ショートショート007 健康な社会
あるさびれたバーに、ひとりの客が入ってきた。その店をたまに訪れる、記者の仕事をやっているという男だった。
店内は閑散としていて、テーブル席に二、三人が座っている以外に、他の客はいないようだった。
「いらっしゃいませ」
「やあ、マスター。久しぶりだな」
男はカウンター席に座り、コートを脱ぎながら注文をした。
「ウイスキーをロックで。シングルでいい。それと、適当につまみをくれ」
「かしこまりました」
マスターは黙々と、慣れた手つきで用意をした。背の低いグラスに大きな氷をひとつ入れ、ウイスキーを浅く注ぎ、乾きものといっしょに出した。
「いかがですか、最近は」
「だめだね。誰も彼も、目が死んでる。ひどいもんさ。話を聞き出すどころの話じゃない」
男はそう言いながらグラスを手に取ってひと口飲んでから、胸元の煙草を取り出した。
「お客さま、すみませんが、それは」
「ああ。そうか、そうだったな……」
屋内での喫煙は全面的に禁止されていたことを、男はうっかり忘れていた。
「申し訳ありません」
「マスターが謝ることじゃないさ」
十数時間ぶりに一服できると思ったのだが、仕方ない。今や、ゆっくり煙草を吸える場所は、自宅しかないのだ。
「それで、目が死んでいる、とおっしゃいましたが」
「ああ。おれたち記者の仕事ってのは、いかに相手の機嫌を良くしてやって、おもしろい話を聞き出すかというのが腕の見せ所だ。だが、最近はさっぱりでね。どいつもこいつも目に生気がなく、機嫌をうかがうどころじゃない。くさった魚のような、とはよく言ったものだと思うよ」
男はつまみを口に運びながら、いっきにぐちを吐き出した。
「そんなことは、おれよりマスターのほうがよく知っているんじゃないか。元気な客なんて、いるのかい」
「お答えしにくい質問ですが、近頃はみなさん、お疲れのようではありますね」
「そうだろう。当然さ、こんな世の中じゃな」
男はまた皿に手を伸ばしかけたが、いつの間にかすべて食べ終えてしまっていた。少し小腹がすいたので、男は腹のふくれるものを頼む、内容はまかせると言い、マスターは奥に消えた。
男はぼうっとしながら、ウイスキーをちびちびと舐めた。テーブル客の活気のない話し声がかすかに聞こえてきたが、内容までは聞き取れなかった。
しばらくして、マスターが料理を持って現れた。
「こちら、本日のおすすめ料理です。私の創作ですが、きっとご満足いただけると思います」
「ありがとう。うん、これは、たしかにうまいな」
マスターの料理は、疲れきっていた男の舌をしっかり楽しませてくれるものだった。
腹もほど良くふくれ、ウイスキーをもう一杯頼んだところで、男はまたぐちをこぼし始めた。
「まったく、どうしてこんなことになったんだろうな。昔は、こうもうるさくはなかった。煙草だって、職場に喫煙所があった。そりゃ、路上で吸うのはいかがなものかというのは分かるが……」
「時代の流れ、というものではないでしょうか」
「そう言ってしまえば話は終わりだがね。確かにそうなんだろうが、どうだろう。初めはともかく、途中からは、どちらかというと時代っていう、わけのわからない虚像のようなものに、ただ流されただけなんじゃないかと思うんだがね」
男は再び胸元をまさぐりかけたが、すぐに気づいてやめた。そして、気をまぎらわせようと、つまみを追加注文した。
「マスター、ナッツか何か、軽いものを頼むよ」
「申し訳ありません、お客さま。そちらのメニューですと、お客様の本店での塩分摂取上限を超えてしまいますので……」
「もうか」
「申し訳ありません」
「他には、何か上限に達したものはあるかい」
「糖分、脂肪分のほか、全部で八種類ほどが上限に達しております」
「じゃあ、料理はもうやめておくとするか。アルコールはまだいけるかね」
「ウイスキーですと、もう上限に達してしまいますが、ハイボール程度なら」
「ハイボールか」
男は少し考えた。ハイボールを最後に飲んだのはいつだったろうか。まだ学生のころではなかったか。
いつの間にか、濃い酒ばかり好きになってしまっていたので、ハイボールは久しぶりだった。
「そうだな。じゃあ、それを頼む」
「かしこまりました」
マスターの手が流れるように動き、少しして男の前に差し出された。男はそれを何の気もなく眺めていた。
そのとき、不意に、男の後ろから声がかかった。
「すみません、少しいいですか」
振り向くと、さっきまでテーブル席に座っていた客の一人が立っていた。まだ青年と言っていい若さだった。
「なんでしょう」
「いえ、記者の方だという話が聞こえてきたものですから、少しお話したいと思いまして」
「そうですか。しかし、ご期待されているような、面白い話なんてありませんよ。健康社会をうたう、この世の中じゃあね。何もかもが規制規制で、みな死んだような目つきになっている。煙草もだめ、食事も酒も上限がある。病気が蔓延するおそれがあるから風俗もだめ、依存症があるからギャンブルもだめ。交通事故防止のために、自動車の運転距離も制限がある。睡眠障害防止のためにテレビも夜早くには電波が止まるし、インターネットも一日の使用時間が決まっている。こんな状況で、景気のいい話なんてあるわけがありません」
「いえ、そのような話ではありませんよ」
「では、なんでしょう」
「その、規制に関する話です。私もつい最近耳にしたことなんですが、どうも一連の規制には裏があるようでして」
「裏、ですか」
男は身を乗り出して聞き返した。
「隣、よろしいですか」
「どうぞ、どうぞ。それで、裏とは」
「あくまで噂なんですがね。健康な社会という大義名分をかかげ、規制を進めることによって、いろいろなものを禁止したり、上限を定める。そうすると、得をする者がいると」
「得と言うと」
「簡単に言えば、金ですね。規制すれば、金の無駄使いが減る。それと同時に、溜まったうっぷんを晴らすため、食品や必需品、家庭用品なんかの購入が増える。そして、それらのメーカーの役員に、規制を推進した政治家がつながっていると」
「つまり、一部の政治家が得をするための規制運動ということですか」
「真偽はわかりませんがね。ありそうな話だと思いませんか」
青年に聞かれ、男は少し考えたが、反論は思いつかなかった。
しかし、ひとつの疑問がわき、男は青年にたずねた。
「なぜそんなことを、私に話すのでしょう」
「決まっているでしょう。あなたが記者だからですよ。私たちは、いいかげんにうんざりなんです。あれもだめ、これもだめではやっていられない。健康寿命を延ばすために、いろんなものを規制したらしいですが、延びた寿命の分、我慢の人生をもっと長く送らないといけないなんて、まっぴらごめんです。健康社会だなんてとんでもない。あまりに活気がないせいで、自殺率は上がっているし、子供は以前にもまして減り続けている。不健康社会そのものですよ。このままではお先真っ暗です。あなたもそう思うでしょう」
「まあね」
「だから、私はあなたに、このことについて調べてほしいんですよ。もし本当にそんな政治家がいるのなら、そいつらを叩き出して、規制を減らしてほしいのです。全部とは言いません。ただ、もっとゆるくてもいいんじゃないかと、そう言いたいんですよ」
「なるほど。あなたの気持ちはわかりました。私も同じだ。こんな息苦しいのはごめんです。ちょっと調べてみましょう。何かつかめたら、記事にしますよ。楽しみにしていてください」
男はそう言って、まだ半分以上グラスに残っていたハイボールを一息で飲み干し、マスターに勘定を支払って、店から出て行った。
青年も満足そうに席に戻り、さっきよりも少し楽しげに、再び酒を飲みはじめた。
「……ということがありました」
「そうか、ご苦労だった。下がっていいぞ」
画面の向こうの主たちに、この国のものではない言語での報告を終えて、記者を名乗っていた男は部屋から出て行った。
「あのような噂が流れているとは、好ましくない事態ですな。事実は全く異なっているのだが、妙に現実味を帯びている。そのうち、われわれのところに辿り着くものが出るかもしれない」
「そうですね。なにか、別の噂を流しておきましょうか」
「ああ、何かしら手は打ったほうがよさそうだ」
「では、それは私のほうで少し考えておきましょう」
「頼みます」
「しかし、市民の噂というものは、面白いものですな」
「活気が落ちているのだから、メーカーも面白い商品など作れず、売上げが上がるわけもないのにな。そういうところには目が行かないらしい」
「それにしても、規制が始まって数年ですか。あの国に対するわれわれの工作は、実にうまくいきました」
「まったくだ。外国ではこうだ、という論調に弱いという国民性につけこんで扇動し、どんどん規制を進めさせた。あれだけ世論が強くなっていれば、多少の反対など問題にはならない」
「おかげであの国の社会は息苦しくなった。生産性は落ち、自殺率も目に見えて上がった。人生への希望が薄くなったからだろうな。以前から落ちていた出生率も、近頃はますます下がっている」
「前々から、目ざわりだったからな。小さな国のくせに、やたらとよく働く。休みは少なく、仕事中心のつまらない生活を送っているのに、やたらと質の良いものばかり作り、我が国の経済を圧迫する。本当にいい迷惑だった」
「しかしそれも、もう終わりだろう。子供は生まれず、老人ばかりで、何一つ生み出せない国。規制だらけで生きる価値のない国。弱体化する未来しか残ってはいないさ。そのうち戦争でも起きて、どこかに占領されるんじゃないか」
そして、一人が酒をひと口飲んでからふっと息をつき、こう続けた。
「健康社会などと、よく言ったものだ。ストレスのほうが、よっぽど健康に悪いというのにな」