66話 巻き込む
それから二日後の夕暮れ時。
アインは日が沈む半刻ほど前に、こっそりと砦を後にする。
黒鎖魔紋が酷く疼く。
まるでこの時を待ち侘びていたかのように、アインの体は歓喜に打ち震えていた。
脇腹の傷は塞がり切ってはいないが、ガーランドから貰った薬酒のおかげで多少体を動かす分には問題なさそうだった。
これだけ回復していれば十分だろう。
アインは災禍の日を迎えるにあたって、人目に付かない場所を探す。
普段は森の奥で迎えることが多かったが、ベルグラード地方は荒野が広がっているばかりだ。
他人を巻き込まないで済む場所を探すとすれば、随分歩くことになるだろう。
アインは面倒だと思いつつ移動を続ける。
砦で借りた地図では、この先に大きな谷があるとのこと。
そこであれば、さすがに誰かを巻き込むということはないだろう。
他人を巻き込むことなど、今のアインにとってはどうでもいい事だった。
もし死んでしまったとしても、それはその者に運が無かっただけ。
以前のアインは他人の死を悲しみ、そして恐れていた。
それがなくなった今では、人に見られると面倒だという程度のことでしかなかった。
もし黒鎖魔紋を誰かに見られでもすれば、その情報は教皇庁に入ってしまうだろう。
そうなれば、アインの唯一恐れる枢機卿アイゼルネ・ユングフラウに追われることになるかもしれない。
いずれ殺してやりたいとは思っていたが、今の自分が通用するとはとても思えない。
だが、今宵は不幸にも先客がいた。
ちょうど馬車を襲撃したらしい盗賊たちが、アインの目的地である谷で野営をしていたのだ。
彼らは大量の戦利品を下卑た笑い声を上げながら山分けしていた。
綺麗な身なりをした少女が縄に巻かれて転がされているのを見れば、彼女もまた戦利品の一つなのだろう。
この程度の相手であれば問題ない。
アインは盗賊たちに向かって駆け出すと、夕闇に紛れて奇襲を仕掛ける。
「ぐぁああああああッ!」
一人の男が断末魔を上げることで、盗賊たちは慌てて戦闘態勢に入った。
存外に手練れが揃っているらしく統率が取れており、行動も早かった。
アインは残っている者たちを品定めするように眺める。
「て、てめえ、なにモンだ!」
問いに対する返答は無い。
アインは無言で槍を構えると、再び彼らに襲い掛かる。
手練れではあったものの、やはり地力に差がありすぎる。
アインは瞬く間に盗賊たちを制圧すると、槍に付いた血を振り払った。
視線を少女に向ける。
彼女は怯えた様子で震えていたが、アインが敵ではないと分かると安堵したように息を吐いた。
アインは縄を斬って彼女を解放する。
「あ、あの……助けていただいて、ありがとうございます!」
「礼は良いから、早くここから逃げて」
そう言うと、アインは少女から視線を外す。
だが、少女は事情が分からないといった様子でアインに尋ねる。
「えっと、盗賊たちはもう倒したんですよね? それに、お礼もまだですし……」
その場に残ろうとする少女に、アインは大きくため息を吐いた。
無言で歩き出したアインを見て少女が困惑する。
「あの……?」
一人で荒野を歩くのは心細いのだろう。
少女はアインに縋るようについてきていた。
普段であれば情をかけても良かったのだが、今日ばかりは事情が違った。
アインは鬱陶しそうに少女に振り返る。
「悪いけど、構っている暇はないから」
「せめて、近くの街にだけでも送っていただけませんか? この辺は魔物が多いので、一人ではさすがに……」
ベルグラード地方は魔物が多い。
か弱い少女が一番近い街に向かうとすれば、それこそ奇跡ともいえるほどの強運が無ければ不可能だ。
アインの助けがなければ、どちらにしても少女は死ぬ運命にあるのだろう。
だが、少女は知らなかった。
アインに縋ることが、彼女に与えられた選択肢の中で最も危険であることを。
アインが徐に空を見上げる。
その動作の意味が少女には分からなかった。
丁度日が沈み、空は黒く染まる。
「――ああ、遅かった」
アインは残念そうに呟く。
だが、罪悪感は無い。
どちらにしても、少女は死ぬ運命にあったのだ。
自分が見ず知らずの少女の命まで抱え込む義理は無い。
昔のアインであれば、死に物狂いで少女の命を守ろうとしただろう。
そして、守り切れずに命を落とした少女の死を悲しむだろう。
黒鎖魔紋を得てしまったがために巻き込んでしまったのだと罪悪感を抱いたかもしれない。
だが、今のアインにあるのは酷く乾いた心のみ。
少女の命がどうなろうと知ったことではない。
もとより死ぬ運命にあったのだから、それが少し先延ばしになったとしか思えなかった。
今は己のことに集中するべきだ。
災禍の日は、見ず知らずの少女を気にかけていられるほど生易しいものではない。
アインは右手の皮手袋を外すと、黒鎖魔紋を解放する。
「我は渇望する。永劫の悦楽よ、此処にあれと――血餓の狂槍」
魔槍『狼角』を地に突き立て、本来の武器を呼び出す。
まるで宵闇の一部を切り取ったかのような、とても昏い漆黒の槍。
血に飢えた獣の牙――血餓の狂槍を手に取って、アインは嗤う。
やはり、黒鎖魔紋を解放した時ほど心地いい時はない。
アインは体の内から湧き上がる力に歓喜していた。
災禍の日は存分に力を振るうことが出来る。
死の危険があるが、それでも待ち遠しいと思えるほどに素晴らしい。
少女は嫌な気配を感じて周囲を見回す。
縋るようにアインに近付くが、アインは少女に槍を突き付ける。
「私の邪魔にならないところで足掻いて」
そう言うと、アインは槍を構える。
やがて、そこら中から足音が聞こえてきた。
現れたのは魔物の軍勢。
赤黒い瘴気に包まれた異形の怪物だ。
それらはこの世のものとは思えない、悍ましい姿をしていた。
「な、なんですか……これ……?」
少女は理解が追い付いていないようだった。
だが、災禍の日は常人であろうと容赦はしない。
唯一彼女に罪があるとすれば、アインの力に頼ろうとしてこの場に留まってしまった事だろう。
アインが戦い始めて、一分もしないうちに少女の断末魔が聞こえてきた。
だが、それを気にも留めず槍を振るい続ける。
死に行く命を全て抱え込んでしまえば、いずれ自分が潰れてしまうことが分かっていたからだ。
アインは苛立った様子で近くの魔物を蹴り飛ばす。
今はただ、災禍の日に集中するべきだ。
気にする必要はないと自分に言い聞かせて、声を荒げて魔物の軍勢に向かっていった。




