88話 竜との対話
赤竜の渓谷の奥地は酷く荒れ果てていた。
喰い散らかされた魔物の死骸が無残に放置されており、この地の過酷さを改めて理解する。
「……こりゃすげえな。死骸から素材を持って帰るだけでも良い稼ぎになりそうだぜ」
マシブが辺りを見回しながら呟く。
奥地に住まう魔物は浅部とは比べ物にならないほど強力なものが多い。
討伐するだけでもかなりの労だが、それ故に見返りは大きいだろう。
そんな魔物の素材が至る所に転がっているのだ。
死骸の中には、先ほど遭遇したクリスタルドラゴンや深緑の巨竜に匹敵するような竜も含まれていた。
これらを持ち帰ることが出来たならば、かなりの稼ぎとなることだろう。
ふと、アインは一つの死骸に視線を移す。
そこには純白の美しい鱗を持った竜の死骸があった。
その竜も随分と大きな体躯をしていた。
赤竜の王には及ばないものの、先ほどまで戦ってきた竜よりは一回り以上大きい。
縄張り争いに負けたのだろうか、腕が捥がれ喉元を喰い千切られた竜の死骸が、憂いの有る表情で静かに蹲っていた。
「この竜はッ……聖翼竜エリュシオンではないか!」
カタリーナが愕然とした表情で声を上げる。
血だまりの中で眠る竜には、生前そのような名前が付いていたらしい。
アインがドラグニアで最初に倒した黒竜ラージェのように、一定以上の知性を持つ竜は名を持つ。
「こいつ、そんな大層な竜なのか?」
「ああ……数少ない、人語を介する竜の一体だ」
マシブの問いに、カタリーナが返答する。
それほどの知性を持つ竜が、なぜ哀れな姿を晒しているのか。
少なくとも、この竜はドラグニアにとって赤竜の王と同様に重要な竜だったのだろう。
カタリーナは悔やむような表情で十字を切る。
せめて安らかに眠ってほしい、そんな思いから炎魔法で火葬をしようとするが――。
「……待って」
アインがそれを制止する。
その瞳はじっとエリュシオンに向けられている。
微かに感じるのだ。
生命の脈動を。
アインは警戒しつつ、その竜に近付いていく。
すると――。
『……人の子が、此のような地に何用だ』
腹の底が震えるような重厚な声色が脳内に直接響いてきた。
この声の主がエリュシオンなのだろう。
体を動かすほどの余力はないらしく、その瞼は閉じたままだった。
『此の地は今、人が足を踏み入れて良い領域ではない。早急に立ち去れ。さもなくば、赤竜の王の逆鱗に触れることだろう』
そう、この我のように。
エリュシオンは自嘲気味に言うと、ゆっくりと息を吐き出した。
「その赤竜の王を鎮めに来た。少し話を聞かせてほしい」
『傲慢な。かの竜を、矮小な存在である汝らで鎮められるとでも』
「なんなら殺してしまっても構わないのだけれど」
『……くっく、言うものだ』
エリュシオンはアインの動じない様子に、愉快そうに返した。
そのやり取りから危険はないと感じ取ったのか、マシブとカタリーナも歩み寄ってきた。
「聖翼竜エリュシオン。私はドラグニア王国、聖竜騎士団の団長カタリーナ・ブリュンヒルデにございます。どうか、御身に何が起きたのか、お教えいただきたい」
『天竜騎士団……ローレンの後継者か。単純なことだ。かの竜と争い、敗北しただけのこと』
エリュシオンは力無く翼を動かして、その身がもはや動くことさえ出来ないことを三人に見せつける。
それだけ過酷な戦いだったのだろう。
この惨状では、辛うじて息が残っていただけでも奇跡だった。
『……む?』
そこでエリュシオンは何かに気付いたかのようにアインの方に視線を向ける。
否、その視線はアインの右手に向けられていた。
『その気配……魔紋を刻まれし者か』
「分かるの?」
『当然だ。その力は大災厄に近しい性質を持っている。門を越えて来る邪なる力の奔流。その一端を汝から感じた』
エリュシオンの言葉の全ての意味を理解することは出来なかった。
だが、黒鎖魔紋を持っていることに勘付いているのは理解できた。
『その力を以てすれば、かの竜を鎮めることも出来るかもしれぬ。汝、その魔紋を刻んだ神の名前は何という?』
「名前……?」
今まで邪神としてしか認識していなかったため、それ以上のことは分からなかった。
アインは邪神に会ったことも無ければ名も知らないのだ。
返答に困っているアインを見て、エリュシオンが察する。
『ふむ、まだ汝の神は姿を見せていないということか。しかし、それにしては……』
エリュシオンは少し考え込んだ後、再びアインに声をかける。
『汝、もしや魂を喰らってはいないか?』
「……」
アインは無言で頷く。
自身の体の奥底に渦巻く邪悪な力。
奪った魂を己の糧とする性質に、エリュシオンは勘付いたようだった。
『まさかとは思ったが……そうか、汝が……』
エリュシオンは少し黙り込んだ後、その瞼をゆっくりと持ち上げた。
そして、魂に刻み付けるかのようにアインの姿を目に焼き付ける。
『汝、我が魂を糧とせよ。弱り切った此の身であれば、容易く喰らうことが出来るであろう』
「……いいの?」
『構わぬ。元より死に行く運命にあったのだ』
そう言うと、エリュシオンは血に塗れた頭部をゆっくりと持ち上げ、アインに差し出すように目の前に降ろした。
その瞳には先ほどまでのような憂いはない。
覚悟を決めた力強さのみがあった。
『かの竜……赤竜の王は、汝が持つ魔紋と同質の力によって理性を奪われている。鎮めるのであれば、かの竜が正気を取り戻すまで付き合うしかない。その覚悟が汝にあるのであれば、この魂を喜んで差し出そう』
アインは覚悟を伝えるかのように、魔槍『狼角』に魔力を込めていく。
これほど強大な力を持った竜の魂を喰らえば、アインの力も大きく高まることだろう。
『……ああ、一つ言い忘れていた』
エリュシオンが思い出したかのように呟く。
そして、紡がれる言葉はアインにとって重要な意味を持つものだった。
『汝の神は原初の神々の一柱。狂気と暴食を司りし、かの神の名は――ファナキエル』
その言葉を聞き終えると、アインはエリュシオンの脳天に槍を突き立てた。




