エクソダス3
ジノーファとラグナがオオトカゲと牡鹿を倒したその少し後。移住キャラバンの方から歓声が上がった。ついに森を抜けたのだ。シグルドが「岩山のよう」と表現した指令所の姿も見える。アヤロンの人々は初めて見る大きな石造りの建造物にまた感嘆の声を漏らした。
森を抜けたとはいえ、まだ表層域から出たわけではない。ただここまでくれば、文字通りゴールは目の前である。夕焼けもそろそろ翳り始めた時間帯だったが、それでもなんとか暗くなる前に指令所へ着けそうだった。
約束通り、指令所ではダーマードが受け入れの準備をしておいてくれた。指令所の一角をアヤロンの民のために空けておいてくれ、彼らはまずそこへ案内された。正式な部屋割りはまた後日決めるとして、ともかくそれぞれ適当な部屋に荷物を置くと、アヤロンの人々は中庭に集まった。そして宴の準備が始まる。
「おい、酒が無いぞ。……なに、収納魔法の中に入れっぱなし?」
「お肉持ってきて! どんどん焼くわよ!」
「あれ、どこに仕舞ったけなぁ……」
先ほどラグナが狩った牡鹿の魔獣も、切り分けられた肉が運ばれてきて調理される。慌しく準備が進むが、人々の表情は皆明るい。長年の悲願であった、魔の森からの脱出が叶ったのだから、それも当然だろう。しかも、ただ一人の犠牲者も出なかった。まさに望外の成果、と言っていい。
アヤロンの民が宴の準備をしていると、そこへ指令所の兵士たちがダーマードからの土産を持って現れた。子牛の丸焼きと、赤ワインを樽で一つ。そのご馳走にアヤロンの人々も歓声を上げる。そして宴の準備が終わると、ダーマード本人が姿を現し、杯を掲げて乾杯の音頭を取った。
「アヤロンの方々、よくぞ参られた。こうしてあなた方を迎えられたことを嬉しく思う。すでに話は聞いていると思うが、ここはあなた方にとって新天地ではあっても、天上の世界ではない。だが我々とあなた方が力を合わせれば、きっとより良い明日を手に入れられると、私は信じている。……では、この良い出会いに、乾杯!」
「乾杯!」の声が重なって響き、歓声が広がる。あちこちで笑顔が咲く中、宴が始まった。さて宴が始まると、ダーマードは早速一番会ってみたかった人物のところへ足を向ける。向こうも彼と話をしたかったようで、二人はすぐに握手を交わした。
「ネヴィーシェル辺境伯のダーマードだ」
「アヤロンの守人にして、御印を持つ使徒、ラグナである」
ラグナは敬語を使わなかったが、ダーマードはそれを咎めなかった。むしろ彼の益荒男ぶりに惚れぼれとした様子で、何度も頷いている。二人が言葉を交わしているところへジノーファも混じり、話は大いに盛り上がった。
そして次の日。ラグナは早速、十数人の守人を率いてダンジョンの攻略へ赴いた。少し急いているようにも見えるが、ダーマードが最も期待している分野で、早く結果を出したかったのだろう。決して、荷物を解いたり整理したりするのが面倒だったわけではないはずだ。
ジノーファも同行しようかと思ったのだが、最近はずっと忙しかったのを思い出し、この日は休むことにした。彼自身はそれほど疲れを感じてはいなかったのだが、預かっている部下達のコンディションにも注意を払わねばならないのだ。
ジノーファが居残っていることを聞きつけたのか、ダーマードが仕事の合間をぬって彼をお茶に誘った。その席で、ダーマードはまたアンタルヤ王国国内のことを、彼に話してくれた。
大きな情勢の変化はないものの、王太子イスファードやエルビスタン公爵カルカヴァンに対する不満が徐々に蓄積されているという。「魔の森の脅威に対抗するため」として、人員や物資をほぼ強制的に徴発しているためだ。
一方で、ガーレルラーン二世にそれを咎める様子はない。彼がそんな調子だから、明確な脅威を前に表立って苦言を呈したり掣肘したりするものは皆無で、イスファードとカルカヴァンは、まるで我が世の春の如くだと言う。
ただ、カルカヴァンは北方に貼り付いているし、イスファードも北と王都クルシェヒルを行ったり来たりする日々。それで中央での影響力は、それほど増してはいないようだ。ガーレルラーン二世も、自らの影響力がそがれていないので、二人を好きにさせているのだろう。
「唯一、懸念らしい懸念があるとすれば、ファティマ殿下がいまだお子を授からぬこと。それくらいでしょうなぁ」
少々大げさに肩をすくめ、ダーマードはそう話した。王太子に子供が生まれるか否かは、それ自体が重大な政治的案件である。特に今の情勢下、イスファードにもしものことがあれば、玉座を継ぐことができるのは王の庶子であるファリクだけ。ユリーシャの子供を王家に迎えるという手もあるが、そのあたりどうなるかはガーレルラーン二世の考え次第だ。
メルテム王妃もまた、ガーレルラーン二世が何を考えているのか、良く分からないのだろう。自分の血を引く孫へ確実に王座が渡るよう、「早く世継ぎを」とイスファードをせっついているという。彼がたびたび王都へ戻るのは、王妃に言われて王太子妃を抱くためである、とそんな噂まであるそうだ。
「なるほど。それはイスファード殿も大変だ」
苦笑しつつ、ジノーファはそう応えた。こうして話を聞くと、ずいぶん遠い世界のことのように聞こえてしまう。ほんの三年か四年まえまでは、彼もそういう世界にいたはずなのだが。まあ年齢的なこともあるのだろう、と彼は思った。
さて、指令所での生活が落ち着きを見せ始めた頃、ラグナは腕利きを引き連れてダンジョンを抜け、アヤロンの里があった場所へ向かった。その理由は「残してきた長老衆の様子を見るため」であったが、しかし彼らがまだ生きているとは思えず、要するに彼らの屍を弔うためだった。
しかし里へ戻った彼らが見たのは、予想外の光景だった。長老衆の姿がどこにもなかったのである。飢えて死んでいるのか、魔獣かモンスターに喰われて死んでいるのか。いずれにしても無残な姿を覚悟していただけに、彼らは少々拍子抜けした。
「荒らされた様子もないのに、長老衆の姿だけがないのだ」
里から帰ってきて、ラグナは不思議そうにそう語った。仕方がないので、里の真ん中に石を集めて塚を築き、それを長老衆の墓標としたという。それを聞いて、ジノーファも無言のまま一つ頷いた。
(そろそろ……)
そろそろ、頃合だろうか。ジノーファはそう考えた。アヤロンの民の移住は成功し、新しい生活も落ち着きを見せ始めた。ダンジョン攻略も順調で、その成果にダーマードも喜んでいる。
つい先日など、採掘場も発見された。少し奥まった所にあるのだが、収納魔法が使えるアヤロンの民にとっては何の問題もない。ジノーファたちも何度か採掘させてもらい、おかげでよい手土産ができた。
そろそろここを切り上げ、遠征軍のところへ帰還する頃合だろう。ボルストたちにも意見を聞くと、彼らもそれに同意した。それでジノーファはラグナとダーマードにその旨を伝えた。
「ジノーファ、世話になったな。この先、我らの力が必要になることがあれば、遠慮なく言うが良い。必ずや力になろうぞ」
「名残惜しくはありますが、致し方ありませぬな。ジノーファ殿、此度のことは借りておきますぞ」
ラグナとダーマードは、そう言ってジノーファと別れの握手を交わした。こうしてジノーファは彼ら二人にいわば貸しを作ったわけだが、それにしてもなかなか狡猾だなとボルストは思った。
要するに借りを作っておくことで、彼らはジノーファとの繋がりを保ったのだ。ラグナは無意識かもしれないが、ダーマードは間違いなく意識的にやっている。ジノーファはそのことに気付いているのかいないのか。笑みを浮かべる彼の横顔からは、それをうかがい知ることはできない。ボルストは「こちらも狸だな」と思い、「いや、天然か」と思い直した。
二人と別れを済ませてから、ジノーファたちはイゼルに案内してもらい、アヤロンの民が攻略しているのとは別のダンジョンへ向かった。こちらはまだ本格的な攻略が行われていないが、すでに計画が立案され始めているという。
(思えば、ジノーファ様がいらしてからたくさんのことがあった……)
彼らを案内しつつ、イゼルはふと感慨深さを覚えた。ジノーファが来る前、把握しているダンジョンの出入り口は一つだけで、しかも攻略を行う余裕はなかった。防衛線はいつ破られるとも知れず、状況が好転する見込みはほとんどなかった。
それが、ジノーファが来てからというもの、状況は一気に変化した。二つ目のダンジョンの出入り口が発見され、アヤロンの里に光が当たり、彼らを迎え入れることでダンジョンの攻略が始まった。今では、将来に明るい見通しを持つことができている。
イゼル個人としても、受けた影響は大きい。彼女はジノーファたちと行動を共にすることで、その全てを間近で見ることができた。その時はついていくことに精一杯で、また次々に起こる出来事に驚きっぱなしだったが、振り返ってみればこれまでの人生で最も充実した日々と言える。
「ジノーファ様、この度は私どものために多大なご尽力をいただき、本当にありがとうございました。このご恩は決して忘れません」
目的地であるダンジョンの出入り口に着くと、イゼルは片膝をついて頭をたれ、そう述べた。ジノーファは少し困ったような笑みを浮かべ、「気にしなくていい」と告げる。そしてこう言葉を続けた。
「わたしのほうこそ、イゼルには世話になった。無茶な注文もあったろうに、よく取り成しをしてくれた。感謝している」
「もったいないお言葉です」
そう言って、イゼルは一段と深く頭を垂れた。そんな彼女を、ジノーファは苦笑しつつ立たせる。そしてさらに言葉を交わしてから、ジノーファたちは彼女と別れてダンジョンの中へ入って行く。その背中を、イゼルは深々と頭を下げて見送った。
ダンジョンの中の移動は問題なく行われた。ジノーファのパーティーメンバーにとっては何度も通った道だし、他の十人も一度通ったことのある道だ。戦力はそもそも過剰で、さらにヒーラーが三人もいる。エリアボスさえ問題にせず、途中の水場ではドロップ肉をたらふく食べ、彼らは遠征軍の防衛陣地に帰還した。
「よく戻った。皆、大事無いな?」
「はっ。ジェラルド殿下の貸してくださった方々のおかげで、万事つつがなく物事を進めることができました」
ジェラルドに帰参の挨拶をするため謁見すると、ジノーファはまず彼にそう言って礼を述べた。そして借り受けていた十人の指揮権を彼に返上する。それからちょうど食事の時間だったので、ジェラルドは今回の一件に関わった者たちを集め、食事の席でその話を聞いた。
「……そうか、移住はうまく行ったか」
「はい。ダンジョン攻略も始まりましたし、これで少なくともネヴィーシェル辺境伯領における魔の森の脅威は低減していくでしょう」
「本国に対する脅威もまた同様、だな」
ジェラルドは口元に小さく笑みを浮かべてそう言った。わざわざ建前のほうを口にするとは、余裕があるというべきか。彼はそのままワインを一口飲むと、さらに言葉を続けてこういった。
「これにより、今回の遠征は望外の結果を得ることができた。潮時だな」
つまり魔の森から撤収する、ということだ。それを聞いてテントの中には小さなざわめきが広がったが、その一方でジェラルドの決定を意外に思う者はいない。皆、そろそろだとは思っていたのだ。
ただ、本国への連絡や船舶の用意など、すぐに撤収を始められるわけではない。次の補給船団が到着するまでの数日は、ダンジョン攻略も行われてこれまでと変わらない様子だった。そして補給船団が一旦本国へ戻ると、いよいよ本格的な撤収の準備が始まった。
撤退の準備が半ばを過ぎた頃、一足早く、騎兵隊が本国へ向け出発することになった。騎兵隊を率いるのは往路と同じくルドガーで、ジノーファもまた同じように同行する。無論、彼の収納魔法を期待してのことだ。
出発前、ジノーファはシャドーホールに保管しておいた多量の物資を遠征軍に返還していた。アヤロンの民を移住させる際に預かり使わなかった物資や、その時に手に入れた魔石やドロップアイテムなどである。
例の巨大陸亀の甲羅も置いてきた。輸送担当の兵士はこれをどう運べばいいのかと頭を抱えていたが、頑張ってもらうしかない。収納魔法で帝都ガルガンドーのダンジョンへ持ち込んだとしても、出入り口のサイズ的に、今度はそこから出せなくなるのが目に見えているのだから。
「では、行くとしよう」
馬上から部下たちを見渡し、ルドガーはそう告げた。そして馬を走らせて海岸沿いを南へ向かう。騎兵隊の出発は本隊より早かったが、しかし帝都への到着は本隊よりも遅れる見込みだ。
それが、ジノーファには少し惜しい。無論、こうして騎兵隊に同行するのも大切な任務だと分かってはいる。ただそれでも、愛しい人に会いたいという気持ちは募る。こうして一ヶ月以上も離れていたのは、初めてだ。
「はやく、皆に会いたいな」
固有名詞を出すのはなんだか気恥ずかしくて、ジノーファは「皆」という言葉を使い誤魔化した。ただユスフにはバレバレだったようで、彼はにっこりと笑いそう言った。
「そうですね。帰ったら、お一人増えているかもしれないわけですし」
「ああ」
ユスフにそう返事をしながら、ジノーファは帝都にいるシェリーとお腹の子供に思いをはせた。もう生まれたのだろうか。生まれたのなら、母子ともに無事だろうか。男の子だろうか、それとも女の子だろうか。そんなことを考えると、ますます会いたさが募った。
「わたしも早くメイファーちゃんに会いたいです」
ユスフがいきなり、それもしみじみとそんなことを言うものだから、ジノーファは思わず笑ってしまった。それにしても前に聞いたことのある名前だろうか。いや、初めて聞く名前のはずだ。
「帝都に戻ったら休みはあげるけど、ほどほどにな」
「了解です」
本当に、どこまで分かっているのやら。落ち着いたら彼の見合い相手でも探した方がいいのだろうか。ジノーファはふとそんなことを考えた。
さて、本隊に遅れること十日。騎兵隊は無事に帝都ガルガンドーへ帰還した。本隊が帰還した際には派手なパレードも行われたというが、今は帝都の街も落ち着きを取り戻している。
騎兵隊の中には凱旋パレードに参加できなかったことを悔しがる者もいたが、ジノーファとしてはむしろパレードが終わってくれていた方が都合がいい。余計な手間を取られることなく、屋敷へ帰れるからだ。
騎兵隊の隊舎で馬を預け、ルドガーからも「今日はもう帰っていい」と言われると、ジノーファは馬車を借りて真っ直ぐに自分の屋敷へ向かった。屋敷の前で馬車から降り、小走りになって玄関へ向かう。
「お帰りなさいませ、旦那様」
玄関の扉を開けると、ヴィクトールが折り目正しく一礼して彼を出迎えた。ジノーファは彼に挨拶を返したが、しかし視線は別の人影を探している。そしてついに彼女の姿を見つけた。
「ジノーファ様!」
「シェリー!」
シェリーはさらにお腹を大きくしていた。そしてそのお腹を気遣いながら、ゆっくりと階段を下りてくる。ジノーファは待ちきれず、駆け寄って彼女を優しく抱きしめた。
「ただいま、シェリー」
「はい、お帰りなさいませ。ジノーファ様」
腕の中の温もりが、帰ってきたのだと、強く訴えかける。ヴィクトールが声をかけるまで、二人は抱き合ったままだった。
ジノーファ「……無茶な注文もあったろうに、よく取り成しをしてくれた。……」
ユスフ&ノーラ(あ、自覚はあったんだ)
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というわけで。
この章の本編はここまでです。
明日の分は番外編となります。
どうぞそちらもお楽しみに。