65話 突き付ける
砦の屋上に上がると、アインは適当なところに腰掛けて空を眺める。
風が強く吹いていた。
傷はまだ痛んでいたが、酒を飲んだせいか感覚が鈍くなり痛みが薄くなっていた。
あるいは、ガーランドからもらった薬酒の効果だろうか。
痛みが和らいでいるおかげでゆっくり休むことが出来るだろう。
アインは右手の甲を見つめる。
微かに黒鎖魔紋が疼いていた。
今日ではないだろうが、おそらく明日か明後日には災禍の日が訪れるだろう。
傷は癒え始めているが、災禍の日には間に合いそうになかった。
万全の状態で迎えることは出来なかったが、しかし、黒鎖魔紋の力は十全に温存できている。
どちらにせよ、結局は魔物たちによって酷い傷を受けるのだ。
もとから脇腹に傷があったとしても大差ないかもしれない。
今は災禍の日に備えてゆっくり休むべきだろう。
空を眺めながら微睡んでいると、ふと近付いてくる気配に気付く。
「やあ、アイン。傷はもう大丈夫なのかい?」
ハインリヒだった。
彼はアインの近くに腰掛けると、共に空を眺める。
「あれだけの傷を受けて、僕だったらしばらく動けないよ。君は丈夫なんだね」
「……治ったわけじゃない。けど、退屈だったから」
「なるほどね」
まだ傷口が塞がった程度だ。
体を動かせばすぐに傷口は開くだろうし、戦闘など以ての外だ。
しばらくは安静にしていなければならないだろう。
「……酒を飲んでいるのかい?」
「ええ」
アインから酒の匂いを感じ取って、ハインリヒは心配した様子で尋ねる。
怪我をしているのだから安静にした方が良い、と言いたげな表情をしていた。
「それにしても、まさか君が『剣帝』を退けるとは思わなかった。彼女が相手だと、きっと僕とガーランドが二人がかりで戦っても厳しかっただろうね」
「結果的に勝てただけ。それに、きっと次は上手くいかない」
「どうだろうね。確かに『剣帝』と称されるだけあって彼女の技量は本物だ。けど、君だって良い腕を持っている」
それは素直な称賛だった。
ハインリヒから見て、アインの槍術は見事なものだ。
まだ荒いところもあるが、それにしても随分と磨き上げられている。
それもそのはずだろう。
アインの槍術は、数多の死線を潜り抜けてきたものだ。
そこには命の重さがあり、技術があり、そして誇りがある。
ぬくぬくと生きてきた人間では、アインを殺すことは出来ないだろう。
それを感じ取ったからこそ、ハインリヒはアインが勝てるかもしれないと思っていた。
技量では劣っていても、今に至るまでの道程はアインの方が嶮しいものだ。
イザベルは敗北の痛みを知らない。
地を這いながらもがき続ける苦しさを知らないのだ。
叩き上げられた鋼の意志が、アインがイザベルに対して勝っている部分だ。
これがある限り、どちらが勝つかは最後まで分からない。
「僕も、君のように強く在れたらと思っているんだけどね。そうすれば、家族を失うなんてこともなかった」
「……詳しく聞いてもいい?」
「ああ、僕としても吐き出した気分だったからね。少し長くなるけれど、聞いてくれると嬉しい」
それは、ハインリヒが『竜殺し』という二つ名を得た時の話。
同時に愛する妻と息子を失った話だった。
「僕はベルグラード地方の……ちょうど、ここから東へ行ったところにあった街に住んでいた。あまり栄えている街ではなかったけれど、周囲に魔物が多かったから仕事には困らなかった」
夫婦で冒険者をやっていた二人は、その街を拠点に様々な討伐依頼を受けていた。
特にハインリヒはゴールドの冒険者であり、相応の実力者だ。
彼がいる限り、易々と命の危機にさらされることはないだろう。
「妻のエルティーナは治癒術師で、薬師としても優れていた。彼女の助けがあったから、僕も随分と無茶をしたものだ」
エルティーナという名を聞いて、アインはやはりと頷く。
ヘスリッヒ村に流れ着いた親子。
病に冒されて命を落としたエルティーナは、ハインリヒの妻だ。
「息子もいたんだ。アルフレッドっていう名前で、年の割によくできた息子だった」
ヘスリッヒ村の住人を殺し尽くした幼子――アルフレッド。
彼の行方は未だに分からない。
もしかすれば、黒鎖魔紋の力を悪用しているかもしれない。
「僕ら家族は幸せに暮らしていた。けど、不幸なことがあった。住んでいた街が、地竜の群れに襲撃されたんだ」
そこからは、エルティーナから聞いた話と同じものだった。
ハインリヒが街の冒険者たちと共に地竜の相手をして、その隙に女子供や老人を逃がす。
違うのは、そこから先の話だった。
エルティーナは地竜の群れによってハインリヒが殺されたと語った。
直接見たわけではないが、去り際に見た街の惨状は惨いものだったのだと。
そして、彼女は最愛の夫が命を落としたのだと悟ったという。
だが、ハインリヒは生き延びていた。
「僕は必死の思いで抵抗したよ。街が壊されても、家族だけは守らないとってね。街に残った冒険者のほとんどは死んでしまったけれど、僕を含めて少数だけど生き延びることが出来た。そして、その時に地竜を一匹討伐することが出来たんだ。『竜殺し』という二つ名もその時に得たものだ」
地竜は固い鱗に覆われた強靭な肉体を持つ魔物だ。
飛竜と比べて空は飛べないが。代わりに地上においては最強の魔物とされている。
本来であれば群れを成すことは無く、一匹だけで過ごすことが多い。
だが、不幸にも彼の住んでいた街は何故か群れを成した地竜に襲われてしまった。
「僕はそれから、エルティーナとアルフレッドを探して旅をしたんだ。急な事だったから、合流する場所を決めていなくてね。彼女のことだから、早とちりをして僕が死んだなんて思い込んでたのかもしれない」
エルティーナはハインリヒが死んだと思い込んでいた。
だから、自分がアルフレッドを守らなければと、暮らしていける場所を探していた。
彼女は治癒術師であり薬師でもある。
それだけの能力があれば、どの場所でも仕事は容易く得られただろう。
だが、体が病に冒されてしまったがためにそれは叶わなかった。
「エルティーナとアルフレッドは最後まで見つけることが出来なかった。ギルドにも捜索依頼を出したが、駄目だった。途方に暮れていた僕の所に来たのは、惨い知らせだったよ」
――魔物に襲われて、幼子を連れた女性が命を落としたらしい。
ハインリヒは、それがエルティーナとアルフレッドのことだと伝えられていた。
実際に現場に居合わせた人物からも話を聞いたが、偶然にもその男が話す人物像はエルティーナとアルフレッドと一致していたのだ。
それ故に、ハインリヒは家族が死んでしまったのだと思ってしまった。
「僕は無力だ。あの時、どうしていれば良かったんだろうね。二人と一緒に逃げていればこんなことにはならなかったかもしれないけれど、今更後悔しても遅い」
ハインリヒは辛そうな表情で俯く。
家族を失う痛みをアインは良く知っていた。
知っていたからこそ、真実を伝えるべきなのか悩んでしまう。
真実を告げるには、あまりにも残酷すぎる。
アインは出来るなら伝えずにいるべきだと思っていた。
しかし、ハインリヒはおもむろに顔を上げると、アインに向き直る。
「ねえ、アイン。君に聞きたいことがある。その腰に付けたポーチは、どこで手に入れたんだい?」
それは、エルティーナから受け取ったウエストポーチだった。
空間収納の魔道具であり、便利だったためアインはそのまま使っている。
「……残酷な話になる。それでも良いなら」
「ああ、聞かせてくれ」
ハインリヒは少し首を傾げるが、すぐに頷いた。
妻がもし生きているのであればと、アインの腰に付けたポーチを見て思ったのだろう。
それが、彼を余計に苦しませることになるとまでは、ハインリヒは考えていなかった。
「まず、エルティーナさんは死んだ。きっと、最後まで苦しみ続けたんだと思う」
「……というと?」
「彼女は森の奥にある辺境の村で、流れ者として虐げられ続けていた。そして、彼女が訪れたのと同時期に起きた流行り病も彼女のせいにされていた」
「そ、そんな……」
それだけで、ハインリヒは胸が苦しくなってしまった。
愛する妻が余所者として、しかも流行り病の元凶とされて虐げられていたのだ。
だが、それだけではない。
「だったら、そう……あれだ、村の外に出ればよかったんじゃないか!?」
「彼女はその村に辿り着いた時には、既に動けないほどに病に冒されていた。もちろん、流行り病とは全く関係ない、別の病気だった」
「アルフレッドはどうだったんだ?」
「彼も酷く虐げられていた。私が止めなければ、嬲り殺されていたかもしれないほどに」
愕然とした表情で、ハインリヒはその場に崩れ落ちる。
己の知らないところで家族が苦しんでいたというのに、助けることが出来なかったのだ。
これほど後悔することはないだろう。
「流行り病の原因は村の近くに巣を作っていた魔物だった。けど、エルティーナさんは自身の無実が証明される前に、病で命を落とした」
「それじゃあ、僕が聞いた魔物に襲われた親子っていうのは……?」
「特徴が似ていただけの別人」
「人違い、か。そうか……は、ははは……」
ハインリヒが乾いた笑みを漏らす。
彼は家族の捜索をそれで打ち切ってしまったのだ。
精神が疲弊しきっていたのだから仕方がないとはいえ、後になって真実を知るのはあまりにも残酷すぎた。
「……そうだ。なら、アルフレッドは?」
その問いは、アインが一番返答に困るものだった。
黒鎖魔紋を得て村の人々を殺戮したなど、今のハインリヒには話せそうにない。
しかし、かといって嘘を伝えるのは残酷すぎる。
死んだと言って誤魔化した方がマシかもしれないが、ハインリヒはそれを望まないだろう。
アインはしばらく悩んでいたが、覚悟を決める。
「アルフレッドは、母親を失った悲しみで黒鎖魔紋を得た。そして、自分たちを虐げてきた村人を皆殺しにして、その後の行方は分からない」
「そんな、アルフレッドが……」
信じられないといった様子でハインリヒが呆然と呟く。
彼の知っているアルフレッドは無邪気な子供だ。
しかし、ヘスリッヒ村での生活によって歪んでしまった彼は、最終的に殺戮者となってしまった。
やはり伝えるべきではなかったか。
アインはハインリヒの反応を見て後悔する。
彼は茫然自失といった様子で、力なく項垂れていた。
「このポーチは、エルティーナさんが死ぬ前に私に譲ってくれた物。彼女は村の人々に酷く虐げられていたというのに、流行り病が収まることを望んでいたから」
「エルティーナらしいね。彼女は、すごく善良な心を、持っていたんだ……」
嗚咽交じりにハインリヒが言う。
彼は泣いていた。
妻と子が悲惨な運命を辿ったことを悲しんでいた。
己の無力さを悔いて泣いていた。
「……ありがとう。その話が聞けて、本当に良かった」
そう言うも、ハインリヒの表情は浮かない。
これだけ残酷な真実を突き付けられて、すぐに立ち直ることは出来ないだろう。
彼はこの傷を一生背負うことになるかもしれないのだ。
「ハインリヒさん。もしよければ、このポーチを」
「……いや、大丈夫だ。それはそのまま君が使ってくれ。他でもない彼女が望んだことなんだ、その方が彼女のためにもなる」
ハインリヒは勢い良く立ち上がって涙を拭う。
吹っ切れたようにも見えるが、自棄になっているようにも見えた。
「僕は部屋に戻ることにするよ。少し、時間が欲しいからね」
そう言うと、ハインリヒは去っていった。
どこか不安の残る様子に、アインは不安を抱く。
屋上に取り残されたアインは空を見上げる。
ただ、黒鎖魔紋の疼きだけが不穏に残っていた。




