再び魔の森へ
「もうっ、殿下も殿下です。何もこんな時にお仕事を申し付けなくてもいいではありませんか」
シュナイダーから仕事を頼まれたことをジノーファがシェリーに話すと、彼女は不満げな顔をしてそう愚痴った。そんな顔さえ可愛らしいと感じるのは、あるいは惚れぬいた弱みかもしれない。そんなことを考えると、ジノーファの口元は自然とほころんだ。
「ジノーファ様、聞いておられるのですか?」
ジノーファが微笑んでいるのを見て真面目に聞いていないと思ったのか、隣に座っていたシェリーは、少しだけ怒った顔をして彼の顔を下から覗き込む。その顔もぜんぜん怖くないし、むしろ微笑ましいくらいだ。その証拠に、彼女の腕に抱かれたベルノルトも、不機嫌になってぐずり出したりはしていない。
「もちろん、聞いているよ」
ジノーファはそう言ってシェリーの頬を撫でる。すると彼女は少し複雑そうな顔をして「なんだか誤魔化されている気がします」と小さな声で呟いた。それがおかしくて、ジノーファは彼女を軽く抱きしめる。シェリーも慣れた様子で頭を彼の胸に預け、身体を楽にした。彼女の機嫌がいいのが伝わったのか、ベルノルトが楽しげな声を上げた。
こうしてジノーファはまんまとシェリーの機嫌を取ったわけだが、彼女が不満を覚えるのも分からないではなった。前々から予定していた結婚式が、いよいよ近づいているのだ。頼まれた仕事の進捗次第では、式の日程を変更しなければならないかも知れない。
いや、日程の変更くらいなら、シェリーも笑って受け入れるだろう。何度も続けばその限りではないかもしれないが、式自体は簡素にやるつもりだし、それほど大げさには考えないはずだ。
シェリーがむくれる最大の原因、それは式までの時間をジノーファと過ごせないことだ。さりとてまさかダンダリオンやシュナイダーに文句を言えるはずもなく、こうしてジノーファ相手に拗ねていたというわけである。その自覚があるのか、ジノーファの腕の中で彼女は申し訳なさそうにこう呟いた。
「ごめんなさい。シュナイダー殿下のお仕事は陛下から命じられたもの。それを手伝ってくれと言われて、ジノーファ様が断れるはずもありませんのに……」
「気にしなくていいよ。わたしも、シェリーやベルと一緒にいられないのは寂しい」
ジノーファがそう言うと、シェリーは小さく微笑んで「はい」と応えた。ジノーファが「寂しい」といったのは紛れもない本心だが、その一方でシェリーの言うとおりシュナイダーの頼み事を断るのは不可能だ。
しかも一度で終わるとは思えず、むしろこの先何度も魔の森を経由してネヴィーシェル辺境伯領へ赴くことになるだろう。その度に屋敷を空けるわけだから、シェリーやベルノルトと過ごす時間はさらに少なくなる。それを考えると、ジノーファもいくぶん憂鬱だった。
とはいえ、ジノーファも命じられたから行くわけではない。交易の話は辺境伯領にとっても利がある。それで防衛線維持の負担が相対的に軽くなるなら、むしろ彼としては望むところである。移住を手伝ったラグナたちアヤロンの民の様子も、あれからどうしているのかと気になっていたところだ。
加えて、彼個人の思惑と言うか、ちょっとした用事もある。シュナイダーから交易の話を聞いたときに思いついたのだ。驚かせようと思って秘密にしていたのだが、しんみりしてしまった雰囲気を変えたくて、ジノーファはそのアイディアをシェリーの耳元に小声で囁いた。
「それに、実はね……」
「まあ、それは素敵ですっ。楽しみにしていますね」
シェリーの顔がぱっと輝く。それを見てジノーファは「失敗できないな」と思うのだった。
□ ■ □ ■
シュナイダーから密貿易への協力要請を受けてから九日後。ジノーファは船に乗って海上にいた。船は帝都ガルガンドーを出航し、北海を西へ航行している。つまり、今まさに魔の森へ向かっている最中だった。
魔の森へ向かっている船は全部で五隻。しかもこの船団は第三陣で、第一陣と第二陣はすでに魔の森に到着している。そしてこの第三陣の到着を待って、本格的な活動を開始する予定だった。
今回動員されている兵は、全部で四三〇〇。メイジやヒーラーを含む歩兵が四〇〇〇で、騎兵が三〇〇だ。歩兵の数は昨年と変わらないが、騎兵が大きく減らされている。それは今回の計画がモンスターを誘引しての野戦より、ダンジョンの攻略に重きを置いているからだ。
また、今回の遠征では馬も船で輸送している。馬の数を減らしたことで、それが可能になったのだ。そのおかげで騎兵隊を別行動させる必要がなくなり、計画全体がかなりスマートになったとジノーファは聞いている。
ジノーファがこの船団に同行しているのは、その方が双方にとって都合が良かったからだ。この「双方」というのは、遠征軍とシュナイダーのことである。シュナイダーは船を手配したと言っていたが、その船を遠征軍の輸送のためにも使っているのだ。それで遠征軍の司令官も、彼が魔の森の拠点を利用することに好意的だった。
ただ、司令官はシュナイダー自身が魔の森へ赴くことには、あまりいい顔をしなかったという。これは自らの兵権がどうの、という話ではない。今回の兵権はダンダリオンから直接与えられたもの。第二皇子とはいえ、それを好き勝手することはできない。要するに、心配だったのである。
『あそこは魔境です。なにも殿下ご自身が足を運ばれずとも……』
『おいおい、去年は兄貴が行っていたじゃないか。その上、何ヶ月も帰らないで、母上や義姉上をやきもきさせてさ』
ちなみに、そのせいなのかジェラルドは作戦が終わった後、冬の間に「幸せやつれ」をした。最近は皇太子妃ツェツィーリアのところへ頻繁に宮廷医が出入りしているというし、第三子懐妊の報は間もなくかもしれないとシュナイダーは見込んでいるのだが、まあそれはそれとして。
『皇太子殿下の作戦は陛下の勅命でしたから……』
『なら、この仕事も親父殿の勅命だ。手を抜くわけにはいかん』
そう言われると、司令官は黙るしかなかった。彼の兵権にシュナイダーが口出しできないように、シュナイダーの仕事に彼は口出しできない。できるのは拠点の警備を万全にするくらいで、シュナイダーやジノーファが輸送の第三陣になったのも、そういう事情があってのことだった。
なお、シュナイダーは偉そうにも「手を抜くわけにはいかん」と言っていたが、ばっちり手を抜いていたことをジノーファは知っている。もちろん、全体としての仕事は少しも滞らなかった。ただそれは、彼がサボった分の仕事を頑張って片付けた人物がいたからで、ジノーファはその人物から直接被害のほどを聞いていたのだ。
『書類仕事はまったくしなかったですね。ペンを持っているところを見たことがありません。指示はいくつかいただきましたが、それより口説き文句の方が圧倒的に多かったですね。相手にしている時間がありませんでしたが。忙しくて。ええ、本当に忙しくて!』
『ああ、うん、君も大変だったね、ノーラ』
そう、シュナイダーの尻拭いをしていたのはノーラだった。彼女はもともと、ダンジョンを通り抜ける際の護衛だった。ただ密貿易であるから、大人数で仰々しいのはあまり好ましくない。
それで、ジノーファと一緒に何度もそのルートを行き来し、さらに回復魔法を使える彼女が、護衛として適任だったのである。それがいつの間にやら書類仕事を押し付けられ、あれよあれよと言う間にシュナイダーの秘書的な立ち位置に。そのせいでまた仕事を押し付けられるという悪循環。
『わたし細作ですよ? 細作のはず、なんですけど……』
彼女自身、最近ちょっと自信がない。いや、細作でなくなるのはいいのだ。彼女はもともと回復魔法を覚え、同僚の訓練に付き合う頻度を増やすことで、危険な任務に携わるのを避けていた。その意味では、こういった仕事はむしろ望むところだ。ただ上司が少し、いや多分に問題なだけで。
『わたし、この先ずっと、シュナイダー殿下にこき使……、お仕えすることになるんでしょうか……?』
慄きつつそう呟いたノーラに、ジノーファは無力にも言葉をかけてやることができなかった。ともあれその彼女も、ひとまず書類に埋もれたシュナイダーの執務室から船で海上へと脱出し、今ごろ船室でぐっすりと眠っているはずだ。ジノーファとしては、彼女の安眠を祈るばかりである。
閑話休題。ジノーファは今、船の甲板で風に当っている。ユスフとラヴィーネも同じ船に乗っているが、ここにはいない。今日の空は雲が多く、そのせいか春先とはいえ海風はまだ冷たかった。彼は上着の襟を首もとによせる。そんな彼に後ろから声をかける者がいた。
「よう、ジノーファ殿。船は初めて、なわけないか」
「ええ。去年の作戦で、一時休暇のときに。でも、慣れませんね。今も足もとがふわふわしている感じがします」
ジノーファは苦笑しつつそう応えた。船酔いはしなかったものの、正直なところ、船よりは馬のほうが性に合っている。
シュナイダーは小さく笑って「そうか」と言うと、欄干にもたれかかるようにしてジノーファの隣に立つ。数秒空を見上げてから、彼はジノーファにこう言った。
「……それにしても、少し意外だった」
「何がですか?」
「今回の密貿易に、ジノーファ殿が出資したいと言ったことだ。お前さんは、こういう商売ごとには、あまり興味がないんじゃないかと思っていたからな」
それを聞いて、ジノーファは「なるほど」と思った。確かに彼はこれまで、商売ごとにはほとんど興味を示してこなかった。
だが今回の密貿易のために、彼は金貨二五〇枚を出資している。もちろん全体から見ればほんの一部だが、個人での出資と考えればかなりの額だ。当然、配当も相応になるだろう。本人は「結婚式の費用にする」と言っていたが、それが冗談だと言うことはシュナイダーも分かっている。
「どんな心境の変化があったんだ?」
「……もっと力があれば、と思ったんです」
ジノーファのいう「力」とは、単純な戦闘能力のことではない。もっと広範な意味での力だ。アヤロンの民を移住させたとき、ジノーファは自分の力不足を痛感した。それをどうすれば補えるのかと考え、出した答えの一つがお金だったのである。
「お金があれば、できることが増えますから」
「まあ、そうだな」
ジノーファの考えをシュナイダーは肯定した。確かに、お金があればできる事は多い。極論を言えば、戦争さえできるのだ。領地を持たず、官職にも就いていないジノーファが、力を得るためにお金に目を付けるのは決して間違っていない。
「ただそうは言っても、所詮は個人で稼ぐお金。それがどの程度の力になるかは、また別問題ですけど」
肩をすくめて、ジノーファはそう言う。確かに、と思ってシュナイダーは笑った。ただ密貿易でどのくらい稼げるかは、責任者である彼の力量次第でもある。「稼げない」と言われるのは少々癪だった。
(んじゃまあ、出資者殿にたんまりと稼がせてやりますかね……)
シュナイダーは胸中でそう呟いた。ダンダリオンが知れば、「やる気を出す方向が違う」と呆れただろう。だが、シュナイダーは自分が楽しい気分になってきたので気にしなかった。
さて、船が魔の森の拠点に到着したのは、それから二日後のことだった。拠点は前回の作戦で造ったものを、補修して使うことになっている。すでに第一陣と第二陣で送り込まれた兵士たちが大方の補修を済ませており、ジノーファの目から見ても以前と遜色ない状態に仕上がっていた。
「シュナイダー殿下、ようこそ」
「よう司令官殿、世話になるぜ」
ジノーファたちが小船に乗って陸へ上がると、遠征軍の司令官が待ち構えていて彼らを出迎えた。そして司令官に先導される格好で、彼らは拠点内を移動する。案内されたのは作戦会議用の大きなテントだった。
「ご覧になられましたように、拠点の修復作業はほぼ完了しております。斥候を出してダンジョンまでのルートの様子を見て来させましたが、問題はなかったと報告を受けております」
「トレントの姿も見なかったのか?」
「見なかった、と聞いております」
シュナイダーの質問に、司令官はそう答えた。トレントの姿の有無は、実のところ大きな問題である。
以前説明したように、活性化前の魔の森は「スタンピードによってあふれ出たモンスター」と「トレント・キングとその配下」が拮抗することによって小康状態を保っていた。そして魔の森が活性化したということは、このバランスが崩れたことを意味している。
だが昨年、ジェラルド率いる遠征軍が、十万規模のモンスターをこの地から掃討している。さらにたった一つではあるが、ダンジョン攻略も行われた。その成果として、少なくとも拠点近くは小康状態を取り戻し、トレントが戻って来ているのではないか、と予想されていたのだ。
だが現実はどうもそうではないらしい。司令官の話では、今のところエリアボスクラスは見ていないが、それでもモンスターの襲来が散発的にあると言う。少なくともバランスが取れた状態には戻っていないと思ったほうがいい。
「たった一回の遠征じゃ効果がなかったのか、それとも一度引き上げてからのブランクが思いのほか大きかったのか……」
「恐らくはその両方でしょう。我々も気を引き締めて作戦に臨む所存です」
「ああ、そうしてくれ。……それで、ここにいても俺たちはやる事がないし、ダンジョンへ向かいたいと思うんだが、そっちの都合はどうだ?」
「申し訳ありませんが、明日一日、お時間をいただけませんか?」
シュナイダーは視線だけで司令官に説明を促す。司令官は一つ頷くと、簡潔にこう答えた。
「実は明日、最初の誘引作戦を予定しています」
トレントの姿がなかったということは、この辺りには多数のモンスターがいることが予想される。それを誘引して間引くのだ。そうやってモンスターの数を減らせば、拠点からダンジョンまでの移動もより安全になる。要するに第二皇子たるシュナイダーの身柄を心配しての提案だった。
「それと、可能ならジノーファ卿にもお手伝いいただければ、と」
エリアボスクラスへの対処のために、という意味だろう。また聖痕持ちが後ろで控えているとなれば、兵士たちの安心感や士気が違う。大事な緒戦を乗り切るための保険としても、指揮官はジノーファの協力が欲しかったのだ。
シュナイダーが無言で視線を向けてくるので、ジノーファは小さく頷いて応えた。それを見てシュナイダーは司令官にこう答える。
「分かった。動くのは誘引作戦の後にしよう。ジノーファも、手強いやつが出てきたら手を貸すだろう」
「おお、感謝いたします、殿下」
そう言って司令官は笑みを浮かべた。そういうわけで、ネヴィーシェル辺境伯領へ向かうのは明後日というになった。
ノーラ「ジノーファ様のお屋敷で雇ってください!」
ユスフ「現在の職場を円満退職してからおいでやがれ」