71話 二度目の祈りを
なぜイザベルが黒鎖魔紋を持っているのか。
アインは警戒した様子でイザベルを見据える。
拮抗していた実力が、再びイザベル優勢となってしまった。
虚空から剣を呼び出したということは、少なくとも第二段階までは自在に解放できるということだ。
戦うには、アインも黒鎖魔紋を解放しなければならない。
だが、アインは力を解放することを渋っていた。
戦場には、自分たち以外にも大勢の人間がいる。
彼らの目の前で黒鎖魔紋を解放してしまえば、その情報が教皇庁に伝わってしまうだろう。
教皇庁から追手が来ることは避けたかった。
並大抵の相手なら今のアインでも対処できるが、アイゼルネのような強者が来る可能性もある。
可能であれば素の状態でイザベルを倒したかった。
自軍も敵軍も、イザベルの姿を呆然と眺めていた。
誰もが戦う手を止め、彼女を警戒していた。
黒鎖魔紋は災厄を引き寄せる。
所有する者は悪魔の如く殺戮を繰り広げ、大勢の魂を喰らうだろう。
この世界において、邪神の寵愛を受けた者はそう認識されているのだ。
事実、イザベルの目は正気を保っていなかった。
狂ったような瞳で、強烈な殺気を放ちながら剣を構えている。
その姿を見てしまえば、皆が警戒してしまうのも無理はないだろう。
「なぜ、その力を……」
この場で発動したのか。
もしイザベルがアインに勝てたとしても、既にこの場には彼女の味方がいない。
どれだけ強大な力を持っていようと圧倒的な数を前にしては無力だ。
この場から逃れたとしても、教皇庁の追っ手に追われ続けることだろう。
「分からないの?」
イザベルは狂った瞳でアインに問いかける。
今にもその場にいる全員を斬り殺したい衝動を抑えて、理性的に振る舞っていた。
黒鎖魔紋の二段階目を解放してなお、彼女は理性を辛うじて保っているのだ。
「あたしはあなたに勝ちたい。それさえ叶えば、後のことなんてどうでもいい」
そうまでして、勝利を望むのか。
アインは愕然とイザベルを見つめ、しかし、彼女の望みを否定しきれなかった。
似ていたからだ。
互いに戦闘狂だからこそ、勝たねばならないと思っていた。
目の前にいる相手を越えられなければ、高みにはたどり着けないのだ。
イザベルは大きく息を吐き出すと、理性を手放す。
力を振るうには邪魔だったからだ。
瞳から完全に理性の色が消えると、イザベルは剣を構えて駆け出した。
凄まじい速度で振るわれた剣をアインは後方に飛んで回避する。
だが、返す刃が再び襲い掛かってきた。
苛烈な猛攻を前にして、ただ避けるだけしかできない。
理解していたつもりだったが、それでもイザベルの力は想像以上のものだった。
黒鎖魔紋を解放していないアインでは反撃する暇も無い。
辛うじて躱し続けているが、それもどこまで続くか分からなかった。
恐るべきはイザベルの剣閃の鋭さだった。
理性を失っていながらも、その剣は確実に致命傷となる個所を狙ってきている。
黒鎖魔紋を解放したことによって先ほどとは比べ物にならないほどの力を発揮していた。
その凄まじい強さはアイゼルネを彷彿とさせたが、彼女はイザベルよりもさらに上を行く。
ここで手こずっているようでは親の仇を討つことなどできない。
黒鎖魔紋を解放せず、己の力のみで勝つ。
アインは気合を入れなおすと、イザベルの剣を槍で弾いて攻勢に出る。
「はああああああッ!」
魔力を込めて一閃。
しかし、イザベルはそれを剣で容易く弾き、隙の出来たアインに剣を振るう。
体を捻ることで辛うじて躱すと、勢いを利用して転がるように距離を取る。
再び槍を構えようとするが、既にイザベルが眼前に迫ってきていた。
体勢が整っていない状態では上手く躱すこともできない。
剣を受けることを覚悟したアインだったが、間に割り込むように一人の男が現れる。
「――ッ!?」
ハインリヒだった。
彼が身を挺してアインを守り、イザベルの剣を受けていた。
背から生えている黒い剣は、確かに彼の心臓を貫いている。
「ぐ……がはッ!」
大量の血を吐き出して、ハインリヒが苦しそうに倒れ込む。
即死ではなかったが、それでも長い命ではないだろう。
周囲の地面に地が広がっていく。
「なんで……」
その問いに、ハインリヒは笑って見せる。
「僕が……これを、選んだんだ。ここが死に場所なのだと、ね……」
元より死ぬ覚悟は出来ていた。
最愛の妻を失って、さらに息子は殺戮者となってしまったのだ。
楽になる手段はこれしか残されていなかったのだ。
だが、唯一救いがあるとすれば、彼はその命を無駄に散らさずに済んだということだろう。
砦で腹を斬ろうと苦悩した時もあったが、彼は辛うじて思い留まった。
どうせ死ぬならば、この戦争の中で死ねばいい。
自分の命を有効に活用できると気があったならば、そこが己の死に場所なのだと。
力無く倒れているハインリヒを見て、アインは己の無力を悔やむ。
もし自分がイザベルを相手に苦戦していなければ、彼がこの場で死ぬことはなかったかもしれない。
だが、悲しみに暮れている暇はない。
目の前には、今も殺気を放ち続けるイザベルがいるのだ。
ハインリヒが割り込んだことには驚いていたようだったが、それでもアインを殺すという目的は変わっていない。
アインは自身の右手を見つめる。
黒鎖魔紋を解放するべきか否か。
苦悩の後に、アインはその手を降ろして槍に添えた。
力を解放せずに戦う覚悟を決めた。
だが、今のままではイザベルには届かない。
アインはここに来て初めて、自ら強大な力を欲した。
それまでは生き延びることを考えてきた。
災禍の日を乗り越えられればいいと思っていた。
いずれはアイゼルネにも勝てるほどの力が欲しいとは思っていた。
だが、それでは足りないのだ。
アインはイザベルの姿を見て再確認する。
己が目指すべき場所は何処か。
そして、そのためには何が必要なのかを。
――もっと、力が欲しい。
欲望のままに槍を振るえるだけの力が欲しかった。
何者にも負けないほどの力が欲しかった。
ただ生き延びるだけでは足りない。
敵対する者を皆殺しに出来るだけの力が欲しかった。
その時、アインの脳内に声が響いた。
『――汝の行く道に祝福あれ』
邪神の声が響いた。
悍ましく、そして甘美な声。
聞いているだけで蕩けてしまいそうな声だった。
二度目の祈りは、果たして何を齎すのか。
アインは槍を構えようとして、己の体の違和感に気付く。
力が湧き上がってくるのだ。
まるで黒鎖魔紋を解放した時のような力が。
アインは力を解放していないというのに、強大な力が湧き上がってきていた。
理由は分からない。
だが、アイン自身の力が飛躍的に高まっているのは確かだった。
これほどの力があれば、黒鎖魔紋を解放せずともイザベルと渡り合えるだろう。
アインは嗤っていた。
湧き上がる力の、なんと心地いい事か。
この力を存分に振るえたならば、きっと愉しいだろう。
アインは魔槍『狼角』を構え、今度は自らイザベルに襲い掛かっていく。




