっともカルカヴァンがこのことでイスファードに諫言することはなかった。彼はまだ若い。若い時分は分かりやすい武功が欲しいものだ。加えて彼の評判を回復するためにも、前線で活躍して見せるのは良い方法だった。実際、王太子が前線で剣を振るっているというのは、対外的な宣伝のために大変都合がいい。
(王太子殿下も、いずれしかるべき時が来れば、王として相応しい落ち着きを身につけられるであろう)
それまでは自分が支えればよい、とカルカヴァンは考えていた。そうすることで自分の影響力が増すことを十分に理解した上で、である。ともかくこの二人はうまい事かみ合っていたし、防衛線を維持していく上でそれは間違いなくプラスだった。
この、日ごとに増していく戦功に加え、ガーレルラーン二世から与えられた権限の大きさが、さらにイスファードを喜ばせた。父王は彼に対し手紙で、「他の貴族たちにも支援を要請し、負担を分担させよ」と命じたのだ。
これは事実上、国内で人員や物資を徴用する権限を与えたと言っていい。そしてイスファードとカルカヴァンもそのように理解した。二人はさっそくその強権を振るい、全国から人員や物資を集めたのである。
集められた人員は、防衛線の各所に配置された。言ってみれば彼らは他の地域から来た新参者だったわけだが、イスファードは彼らに対しても気前よく振舞った。前金を配り、さらに働きに応じて報酬を上積みすることを約束する。人外魔境で使い潰されると悲壮な覚悟をしていた彼らは、この待遇にことのほか喜んだ。
もっとも、イスファード自身がそのために必要な実務を行ったわけではない。彼はただ命じただけ。ただし彼が命じなければ、このような待遇にならなかったことも事実。少なくとも末端の兵士達のことを気にかけられるという点で、彼は人情味のある指揮官であったと言っていい。たとえそれが上からの目線であったとしても。
さらにまた集められた物資についてだが、イスファードとカルカヴァンはこれを派閥の貴族たちに分配した。おおよそ等分の分配であり、自分たちの懐により多くをねじ込もうという意図は感じられない。全国から集めた物資と富は膨大であり、派閥の貴族たちは負担分以上のモノを得た。
イスファードとて、富を得ることに興味がないわけではない。だが彼はそれよりむしろ権力を振るうことのほうに興味があった。そして権力者としての彼は、少なくとも身内に対しては吝嗇でなく、他の者たちはそれを喜んだ。
「王太子殿下は、気前が良いな」
「あの方についていけば、間違いあるまいて」
「きっと名君になられるであろうな」
「殿下が玉座につけば、我らも……」
「うむ。力の限りお支えしようぞ」
イスファードの評判は急上昇した。ガタガタだった派閥は、一転して結束力を増す。誰だって自分たちに利益誘導してくれるリーダーは大好きなのだ。そしてそういう評価は、イスファードの気分をさらに良くした。
だがその一方で、派閥の外での彼の評判は悪かった。強権的に人員や物資を徴用しているのだから、それも当然だ。ただ、そういう噂はカルカヴァンが徹底的にシャットアウトしていたので、イスファードの耳には届いていない。
内々で固まり、そのことに疑問さえ抱かない。国内には「まるで独立国のようだ」と彼らを揶揄する声もあったが、実際そこは特殊な場所であったと言っていい。イスファードは名声を高めていたが、それはあくまでも内向きのことだ。
そういう状況を客観的に理解していたのは、イスファードではなくカルカヴァンだった。派閥の結束力が強まるのは良いとして、その勢力は主に国の北側。イスファードが王として支配していくために、中央での影響力を失うわけにはいかない。
カルカヴァンはイスファードが定期的に王都クルシェヒルに戻るよう手配した。彼は妻に頼んで王妃メルテムに手紙を送ってもらう。その内容は要するに「早く孫の顔が見たい」というもので、そのためにメルテムからもイスファードに一言言ってほしいと頼んでいた。
その要望はメルテムにとっても共感できるもので、彼女は早速息子に手紙を送った。さすがに王妃の言葉は無視できず、イスファードは定期的に王都へ戻るようになった。その際、カルカヴァンはイスファードに王都での政治工作を頼む。こうして彼は中央での影響力を維持しようとしたのだ。
(自分で動けないのは、少々歯がゆいが……)
政治工作の成果について、カルカヴァンも報告は受けている。しかしやはり自分で動くのとは勝手が違う。とはいえ彼は領地から動けないし、報告の内容も悪くない。彼は少々のやりにくさを覚えつつも、イスファードに動いてもらうほかなかった。
だが実のところ、イスファードは政治工作にあまり熱心ではなかった。カルカヴァンに頼まれた手前、やらないわけにはいかなかったが、それほど情熱を燃やしたわけではない。それでも王太子という立場や王妃の熱狂的な後ろ盾は強力で、彼の工作は表面上うまくいっていた。
この時期、物事はおおむね、イスファードの思い通りに運ばれていたと言っていい。ただ無論、全てではない。その最たるものが、ネヴィーシェル辺境伯ダーマードと彼を首魁とする派閥の非協力的な態度だった。
彼らには彼らの言い分があるし、その正当性はイスファードやカルカヴァンも認めざるを得ない。だが独自に防衛線を維持するくらいなら、こちらの傘下に入り、その指揮下で戦えばよいではないか。王太子の旗の下で一丸となって戦うことこそアンタルヤ貴族の本懐であるべきだし、またその方がずっと効率的だ。
イスファードはそう考えていたし、またそれが当然だと思っていた。それでダーマードらの非協力的な態度は、彼にとって面白いものではなかった。とはいえ、だからと言って懲罰の兵を出すわけにもいかぬ。それで支援することもなく、なおざりなまま放置することにした。
このことについて、イスファードは手紙の中で「仕置き」という言葉を使っている。要するに報復感情があったのだ。しかもそれを自らの中で正当化していたことが窺える。そして父王ガーレルラーン二世が何も言わなかったことで、彼は自尊心を肥大化させていった。それが分かりやすい形で表に出てくるのは、もう少し先のことである。
さて、支援を行わなかったことで、ダーマードと彼の派閥は急速にやせ細り始めた。その様子を見て、イスファードはほくそ笑む。いずれ彼らの方から王太子の旗の下で戦うことを哀願してくるだろう。イスファードはそう思っていたが、しかしそうはならなかった。
この点、イスファードはアンタルヤ貴族の自助・独立の気風を甘く見ていた、と言うべきだろう。あまりにも冷淡な対応にダーマードのほうが意地になったという側面も否定はできないが、その意地の土台となっているのは、やはりもともとの気風だ。イスファードが見ていたのは内向きの世界で、それが外の世界にも通用すると思い込んでいた。
ただ現実的な問題として意地、あるいは精神論で防衛線を支え続けることはできない。ダーマードが耐えられたのは、不完全とはいえ魔の森の沈静化に成功したからだ。そしてその功績の影に、三人目の聖痕持ちがいることを、イスファードは知ることになる。
「よりにもよって、三人目、だと…………!?」
このとき彼が覚えたのは怒りであったか、それとも羨望であったか。ともかくその事実が彼にとって気に入らぬものであったことだけは間違いない。そしてそこからの情勢の推移も、彼にとってはなはだ面白くないものだった。
ダーマードが三人目の聖痕持ちを配下に加え、不完全ながらも魔の森の沈静化に成功したという話は、すぐさま貴族社会に広まった。そうなると、搾取されるばかりだった貴族達の多くは、概ね次のような感想を抱くようになる。
「孤立無援の中、ダーマード卿は良くやる。まさか三人目の聖痕持ちを配下に迎えるとは。それだけでも歴史的な偉業だが、その上さらに多少とはいえ魔の森を沈静化させている。当然、聖痕持ちの力は大きいのだろうが、ダーマード卿の手腕も見事と言うほかない。
ところで王太子殿下はどうされたのか。王太子殿下が魔の森を沈静化させたという話はとみに聞かぬ。我らが身を切ってご支援申し上げているというのに、これはどういうことか。我らにも限界がある。それをご理解いただいた上で、早急に抜本的対策を講じていただきたいものだ」
あえて言っておくが、これでもまだ理性的で、言葉を選んでいるといっていい。中には罵詈雑言を並べて喚きたてる者もいたという。彼らの根底にある想いは共通していた。要するに「イスファードのやっていることはその場しのぎでしかない。このままでは、我々は防衛線が決壊する前に滅ぶ」ということだ。
王都クルシェヒルもまた、そういう雰囲気に染まった。しかもイスファードが王都へ戻ってくる度に、その雰囲気は強くなっている。中には忠臣面して彼に諫言する者までいて、イスファードを苛立たせた。
「イスファード、諫言してくれる者たちを遠ざけてはダメよ?」
「分かっています、姉上! ですが奴らは、防衛線の実情を知らんのです!」
ユリーシャはイスファードをやんわりと窘めたが、彼は憤然とした様子でそう叫んだ。モノに八つ当たりしなかった分、自制したというべきか。ただ姉の言葉も彼の態度を改めさせるには至らなかった。
この頃から、イスファードは王都での政治工作をほとんどしなくなった。工作は部下に任せ、自らは親しい者たちと会うだけになったのだ。それを批判する者は、彼の周りにはいなかった。批判すれば、彼は王都に戻ることそのものを嫌がるようになる。世継ぎの誕生を望む声も徐々に大きくなる中で、それだけは避けなければならなかった。
王都の情勢はともかくとして、目下最大の問題はやはり活性化した魔の森のことである。抜本的な対策が必要であることは、イスファードやカルカヴァンも理解していた。しかしながらその一方で、実際に打てる手はあまりに少ない。
「三人目の聖痕持ちをこちらへ遣してもらえるよう、要請してみますか。陛下からお口添えいただければ、ダーマードもまさか否とは言いますまい」
そう提案したのはカルカヴァンだった。三人目の聖痕持ち、つまりラグナがいれば事態が好転するというのは、あまりに楽観的な物の見方だ。要するに、それだけ彼の存在が大きく見えていたということだろう。だがイスファードはこの提案を一蹴した。
「できるか、そんなこと!」
筋の通った理由などない。あまりにも感情的な否定の言葉だった。イスファードにとって三人目の聖痕持ちの力を借りるなど、絶対に受け入れられないことだったのだ。その根っこにあるのが、ジノーファへの対抗意識であることは言うまでもない。
カルカヴァンはそれ以上何も言わなかった。どれだけ言葉を尽くしたところで、イスファードを説得するのは無理だと分かったのだ。であれば、これ以上彼を不機嫌にするのはまずい。彼の王太子という肩書きは、防衛線維持のために不可欠なのだ。
一方で、カルカヴァンは不気味さを感じてもいた。事態を静観し動こうとしないガーレルラーン二世に対してだ。彼は一体、何を考えているのか。それを探ろうにも、カルカヴァンは防衛線から離れることができない。もやもやが募った。
そしてそうこうしている内に、決定的な事態が起こった。造反である。東域の貴族たちが、こぞってダーマードの派閥に入ったのである。これにより、彼らはイスファードやカルカヴァンを支援することをやめた。
カルカヴァンは慌てて彼らを引きとめようとしたが、時すでに遅し。「ダーマードのほうを支援する」と言われてしまえば、彼には手出しする法的根拠がない。彼に出来たのはさらなる造反が出ないよう、引き締めをはかることだけだった。
「おのれぇ、恥知らず共め!」
イスファードは造反した貴族たちを口汚く罵った。しかしそれ以上できることはない。その様子を見た者たちは凋落の予感を覚えたと言うが、それも不思議ではないだろう。予感が的中するかはともかくとして、イスファードらにとってこれまでより困難な時期が始まろうとしていることは間違いない。
しかし後の歴史家たちは言う。曰く「彼はそのことから目を逸らし続けた」。
イスファードの一言日記「ここで手柄を立てるぜ!」