95話 わがまま
アインは目を覚ますと、自分が随分と汗を掻いていることに気付く。
荒い呼吸、心臓もバクバクと激しく音を立てていた。
体を起こそうとすると、酷い痛みが走った。
よほど酷い怪我を負っていたのだろう。
改めて自身の体を見れば、体中が包帯で巻かれていた。
だというのに――。
「ッ……」
体中が疼いていた。
まるで、今宵が災禍の日であるかのように。
空は既に朱色に染まりつつあった。
もうしばらくすれば夜になることだろう。
アインは視線を右腕に向ける。
激しい戦いによって失われたものは大きい。
赤竜の王の魂を喰らったとしても、これでは全く釣り合っていなかった。
右腕を失い、槍を振るうことが出来ない。
黒鎖魔紋の力も酷く消耗してしまっている。
果たして、今の己が災禍の日を乗り越えられるだろうか。
激痛を堪えつつ、アインは立ち上がる。
窓から見える景色を見れば、ここがベルディンの街であることが分かる。
このままここに留まってしまえば、シュミットの悲劇を繰り返すことになってしまうだろう。
あるいは、己のために留まるべきか。
アインの中に邪な考えが浮かぶ。
この地に集う冒険者は手練れ揃いだ。
彼らを犠牲にすれば、消耗しきった今でも災禍の日を乗り越えられるかもしれない。
心に黒い影が差す。
歪な笑みを浮かべて、アインは窓の外を見やる。
行き交う人々は、災禍の魔物に襲われた時、どのような反応をするのだろうか。
逃げ惑う人々を眺め、そして自分は嗤うのだ。
心にもない感謝を告げて、街一つを犠牲にして――。
「アイン、入るぞ」
部屋の中に入ったマシブは、歪な表情を浮かべて嗤うアインを見て一瞬固まってしまう。
その瞳は黒く淀んで、まるで何か悍ましいことを考えているように見えた。
アインはふらつく体を支えながら振り返る。
その時には既に普段通りの様子だった。
マシブは先ほど感じた不安を強引に捨て去って、何も気にしていない様子でアインに声をかける。
「まだ寝てた方がいいんじゃねえか? 怪我もまだ治ってないだろ」
「このくらいなら、全然……ッ」
そう言って体を動かそうとするが、酷い痛みを感じて顔を歪める。
体中に酷い傷を負っているのだ。
まだ動けるほど回復してはいなかった。
ふらついた足取りでベッドに座ると、アインは荒く息を吐き出す。
このままでは、やはり災禍の日を乗り越えることは厳しいだろう。
「無理すんなっての。あれだけ無理したんだからよ、しばらくは休んだ方がいいぜ」
マシブはベッドに寝かせようとするが、アインは首を振って拒む。
体中に酷い痛みを感じていたが、このまま休んでいるわけにはいかない。
「……私の槍は?」
部屋の中を見回しても、アインの魔槍『狼角』は見当たらなかった。
武器がないだけで不安になってしまうのはなぜだろうか。
それだけではない。
アインがこれまで身に着けてきた武具のほとんどが部屋に置いてないのだ。
唯一、ヘスリッヒ村でエルティーナから貰った空間収納のポーチだけが残っている。
マシブはその問いに、首を振って答える。
「槍はあの戦いで駄目になっちまったみてえだ。身に着けてたローブとかも焼け焦げて使い物にならねえ」
「……そう」
思い出すのは、ラースホーンウルフとの死闘。
あの時も同じように愛用の槍が折れてしまったが、その後にラドニスによって立派な武具に仕立てて貰っていた。
長い間使ってきたからか、それなりに愛着も湧いていたのだろう。
アインはどこか寂しさを感じ、自身の体を抱きしめる。
だが、失った右腕のことを思い出してしまい、やはり寂しさは晴れなかった。
「代わりになるかは分からねえけどよ。一応、今のお前に使えそうなやつを探しておいた」
そう言って、マシブは短剣を取り出す。
何か特別な力があるわけでもない、単なる店売りの短剣だ。
右腕を失った今、アインに扱える武器はこの程度だろう。
マシブが持ってきたのはそれだけではなかった。
アインの服も焼け焦げて駄目になってしまったため、街の服屋で着心地の良さそうなものを見繕ってきたのだ。
「怪我が治ったら着るといいぜ。大きさが合うかは分からねえけど――」
「マシブ」
アインは彼の名を呼ぶと、再び立ち上がる。
そして、ふらつきつつもマシブに歩み寄ると、その胸に凭れ掛かる。
左腕をマシブの背に回して抱きしめるような形で掴まった。
「お、おい、アイン?」
困惑するマシブを他所に、アインは胸元の包帯を緩める。
視線を逸らそうとしたマシブだったが、そこにあるものを見て息を呑んだ。
激しく脈動する黒鎖魔紋。
それが意味することはただ一つ――災禍の日が、今日であるということ。
アインは荒い息を吐きながら、苦しそうな表情でマシブを見上げる。
「私を、どこか離れた場所に……」
このままでは、多くの命が失われてしまう。
だが、今のアインにはこの街から離れるほどの体力さえ残されていない。
地を這って移動したとしても、果たして夜に間に合うだろうか。
この街を犠牲にして己だけが助かる。
倫理観を抜きにすれば、そんな手段も無いわけではない。
だが、それではシュミットの悲劇を繰り返してしまうことになってしまう。
それも、今度は己のせいで。
それだけは避けたかった。
死ぬ理由のない人々を、自分の勝手な都合で巻き込むわけにはいかない。
自分がどれだけ凶暴な本性を内に秘めていようと、人間であることには変わりないのだ。
きっとそれは、アインの最後に残された理性なのだから。
そんな覚悟を感じ取り、マシブはアインのことを見つめる。
赤竜の王との戦いで既に満身創痍。
槍も碌に振るえないというのに、どうやって生き延びようというのか。
「そんな体で、一人でどうするってんだよ」
「……巻き込むよりはずっといい」
「馬鹿言ってんじゃねえッ!」
思いがけず逆鱗に触れてしまい、アインは驚いたようにマシブの顔を見つめる。
彼もまた、苦しそうな表情をしていた。
「一人で抱え込もうとすんなよ。もう少しわがまま言ってみろよ。死にたくねえから、今日まで足掻いてきたんだろうが」
誰かと共に行動することをアインは避けていた。
理由は他でもない、黒鎖魔紋のせいである。
災禍の日は凄惨だ。
黒鎖魔紋を持たざる者には乗り越えられない。
だからこそ、アインは誰かに頼ろうという考えを甘えとして切り捨てていた。
「そりゃ、前の俺は頼りなかったかもしれねえけどよ。少なくとも、今の俺なら力になれるはずだ」
「これは私の戦いだから。マシブを巻き込むわけには……」
「無理してんじゃねえよ。体、震えてんぞ」
マシブはアインをベッドに座らせると、窓の外を見る。
もうじき日が沈む頃だろう。
「……なあ、アイン。俺はこう見えて結構わがままなんだぜ? 他人様を自分の勝手に巻き込むくらいには、な」
その言葉の意味は尋ねるまでもない。
マシブはベルディンの街を巻き込もうというのだ。
彼自身も多くを失ったはずだというのに、その悲劇を繰り返そうとしていた。
マシブはシュミットの街でアインと別れてから凄まじい鍛錬を積んできた。
その成果は、赤竜の王との戦いを見れば明らかだろう。
並の冒険者とは比べ物にならないほどに、マシブは実力を付けてきた。
だが、そんな彼を以てしても災禍の日は手に余るほど。
彼一人で押し寄せる魔物を蹴散らすことは難しい。
まして、後ろに動けずにいるアインを庇っているのであれば、なおさら生き延びることは困難だ。
「罪悪感なんか捨てちまえ。自分のためなら、他人を犠牲にしてでも生き残るくらいの覚悟を持てよ。積み重ねた屍の分は、自分がくたばってから地獄で清算すればいい」
「マシブ……」
アインはしばらく彼のことを見つめていたが、諦めたようにため息を吐いた。
彼の覚悟は変わらないだろう。
自分のために、大罪を犯してまで守ろうとしてくれているのだ。
「前から凶悪な顔だと思っていたけど、そこまでだったんだ」
「似合ってきただろ?」
互いに冗談を吐き合うと、にぃっと口元を緩める。
先ほどまで感じていた不安も、今はどこかへ消え去っていた。
「お前はこの部屋でゆっくり寝てればいい。朝起きれば、万事解決してるぜ」
そう言うと、マシブは戦いの準備をするために部屋から出て行った。
その背中は以前見た時よりもずっと頼もしいものに見えて、アインは安堵した様子で瞼を閉じた。




