99話 期待外れ
青白い月が煌々と、夜の闇を仄かに照らしていた。
だが、背丈の高い木々に覆われた深い森の中では、その明かりは少し頼りない。
枯れ木の燃えるパチパチという音を聞きながら、アインは木に凭れ掛かって微睡んでいた。
不安を煽る夜の森でも安心して体を休められるのは、頼れる仲間がいるおかげだろう。
焚火を挟んだ反対側では、マシブが火の番をしていた。
「……嫌な夜だな」
何故だか、今宵の月は不気味に思えた。
マシブは身を震わせると、焚火に薪をくべる。
やはり、こんな場所で野宿をしたのが間違いだっただろうか。
周囲を見渡せば、先ほどの殺戮の跡が残されていた。
血の臭いが濃く充満する中で、何も気にせずに眠ることが出来るのはアインくらいだろう。
マシブは眠っているアインを見つめる。
ローブに包まって眠っている姿は、彼が出会った当初のアインと何ら変わりなかった。
年相応の少女らしい表情で、すうすうと寝息を立てている。
だが、その内に秘められているのは獣のような凶暴な本性だ。
戦いの中で見せる狂気的な笑みを、マシブは幾度となく目にしている。
先ほどの賊の襲撃でも、アインは嬉々として殺戮を繰り広げていた。
黒鎖魔紋を解放せずとも、今のアインは命を奪うことを躊躇しなくなっている。
むしろ逃走する相手の背を追いかけて殺めてしまうほどに、積極的に命を奪おうとしていた。
アインの能力について、マシブは多少なりと聞いている。
曰く、殺めた相手の魂を喰らうのだと。
その力を己の物とすることで、より成長することが出来る。
そういう点を考えれば、あれだけ積極的に命を奪うのも納得できた。
特に賊のような悪人を野放しにする理由もない。
アインにとって力を得るための良い機会なのだから、先ほどのように一人残らず殺すというのも当然のことだろう。
そのような悍ましい力が与えられたのは、アインが適任だったからだろう。
シュミットの街にいた頃のアインは己の本性に無自覚だった。
賊を殺めて涙を流してしまうほどに、あの時までは普通の少女らしい部分が残っていた。
だが、マシブと別れてから再開するまでの間に、アインは黒鎖魔紋を解放せずとも嬉々として命を奪うようになっていた。
そして、その狂気に身を任せて行動するようになっていた。
殺すに足る理由さえあれば、今のアインは喜んで武器を取るだろう。
そんな悍ましい本性を前にしても、マシブは恐怖を感じなかった。
返り血に塗れて嗤う姿を、むしろ好ましいとさえ思えていた。
常人であれば恐れを抱く様な所業を見ても、むしろ自分もアインのように、生きることに必死になってみたいとさえ思えていた。
ふと、マシブは月明りが消えたことに気付く。
雲の陰にでも隠れたのだろうかと見上げれば、そこにあるのは――深い闇。
「――アインッ!」
起こそうと視線を向けると、既にアインは目を覚ましていた。
その胸元を苦しそうに抑えて、荒い呼吸で周囲を見回していた。
「おい、大丈夫か!?」
「問題ない……けど、嫌な気配がする」
アインが服を引っ張って胸元の黒鎖魔紋を曝け出す。
激しく光を放つ様子を見れば、ただ事ではないと理解できた。
「災禍の日……じゃねえよな?」
「違う。ついさっきまで、疼きなんて全く感じてなかった」
「だとしたら、こいつは一体……」
気付けば周囲の森も闇に呑み込まれていた。
そこは、現世から隔離された空間。
異様な魔力の流れを感じ、マシブは警戒して背中の剣に手を伸ばす。
だが――。
「不敬な。力無き人間風情が妾に刃を向けようというのか」
その体が、地面から伸びた黒い鎖によって絡め取られる。
慌てて拘束から逃れようとするが、黒い鎖はびくともしなかった。
「くそ――灼化ッ!」
さらに力を込めるが――結果は変わらない。
赤竜の王と力比べをした彼でさえ、その力の前では無力だった。
「無駄に足掻きおって。常人に、その鎖は外せぬというに」
声の主は、闇の中から優雅に歩いてきた。
黒い法衣に身を包んだ、美しい銀髪の女性。
大海を思わせるような青い瞳は、アインへと向けられる。
「……マシブを解放して」
「ほう?」
短剣を抜き放ったアインを見て、女性は瞳を妖しく光らせる。
興味深そうにしばらく観察していたが、少しして手をマシブの方に向けた。
すると、拘束していた鎖が闇の中へと溶けるように消えていった。
解放されたマシブは、警戒した様子で女性を睨み付ける。
だが、彼の強烈な殺気を受けても、女性は涼しげな表情を浮かべていた。
「言っておくが、ここでは只の人間風情が力を振るえる場所ではない。感じるであろう、現世とは異なった力の流れを」
マシブは体に魔力を巡らせようとする。
しかし、女性の言う通り、普段のような力は出なかった。
一方のアインは、まるで畏れでも抱いているかのように女性のことを見つめていた。
激しく光を放つ黒鎖魔紋の原因は間違いなく彼女だった。
「原初の神より寵愛を受けし人の子よ。気付いているであろう、妾が世界の理に縛られぬ存在であるということに」
まるで蛇に睨まれた蛙のように、アインは動けずにいた。
あれは決して対峙して良いような相手ではない。
人ならざる存在、あるいは神と呼ぶべきだろうか。
「そう警戒するな……というのも無理な話か。今の汝には、妾と対峙できるだけの力が足りぬ」
女性は少し残念そうに呟く。
言外に期待外れだ、と言われているような気がした。
「其れも酷な話か。黒鎖魔紋も未だ二段階目。接触する頃合いを見誤ってしまったかのう」
だが、と女性は続ける。
「死を恐れるならば、死を齎せ。生き永らえたいならば、生を奪え。急がねば、汝の道は途絶えるであろう」
それは宣告だった。
今のままでは、いずれ死ぬことになる。
超常の存在から告げられた言葉が、アインの心に重く圧し掛かる。
これほどまでに畏れを抱いているアインを、マシブはこれまで見たことが無かった。
如何なる相手であろうと牙を剥き、喉元に喰らい付いて糧とするのが、マシブの知っているアインの姿だ。
そのアインがこの様子であることを考えると、目の前の女性は次元が違うのかもしれない。
「世界の管理者たる六転翼の一人。偉大なる妾が名を、その魂に刻め。妾こそ、第一翼『オルティアナ』なるぞ」
オルティアナと名乗った女性は、二人に背を向けると闇の中へと消えていく。
やがて彼女が消え去った時、闇は消え去って二人は森の中へと戻って来ていた。
静寂が訪れる。
二人とも、しばらく言葉を発することが出来ずにいた。
人知を超えた存在との邂逅は、確かな一つの道を示していった。
「"死を恐れるならば、死を齎せ。生き永らえたいならば、生を奪え"か。これ以上、どうしろってんだよ……」
これまでの道程も十分過酷なものだった。
その中で数多の命を奪い、歩んだ道に多くの屍を築き上げてきた。
オルティアナ曰く、まだ生温いのだと。
殺めた者の魂を喰らうことでアインは力を増していく。
であれば、さらなる力を得るには、もっと多くの魂を喰らうしかない。
「殺せばいい。もっと、たくさん」
「いっそ御伽噺に出て来るような魔王にでもなってみるか? これでも殺し足りねえってんなら、それこそ誰彼問わず殺すくらいじゃねえと」
周囲を見回せば、賊の亡骸が無様に転がっている。
これでも生温いというのだ。
善人悪人問わず皆殺しにするくらいでなければ、オルティアナの言う段階には届かないだろう。
だが、それを選択するということは、数多の咎を背負って生きていくということ。
そこまでの決意は、今の二人には出来なかった。
「……アイン。お前が何を選択したとしても、俺はついてくからよ。安心して選べばいい」
そう言うが、マシブの中には不安もあった。
自分はいつまでアインの横に並んで戦い続けられるだろうか。
苛烈さを増していく旅の中で、自分はどこまで生きていられるのだろうか。
死の運命にあるのはアインだけではない。
その横に並ぶマシブにも、同様の危険が迫ってくるのだ。
黒鎖魔紋を持たない彼は、果たしていつまで生きていられるのだろうか。
気付けば夜が明けていた。
二人は荷物をまとめると、エルフ族の里を目指して歩き出した。




