90話 赤竜の王(1)
眼前に悠然と待ち構えている赤き巨竜。
それは、これまで相対してきた竜たちとは明らかに別格。
巨大な翼を大きく広げ、威嚇するようにアイン達を睨み付けていた。
――赤竜の王、ロート・ベルディヌ。
その姿を見て、思わずマシブが息を呑む。
一挙一動から伝わってくる王者としての風格。
果たして、己の技量はかの竜に通用するのだろうか。
カタリーナは畏敬の念を抱いていた。
かの建国史に登場する伝説の竜。
英雄ローレンの相棒である赤竜の王を前に、平伏したくなる衝動を必死に堪えていた。
明らかに、赤竜の王は人間の手に負えるような相手ではない。
一体どれだけの戦力を集めれば太刀打ちできるのだろうか。
マシブとカタリーナが気圧されている中、アインは臆することなく前へ歩む。
「……なるほど」
アインは赤竜の王を見て確信する。
確かに彼は、黒鎖魔紋によく似た力によって理性を失っているようだった。
その瞳に知性の色は無く、ただ暴力的な衝動のみが彼を支配している。
大陸各地で発生している活性化と黒鎖魔紋には何らかの繋がりがあるのだろうか。
考えてみるが答えは出ない。
今は目の前の敵に集中するべきだろうと、アインは槍を構えた。
「くそ、やってやるぜッ!」
マシブも双剣を構える。
この程度のことで臆していては、今後アインと共に歩んでいくことなど不可能。
むしろ楽しめるくらいにならねばと、強張る顔で無理して笑みを作る。
だが、赤竜の王からすれば、人間が三人集まっただけでは脅威足りえないのだろう。
退屈そうに頭を持ち上げると、その口を大きく開く。
「――ッ!? ブレスかッ!」
カタリーナが声を上げると同時に、三人は防御態勢に入る。
前方に魔法障壁を展開させ、衝撃に備える。
直後、視界が闇に包まれた。
赤竜の王が吐きだした黒炎のブレスが、魔法障壁に重い衝撃を与えた。
だが、三人で力を合わせて組み上げたために凌ぎきることが出来た。
ブレスが途切れた瞬間、アインが一気に飛び出していく。
どれほどの力を持っているかは不明だが、少なくとも侮って良い相手ではないことは確かだ。
初めから全力で攻めなければならない。
迎え撃つ様に赤竜の王が巨大な腕を振るう。
巨体に似合わず俊敏な動きで、アインは予想外の速さに驚愕しつつ地を這うように頭を下げて回避する。
少し近付くと、赤竜の王の体中に大きな傷が幾つもあることに気付く。
恐らくは先ほどの聖翼竜エリュシオンと争った時のものだろう。
致命傷になるようなものはなかったが、多少なりと消耗しているようだった。
赤竜の王を打つのであれば今が好機。
一気に跳躍すると、脳天目掛けて渾身の突きを放つ。
「――黒牙閃」
内に眠る邪悪な力を引き出して放った一撃。
しかし、返ってくるのは鈍い手応えのみ。
アインの想像以上に赤竜の王は強靭な表皮と鱗によって守られているようだった。
全力の一撃を見舞ったというのに、その頭部は少しも揺れることはなかった。
慌てて飛び退こうとするが、赤竜の王が頭を大きく揺さぶってアインの体勢を崩す。
バランスを失ったアインはそのまま地へ落下してしまう。
背中から地面に叩きつけられ、アインは苦痛に呻く。
だが、止まっているわけにもいかない。
痛みを堪えて即座に後方へ飛び退く。
だが――。
「――ッ!?」
途端に体が見えない力によって押さえつけられてしまう。
凄まじい重圧を感じていた。
体を動かそうにも、あまりの重みに全く自由が利かなかった。
これが重力魔法なのだと即座に理解することが出来た。
確かにこれほどの魔法があれば、空を支配することも容易いことだろう。
重力に負けて、アインは膝をついてしまう。
だが、感心している暇はない。
赤竜の王は今にも身動きの取れないアインを叩き潰そうとしているのだ。
このままでは、成す術なく殺されてしまう。
だというのに、自然と笑みが零れてしまうのはなぜだろうか。
足が竦んで震えてしまっているというのに、その心は全く恐怖を感じていなかった。
思い出すのは、戦場でガーランドから投げかけられた疑問。
『……お前もまた、死を望んでいるんじゃないのか?』
死にたくない、というのは本当だった。
それ故にアインは冒険者となって、各地を旅して災禍の夜を乗り越えるための力を求めている。
これまで幾度となく死線を潜り抜けて来れたのも、そうした思いがあったからだ。
ではなぜ、自分は死を望んでいるのだろうか。
アインの中には、その問いに対して漠然とした答えがあった。
右手に刻まれた禁忌の魔紋――黒鎖魔紋を抱えて生きていくことに、疲れてしまったからだ。
その運命は一人の少女が背負っていくにはあまりにも重すぎる運命だ。
心のどこかには、未だに狂気に馴染めずにいる普通の少女が残っているのかもしれない。
そのせいで、アインは狂気に塗れた道を進むことに疲れてきたのかもしれない。
それ故に、死を恐れなくなってしまったのだ。
目の前に迫る赤竜の王を見ても、麻痺した感覚では恐怖を抱くことは出来ない。
ただ、死という終末を目の前にして呆然と立っているしかなかった。
だが、それを良しとしない者がいた。
「うおおおおおおおおおおおおッ!」
竜に負けないほどの大きな咆哮を上げ、マシブが駆け出す。
今にもアインを叩き潰そうとしていた巨大な手を目掛け、二振りの大剣を力任せに叩きつける。
マシブによって僅かに軌道を逸らされた手は、アインの体を掠るだけに留まった。
その光景に、アインは驚いたように目を見開く。
「おい、アイン。大丈夫か?」
荒い息を吐きながらマシブが問う。
もし彼がいなければ、今頃は赤竜の王に叩き潰されて肉塊となっていたことだろう。
まさか彼がここまで成長しているとは思っていなかったため、アインは驚いた様子でマシブのことを見つめていた。
「何をきょとんとしてんだ。ほら、立てよ」
マシブに手を借りて立ち上がると、再びアインは槍を構える。
既に重力魔法は解けていたが、見る限りでは赤竜の王の魔力は大して減っていない。
最大限の警戒を以て戦わなければならないだろう。
アインは気合を入れなおすと、再び赤竜の王に向かって駆けていく。




