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スタンピード1

 ――――自分はここで死ぬのだろう。


 迫り来る敵軍の姿を見て、少年はそう思った。少年の名はジノーファという。アンタルヤ王国の王太子で、今年十五歳になる。灰色の瞳を持ち、アッシュブロンドの髪を後ろで一纏めにしている。歳のせいかまだ小柄で、首や腕などは少女と見間違うほどに細い。


 ジノーファが立っているのは、小高い丘の上である。彼は約一〇〇〇の歩兵を率い、急造ではあるがこの丘を防衛陣地として敵軍を迎え撃とうとしていた。一方、迫るのは精強と名高いロストク帝国の皇帝直轄軍。その数、歩兵一万、騎兵五〇〇〇。彼らは隊列をいささかも乱すことなく、真っ直ぐにこの防衛陣地へと向かってきている。


 さらにその先頭には、ロストク帝国の皇帝旗がたなびいている。つまりこれは親征なのだ。炎帝の異名を持ち、名将としても名高いロストク帝国皇帝ダンダリオン一世その人が、この軍を直率しているのである。


 ジノーファにとって絶望的な戦いになる事はほぼ確実だ。しかし彼は逃げ出すわけにはいかなかった。彼が率いているのは殿。ここで逃げ出せば、本隊が敵の追撃を受けることになる。ゆえにどうしても、ここで退くわけにはいかないのだ。


「王太子殿下……。やはり殿下だけでもお逃げになられては……」


 ジノーファにそう勧めたのは、クワルドという騎士だった。アンタルヤ王国近衛軍の部隊長である。この防衛陣地の指揮官はもちろんジノーファだが、実質的な指揮を取っているのは彼だった。


「勅命だ。それはできない」


 クワルドの勧めに、ジノーファはそう言って静かに首を横に振った。王太子という身分にありながら彼がこうして殿をしている理由はただ一つ。それは父であるアンタルヤ王国国王ガーレルラーン二世の勅命だからである。


 無論、ガーレルラーンもジノーファに「死ね」と命じたわけではない。見事敵軍を防ぎ王都クルシェヒルに生還した暁には、きっと「よくやった」との褒め言葉と一緒に多大な恩賞が与えられるだろう。しかし戦いもせずに逃げたとすれば、厳しい叱責の言葉が下されるに違いない。廃嫡され、そのまま幽閉ということもありうる。


 いや、我が身の進退など、今のジノーファにとっては些末なことだった。自分と共にこの場に残った兵士たちを残してただ一人逃げ出すことなど、彼にはできそうにない。彼はその胸の内をこんなふうに言いあらわした。


「それに、逃げ出すときは皆一緒だ」


 場違いに明るくそう言われ、クワルドはつられて笑みを浮かべた。もちろん、無事に逃げられるなどとは思っていない。仮に逃げ出したとしても、ロストク軍はジノーファたちアンタルヤ軍を逃がしはしないだろう。彼らにしてみれば、アンタルヤ軍は相互不可侵条約を無視して攻め込んできた不埒な侵略者どもでしかない。そう、国境に近いとはいえ、ここはジノーファにとって異国の地、ロストク帝国の領内だった。


 この地がロストク帝国と呼ばれるようになったのは、つい三年前のことである。それまでここにはフレゼシア公国と呼ばれる国があった。国土は十五州。南西に位置するアンタルヤ王国の国土は八一州で、北東に位置するロストク帝国の国土は当時の時点で七三州。数字を比べれば分かるように、公国は二つの大国に挟まれた小国だった。


 その小国へ、ガーレルラーンはおよそ八万の軍を率いて侵攻した。三年前のことである。フレゼシア公国も軍を持って抵抗したが、しかし戦力差は拭いがたく、国土は蹂躙され荒廃した。


 この国家存亡の危機にあって、時のフレゼシア大公レオポルド二世は決断を下す。ほとんど身売りする覚悟でロストク帝国に救援を求めたのである。ロストク帝国皇帝ダンダリオン一世は直ちにこの求めに応じ、直轄軍三万を率いて来援。アンタルヤ軍の意表を突いてその側面に襲い掛かり、これをさんざんに叩きのめして撃退した。


 この時にアンタルヤ王国とロストク帝国が結んだ講和条約は、大きく分けて三つの条項からなっている。


 一つ、アンタルヤ王国はフレゼシア公国に賠償金として金貨五万枚を支払う。


 二つ、アンタルヤ王国はロストク帝国がフレゼシア公国を併合することを認める。


 三つ、アンタルヤ王国とロストク帝国は五年間の相互不可侵条約を結ぶ。


 この内、一つ目と二つ目については、ガーレルラーンはこれを守った。しかし三つ目については、これを破った。相互不可侵であるはずの三年目に、彼はおよそ五万の軍を率いて旧フレゼシア大公領に再侵攻したのである。なお、これが王太子ジノーファの初陣だった。


 しかし結果は大敗。国境を越えると、略奪を行うよりも早くロストク軍と会敵し、ガーレルラーンは全面撤退することになった。とはいえ、ロストク軍の猛追が予想される。それで本隊を無事に撤退させるため、殿が残されることなった。


『ジノーファよ、そなたに一〇〇〇の兵を与える。殿として敵軍を足止めせよ』


『御意にございます』


 ジノーファは静かに拝命した。この勅命に異論が出なかったわけではない。なにしろジノーファは王太子、つまり次期国王だ。彼の身に万が一のことがあれば、アンタルヤ王国の行く末はどうなるのか。


『陛下、殿ならばこの老骨がいたします。どうぞ王太子殿下とご一緒に王都クルシェヒルへお戻りください』


 ある老将をはじめ、アンタルヤ軍の幕僚たちはガーレルラーンに口々に翻意を促したが、しかし彼が勅命を撤回することはなかった。最終的には幕僚たちも、「この勅命は王太子殿下に対する陛下の信頼の現れに違いない」と考え、それ以上異論を述べる事はしなかった。彼らにそう思わせるだけのモノを、この時すでにジノーファが持っていたことをうかがわせる逸話だ。


 とはいえこの時のジノーファは、彼らが思うほどに自分を大した人物だとは思っていなかった。それどころか自分を未熟だと思っている。加えて言うのなら、自信もない。今でさえ、迫り来るロストク軍の威容をみて足がすくみそうになっている。


 あと少しすれば、ロストク軍は布陣を完了し、この防御陣地へ攻撃を仕掛けてくるだろう。その時は刻一刻と迫っていて、兵士たちもそれぞれ顔を強張らせながら自分の武器を握りしめている。緊張が高まる中、ジノーファはふとこう思った。


(ここで殿の任を全うすれば、父上はわたしをお認めくださるだろうか……?)


 これまでジノーファは父ガーレルラーンから期待されたことがなかった。周りの人々は口々に「そんなことはない」というが、しかし親子らしい時間を過ごしたことさえないのだ。彼を見る父の目は、そして母の目も、いつも冷たかった。


 しかしこの初陣で、ジノーファは殿という大任を仰せつかった。この任を全うしさえすれば、父や母の自分を見る目は変わるかもしれない。そう思うとジノーファは、この死中にあって活路を見出したような気持ちになった。


 そんな彼のことを、あるいは運命の女神が面白がったのだろうか。ここへ来て予想もしていないことが起こった。


「殿下、あれを……!」


 クワルドが焦ったような声を上げる。彼が指差すのは、ロストク軍のさらに向こう側。そこには新たな土埃が生まれていた。何かがまたこちらへ向かってきているのだ。その土埃の大きさからしてかなりの数、少なくともロストク軍と同程度であると思われた。


(一体どこの軍が……!?)


 そう思いながら、ジノーファは目を細めてよくよく窺った。ここは戦場であるし、あれだけの規模の土埃を立てられるとなると、やはりいずこかの軍隊であると考えるのが自然だ。しかしその予想は外れ彼は目を見開いた。そこにいたモノ、それは人ですらなかったのである。人とは似ても似つかぬ異形のモノどもが、雪崩れ込んでくる。


「モンスター……! ということは、スタンピード……!?」


 ジノーファは慄きの声を上げた。モンスター、それはダンジョンが生み出す人類の敵。敵意と暴力がそのまま形を得たような存在であり、なにより人を憎んで人を襲い、そして人を喰らう。そのモンスターが大群となってダンジョンからあふれ出してくることを、人々はスタンピードと呼んで恐れていた。


 そのスタンピードが、よりにもよってこのタイミングで起こったのだ。そしてモンスターの大群がこの戦場へ雪崩れ込もうとしている。合計でおよそ一万六〇〇〇人の人々があつまるこの戦場は、さぞかし敵意を掻き立てられる狩場であったに違いない。


「殿下、これは好機にございますぞ!」


 先に我に返ってそう言ったのはクワルドだった。モンスターの大群はロストク軍の向こう側からこちらへ向かってきている。つまりあの大群が最初に襲い掛かるのはロストク軍だ。


 しかも背後を突かれている。軍隊というものはそう簡単に向きを変えることができない。背後から襲われたのなら回れ右をして戦えばよい、というものではないのだ。少なくとも実力を十分に発揮するためには、やはり正面から敵とぶつかる必要がある。


 となればそのまま戦うにしても、あるいは陣形を整えるにしても、ロストク軍は決して少なくない被害を出し、そして隙を見せるだろう。その隙に乗じて一気に突撃し、ダンダリオン一世を討ち取る。それがクワルドの策だった。


「ダンダリオン一世を討ち取ればロストク軍は瓦解します。我らも撤退しやすくなりましょう。我らが生き残る道はこれしかありませぬ!」


 クワルドはそうするよう強く勧めた。それはジノーファにとっても甘い誘惑だった。ダンダリオン一世を討つことが叶えば、父も母も彼のことを認めざるを得ないだろう。しかし彼は奥歯を噛み締め、首を横に振った。


「それは……、できない」


「なぜですか!?」


「モンスターの大群に背後から襲われれば、ロストク軍といえども少なくない被害を出す。それはその通りだと思う。だがだからと言って、我々の事を無視し、付け入る隙を与えるとも思えない」


 ジノーファはそう説明した。例えば一〇〇〇名ほどを相対させてアンタルヤ軍の動きを封じておけば、ロストク軍はモンスターの大群に集中することができるだろう。それを可能とする数と練度を、彼らは有している。


 加えて、ダンダリオン一世の異名は「炎帝」。その異名から容易に連想されるように、彼は非常に優秀な騎士でもある。きっと味方を鼓舞するべく、彼は率先してモンスターの大群の中へ突撃していくだろう。


 そんな彼を討つためにはジノーファたちもまた、モンスターの大群の中へ突っ込まなければならない。それもロストク軍の陣中を突破して。それはただ単に時間をかせぐことより、はるかに困難であると思われた。


「では撤退いたしましょう! 敵がモンスターにかかりきりになれば、それだけで本隊が撤退するのに十分な時間がかせげます! 殿のお役目は果たせましょう!」


 クワルドはそう進言する。しかしその場合、ロストク軍は背後を気にすることなく陣形を組み直し、その後実力を遺憾なく発揮してモンスターの大群の中央を突破するだろう。そしてそのまま左右に展開し、モンスターの大群をアンタルヤ王国領へ向かって追い立てるに違いない。


 あのモンスターの大群が、今度はアンタルヤ王国へ雪崩れ込んでくるのだ。国境近くの村や町は壊滅的な被害を受けるだろう。撤退中の本隊を背後から襲われでもしたら、ガーレルラーンの身に危険が及ぶかもしれない。それはジノーファたちにとって最悪の未来と言えた。


「では、一体どうすれば……!」


「……ダンダリオン陛下に使者を出そうと思う」


 ジノーファは少し考え込んでから、険しい顔のままそう応えた。伝えさせる内容はこうである。


『ロストク軍におかれては、我々の後ろで隊列を再編されるように。しかる後にモンスターを包囲殲滅されたし。その間の時間は我らアンタルヤ軍がかせぐ』


「ロストク軍と共闘なさるおつもりですか!?」


 クワルドは驚いたようにそう声を上げた。その声音には非難の色が混じっている。ついさっきまでそのロストク軍と戦うつもりでいたのだ。いきなり共闘するといわれても感情が追いつかない。そんな彼を宥めるように、ジノーファはこう言った。


「隊長、確かにロストク軍はアンタルヤの敵だが、しかしモンスターは人類の敵だ。そこを履き違えてはいけないと思う」


「ですが、再編を終えたロストク軍が背後から我々に襲い掛かってきたらどうするのです!? いや、そもそもロストク軍が動かねば、我らは退くこともできずなぶり殺しにされまする! 全滅は免れませぬぞ!?」


 クワルドの言う事はもっともで、その可能性は十分にあった。結局、最後はロストク軍の、ダンダリオン一世の良心しだいなのだ。ジノーファはその事を認め、大きく頷いてからこう言った。


「その時は死のう。もとより、そのつもりでここにいたはずだ」


 クワルドにそう告げる彼の顔は清々しく、小さな笑みさえ浮かんでいる。その瞬間、クワルドは言い知れぬ畏怖を覚えた。そして自然と片膝をつき、右手の拳を左手でつつんで拱手する。


「御意。御意にございます、殿下」


 ここで死のうとクワルドは本気で思っていた。彼にそう思わせるだけのものが、ジノーファの言葉にはあったのだ。なによりここで命を失ったとしても、彼らとアンタルヤ王国の名誉は守られる。彼らは歴史に名を残すのだ。


 ジノーファは小さく頷いた。そして直ちにロストク軍へ使者が立てられる。ジノーファとクワルドが緊張しながら見守る中、ロストク軍は左右に分かれて二人が立つ小高い丘の背後へ向かった。


 それを見てジノーファとクワルドは、どちらからともなく安堵の息を吐いた。ダンダリオン一世はジノーファの提案に乗ったのだ。


「殿下、使者が戻ってまいりました」


「ここへ」


 ジノーファがそう言うと、使者としてロストク軍のもとへ赴いた兵士が彼のもとへやって来る。兵士は彼の前で跪いて頭を垂れた。ジノーファはその兵士にこう尋ねる。


「ダンダリオン陛下には、直接お会いできたのか?」


「はっ。直接お会いし、お言葉を一字一句たがえずにお伝えいたしました!」


「うむ。それで、陛下はなんと?」


「『しばし時間をお借りする。再編が終わったあかつきには、我が軍の武威をご覧に入れよう。それまでの間、アンタルヤ軍の勇戦を祈る』と」


 それを聞いて、ジノーファは一つ頷いた。実際のところ、ダンダリオンがその言葉通りに行動してくれるという保証はない。クワルドが指摘したように、後ろから襲いかかられたり、あるいは見殺しにされたりする可能性は十分にある。あるいは彼にその気がなくとも、再編が間に合わずにジノーファらが全滅することもありえるだろう。しかし彼はもう、そんなことどうでも良かった。


 ジノーファは前を見た。モンスターが迫ってくる。これらだけのことを考えるなら、共闘などせずロストク軍を盾にした方がよほど楽だったろう。彼が選んだのは修羅の道だ。しかし同時に誇り高い道なのだ。


 ジノーファが右手を掲げ、そして振り下ろす。それを合図にしてクワルドが命令を出した。


「決してここを突破させるな! 攻撃開始!」


 矢が放たれる。戦いが始まった。


 大統歴六三五年三月二日。ロストク軍を足止めするべく、国境近くの小高い丘に殿として残ったジノーファは、しかしスタンピードという不測の事態に際し、一時的にロストク軍と共闘しモンスターと戦うことを決断する。その決断が運命の分かれ道であったことを、この時のジノーファは知る由もなかった。


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