81話 竜の神殿
神殿の周辺は非常に静かだった。
巡礼者の類もおらず、ただ灯篭の明かりだけが寂しげに揺らめいている。
静寂に包まれた夜の神殿を前に、アインは感嘆の溜息を吐く。
辺境の村で育ってきたアインにとって、巨大な建造物というのはそれだけで物珍しいものだ。
以前滞在していたガルディアの壁も、武骨な砦ではあったが少し魅入ったほどだ。
だが、この神殿は格が違う。
アインが初めに抱いた感想がそれだった。
ただの古い建造物ではないことは、細部まで凝って造られた神殿を見れば理解できた。
荘厳にして華美、雄大にして繊細。
遥か昔に存在していたヴァハラタ様式という造りで、神殿は赤竜の王ロート・ベルディヌの偉大さを讃えていた。
しかし、それも昔のこと。
少し視線を逸らせば、教皇庁の威光を示す旗が立てられていた。
偉大なる巨竜を讃えてきたドラグニアの信仰心は、教皇庁によって管理されてしまっているのだろうか。
感傷に浸っていると、神殿の中から一人の修道女が出てきた。
「やはり、その旗は無粋に思われますか?」
「この旗は、見ていると不愉快な気分になってくる」
思い出すのは、最愛の両親を殺めた女騎士の姿。
圧倒的な強さを誇る、教皇庁の枢機卿アイゼルネ・ユングフラウ。
いずれ殺すべき仇の顔が浮かび、それまでの感傷は吹き飛んでしまっていた。
途端に殺気立った様子のアインを見て、修道女は少し身を震わせる。
だが、何か教皇庁との間に因縁があるのだろうと思ったのだろう。
すぐに穏和な笑みを浮かべ、アインに尋ねる。
「神殿にいらしたのは、何か御用でしょうか?」
「赤竜の王について調べに来た。ここなら、何か話を聞けると思って」
「そうでしたか。でしたら、司祭様の元へご案内致しましょうか? きっと色々な話を聞けると思いますよ」
修道女はそう言うや否や、神殿の扉を開けてアインを手招きする。
「どうぞ、こちらへ。きっと司祭様も喜ばれると思います」
その言葉に疑問を抱くが、特に警戒するようなこともないだろう。
ドラグニアでも赤竜の渓谷の神殿を任される者は高位の司祭だ。
話せるのであれば、アインとしても首を横に振る理由はなかった。
神殿の中に入ると、やはり建物内も静かだった。
なぜドラグニアの象徴である竜信仰が、ここまで廃れてしまっているのか。
巡礼者の一人もいない聖地など他に存在しないだろう。
だが、それ故に荘厳さを感じさせていた。
アインの体に重く圧し掛かる神殿の空気。
黒鎖魔紋にズキズキと疼く様な痛みが走った。
「――ここも駄目、か」
「ん、なにか仰いましたか?」
首を傾げる修道女の視線を気にも留めず、アインは自分の右手を見つめる。
皮手袋の内側には、この神聖な場に相応しくない悪しき存在を示す魔紋が刻まれている。
感じるのはそれだけではない。
この地で崇められている赤竜の王の威圧感。
まるで目の前で対峙したかのように、肌にピリピリとした殺気を感じた。
そこでアインは納得する。
赤竜の王の存在があってこそ、この国の竜信仰が認められているのだ。
これほどまでに強大な力を持つ竜に守られていては、如何に教皇庁と言えど迂闊に手を出すことは出来ないのだろう。
この神殿は、村の教会とは格が違う。
生半可な状態で立ち入ってしまえば、悪しき存在はそれだけで命を落としてしまうことだろう。
だが、耐えられないほどではない。
アインは額に一筋の汗が伝うのを感じたが、今すぐに死んでしまうほどの危機感は感じなかった。
自身の力が高まったからか、あるいは赤竜の王が様子見をしているのか。
右手を握りしめ、体の感覚が正常であることを確認する。
この程度の圧であれば、もし急に敵が現れたとしても問題なく対処できるだろう。
それこそアイゼルネが現れない限りは、黒鎖魔紋の力もあるため安心していられそうだった。
それにしても、と修道女が口を開く。
「このようなことを初対面の方にお聞きするのは失礼かもしれませんが……貴女のような方が、なぜ冒険者に?」
「私がそれを望んだから」
「望んだ、というと?」
さらに詳しく問おうとする修道女だったが、アインの表情を見て気付く。
その理由の先を聞くことは闇を喰らうことと同意であるということを。
「戦いの中にこそ、私の望む感動がある。愉悦がある。快楽がある。だから私は、殺し合いを生業にすることを選んだ」
アインは考える間もなく、素直にそう答えた。
月明りに照らし出された顔には、狂気的な笑みが浮かび上がっている。
ぞっとするような悍ましさと吸い込まれてしまいそうになるほどの魅力を兼ね備えた笑み。
それは、深い闇の奥に眠る根源的欲求。
黒鎖魔紋によって解き放たれたアインの本性だ。
尋ねたことを後悔したくなるほどだった。
見た目は普通の少女といった風であったが、その内に秘めた狂気は奈落よりも深い業を感じさせる。
これほど恐ろしい人物の隣を歩いていることが、修道女には怖くてたまらなかった。
だが、幸いなことに、目的の場所のすぐ近くにまで到着していた。
修道女はほっと胸を撫で下ろすと、アインを扉の前に案内する。
「司祭様はこちらにいらっしゃいます。それでは、ごゆっくり」
司祭への取り次ぎさえも放棄して、修道女はその場を立ち去る。
責任感のない行動のようにも思えたが、司祭ならば問題ないだろうとも思っていた。
アインは修道女の背を見送ると、扉に手をかけた。




