93話 赤竜の王(4)
邪神から賜った、昏い闇色の槍。
それを掴もうと伸ばした右腕が、途中でだらりと垂れ下がった。
先ほど魔力暴走に巻き込まれて酷く焼け爛れており、とても槍を握れる状態にはなかった。
痛みはカタリーナの治療によって随分とマシになっていた。
朦朧としていた意識も、今は目の前の敵に集中できる程度には回復している。
しかし、槍を自在に振るえるほど体は回復していなかった。
呼び出された槍は、握られる事無く大地に突き刺さる。
アインはそれを左手で掴み取ると、改めて赤竜の王と対峙する。
赤竜の王は先ほどまでとは全く違う気配を放っていた。
黒鎖魔紋によく似た気配。
かの竜の強大な力であるが故にアインは気付いてしまう。
「災禍の魔物に、似ている……?」
体中を覆う赤黒い魔紋は黒鎖魔紋に似ている。
だが、その見た目はどちらかといえば災禍の日に現れる魔物の軍勢に近かった。
果たして、そこに何の意味があるのかは分からない。
考えたところで答えにはたどり着かないだろう。
それに、今のアインにとってそのことは重要ではない。
目の前には巨大な獲物がいるのだ。
これほど強大な力を持つ竜を喰らった時、自分は果たしてどれだけの快楽を得られるのだろうか。
その顔に、狂気じみた笑みが浮かぶ。
その刹那――。
「――ッ!?」
体が押し潰されそうになるほどの重圧がアインを襲う。
それは、邪悪な力によって強化された赤竜の王が放つ重力魔法。
あまりの威力に、周囲の地面が軋むような音を立てて震え――陥没した。
クレーターの中で這い蹲っているアインに、赤竜の王が巨大な右腕を振り下ろす。
アインは見上げると、眼前に迫る脅威を察知して即座に飛び退いた。
地を転がるようにその場から逃れる。
先ほどまで這い蹲っていた場所が爆ぜ、粉砕された地面が飛び散ってアインの体に傷を付ける。
アインは荒く息を吐き出すと、赤竜の王に向かって駆けていく。
今のアインは満足に槍を振るうことが出来ない状態だ。
だらりと垂れ下がった右腕は、動かそうにも火傷が深くまできているらしく、痛みさえ感じないほどに感覚が無くなっていた。
その状態で戦うには、槍術だけでは不足していた。
だが、それは常人であればの話。
アインは大きく跳躍すると、焼け爛れた腕を強引に動かし槍を構えた。
「――紅閃」
放たれた一撃は、赤竜の王の右肩を大きく抉る。
同時にアインの右腕にも千切れてしまいそうなほどの重い衝撃が伝わってきた。
しかし、それを気に留めることもなくアインは再び槍を振るう。
まるで己の体を顧みない戦い方だった。
後方の安全な場所まで下がっていたカタリーナは、その様子を愕然とした表情で見守っていた。
「騎士であれば国に忠義を尽くし、国のためであれば死を恐れずに戦わなければならない時がある。冒険者でも、死を覚悟の上で日々生きていることだろう。しかし、アイン殿は……」
嗤っているのだ。
自分の体が酷く損傷しているというのに、まるで意に介さない。
痛みさえも恍惚とした顔で受け止めていた。
――狂っている。
カタリーナがそう感じてしまうのも仕方の無いことだろう。
アインの戦い方は、他者からすれば狂人のソレだ。
それはあまりにも凄惨で、そして痛々しかった。
「……あれがアインだ。俺は、あれを追い続けて来たんだ」
その隣で岩に凭れ掛かっているマシブは、その様子を網膜に焼き付けようと見守っていた。
これまでの旅路で随分と過酷な道を進んできた彼だったが、しかし、今のアインほどの狂気じみた戦い方は出来ない。
常人であれば、今のアインを見てどのような感想を抱くだろうか。
恐ろしいと思うだろうか。
それとも、悍ましいと思うだろうか。
黒鎖魔紋の力に溺れ、狂ったように槍を振るう姿を。
しかし、マシブは違った。
その瞳に浮かぶのは、凄まじい気迫を見せるアインへの尊敬。
戦士として、男として、マシブは今のアインを好ましく見ていた。
その二人に見守られ、アインは獣のように声を荒げて赤竜の王と戦っていた。
だが、その体を再び重力魔法が襲う。
「ッ……」
黒鎖魔紋を解放した今であれば、重力魔法にも抗えるはずだった。
しかし、赤竜の王も邪悪な力によって力を増したことによって、今のアインでは身動きを取ることが出来ずにいた。
赤竜の王は両手を組み合わせると高々と振り上げる。
その拳が叩きつけられてしまえば、たとえアインと言えども耐え切れないだろう。
逃れるには、その場から飛び退くしかなかった。
だが、赤竜の王は先ほどまでよりもさらに魔力を込めて重力魔法を発動していた。
この一撃でアインを確実に殺そうとしているのだろう。
みしみしと体中の骨が嫌な音を立てていた。
焦燥に駆られて体を動かそうとするが、アインの体は重力魔法に耐えるだけで精一杯だった。
焼け爛れてだらりと垂れ下がった右腕も千切れてしまいそうになっている。
このままではまずい。
そう思って後方にいたマシブが飛び出そうとするが、アインの表情を見て足を止める。
アインは一瞬だけ笑みを浮かべると、内に秘めた魔力を爆発するような勢いで体中に巡らせる。
「――がああああああああああッ!」
叫ぶと同時に、地に這い蹲っていた体を起き上がらせる。
そして、勢いそのままに赤竜の王の方へ駆けていく。
本来であれば、無理に動こうとすれば重圧に負けて体が潰れてしまうような状態だ。
それほどに赤竜の王の重力魔法は強力。
だが、アインは黒鎖魔紋の力によって体を限界まで強化することで、重力魔法の影響下においても体を動かせていた。
ここまで激しく魔力を消耗するのは初めてだった。
マシブの灼化と同様、アインもこの状態を長く続けることは出来ないだろう。
急がなければ、先にアインの力が底を尽きてしまう。
振り下ろされた拳を迎え撃つ様に、アインは槍を突き出す。
槍を持つ手に鈍い衝撃が走る。
互いの全力の一撃は、拮抗していた。
赤竜の王は重力魔法を最大に発動し、さらに体中の力を込めてアインを押し潰そうとしている。
力は拮抗していたが、しかしアインの右腕はこれ以上持ちそうにない。
肉が裂けていくような嫌な音が聞こえていた。
この痛みさえも愛おしい。
アインはこの状況においても嗤っていた。
このままでは自分の右腕が千切れてしまうかもしれない。
しかし、その危険を顧みずアインはさらに魔力を込めていく。
そして――。
「はあああああああッ!」
アインの力が赤竜の王を上回る。
全力の一撃によって、赤竜の王の体が大きく仰け反った。
そして、その巨体が後ろに倒れた。
同時に、限界を迎えた右腕が千切れて地面に落ちた。
アインはそれを無感情に見つめ、すぐに視線を赤竜の王に戻す。
この隙を逃すわけにもいかない。
右腕を失った今、槍をまともに振るうことは出来ないだろう。
しかし、アインの武器はそれだけではない。
左腕で血餓の狂槍を翳し上げると、高らかに詠唱する。
「――降り注げ、怒りの雨よ」
空を闇が覆い尽くす。
否、それは数多の槍だった。
昏い闇によって象られた無数の槍。
その全てが赤竜の王の体に降り注ぐ。
翼を穿ち、鱗を砕き、肉を割き、奥深くまで突き刺さっていく。
赤竜の王は降り注ぐ無数の槍を前に、成す術なくその身を削られていく。
そして槍が降り終える頃には、その命は絶えていた。
それを見届けると、アインは黒鎖魔紋を解除させる。
途端に体中に強烈な痛みが襲ってきた。
先ほどまでは堪えられていたが、右腕を失った痛みは尋常ではない。
アインは意識を失い、その場に崩れ落ちた。




