6話 災禍の日
ゾクリ、嫌な寒気を感じた。
背筋を冷たい指でなぞられるような不快さ。
まるで何者かに弄ばれているかのような感覚。
だというのに、何故だろう。
この胸の高鳴りは。魂が震える、この歓びは。
アインと同様に――否、それ以上に高ぶっているのだろう。
ヴァルターは血走った眼で、天を仰ぐ。
「さあさあ、これより始まるのは災禍の日! 黒鎖魔紋を持つ者に与えられる試練。力無き者はここで死に、力有る者は生き永らえるのです!」
永遠に、とヴァルターは嗤う。
押し寄せる化け物を相手に、夜明けまで立っていられたならば。
次の試練まで、束の間の安息を楽しむことが出来るのだと。
「今宵の災禍は如何程か! さあ、さあ! 私はまた、試練を乗り越えるのです!」
右手の手袋を外し、無造作に投げ捨てる。
ヴァルターの右手に刻まれた黒鎖魔紋が、夜の闇の中で妖しく光を放っていた。
「我は夢想する。堕ち行く者の、道の果て――夢幻の狂典」
黒鎖魔紋から赤黒い光が発せられる。
そして、手にした魔導書に黒い鎖のような模様が浮かび上がった。
それは理性という枷を封ずる魔紋。
己の知性と引き換えに、戦うための強大な力を得られるのだ。
魔導書を持つ右手には、黒鎖魔紋が妖しく光を発していた。
曝け出された本能。
彼は今、解き放たれた。
「さあ、アイン。貴女も力を解き放つのです! でなければ、その先にあるのは死のみです!」
ヴァルターは声を上げる。
森の至る所から聞こえる荒々しい足音。
その全てが、二人の魂を狙っていた。
アインは自分の右手を見つめ、しかし躊躇してしまう。
今でも鮮明に覚えているのだ。オークを蹂躙した時の快楽を。衝動に任せて暴れることの開放感を。
しかし、だからこそ――。
「こんな、こんなの……私は……」
認めたくなかった。
自分は残虐な人間ではない。
神の敬虔な信徒である父親と、陽だまりのように優しい母親との間に生まれた村娘のアイン。
決して、命を奪って快楽を感じるような狂った人間ではない。
しかし、アインの決断を待ってくれるほど災禍の日は生易しいものではない。
アインの肩に、粘着質な液体が垂れてきた。
獣のような生臭さ。アインの体が強張る。
恐る恐る後ろを振り返ってみると――。
「――ひっ!」
そこにあったのは巨大な顔だった。
アインよりもはるかに大きな魔獣。二つの頭を生やした、獰猛な獣。
今ならばわかる。ヴァルターがオークを嗤ったことの意味が。
災禍の日は、そんな甘いものではないのだ。
こんなものに巻き込まれたら、一体どれだけの人間が死んでしまうのだろう。
死にたくない。
アインが考えることは、ただそれだけ。
それ以上のものは望まない。
ただ、生きていたいだけ。
しかし、生き延びるには黒鎖魔紋に頼らなければならない。
そうなれば、アインはまた悪夢を見ることになるのだ。
このままでは死んでしまう。しかし、狂っていく自分が恐ろしい。
身を震わせるアインの横では、獣が今にもアインの命を奪おうとして――爆ぜた。
返り血をびしゃびしゃと浴びながら、アインは驚いたように目を見開く。
「十秒だけ差し上げます。だから選びなさい、アイン! 貴女はここで死ぬのか、それとも生きるのかを!」
アインを庇うように、ヴァルターが魔物たちと対峙する。
巨大な獣。骸骨の騎士。粘体質の魔物。猛毒を持った虫。
波のように押し寄せる魔物の全てを、ヴァルターが退けていく。
碌に考える時間もない。
常人ならば、困惑したまま時間が過ぎてしまうかもしれない。
しかしアインは気づいてしまったのだ。
先ほど浴びた返り血の生暖かさが、心地の良いことに。
「私は……」
死にたくない。ただ、それだけではない。
自分がどのような人間であるのか。
それを今、アインは少しだけ受け入れようとする。
「さあアイン! 貴女の選択を、この私が見届けましょう!」
周囲の魔物を一掃し、僅かにできた時間。
ヴァルターが見守る中、アインは静かに右手を前に突き出し――。
「我は渇望する。永劫の悦楽よ、此処にあれと――血餓の狂槍」
狂うことを、決意した。
黒鎖魔紋から赤黒い線が、アインの体を這うように広がっていく。
腕に、胴体に、脚に、首筋に。
黒い鎖の魔紋が、アインの体中に走っていく。
そして、歓喜する。
理性の外れた魂の、なんと心地よいことか。
湧き上がる衝動を抑える必要もない。
災禍の日は、彼女の内に秘めた黒いモノを受け止めてくれるのだから。
槍を振るうことに理由など必要ない。嘘偽りを並びたてたところで意味などない。
アインは今、視界に映る全てを殺し尽くしてやりたいと思っていた。
さあ、あとは夜明けまで暴れるだけ。
槍を構えたアインは、獣のように犬歯を剝き出しにして嗤う。
「ああ、アイン! やはり貴女は見込んだ通りでした! 存分に暴れ、共にこの夜を乗り越えましょう!」
返事をすることもなく、殺戮の宴を開始する。
魔物の命を奪う度、アインは残虐に、凶暴に、狂っていく。
その感覚が、たまらなく心地よかった。
やがて辺り一帯が血で一色に染まる頃。
ようやく、長い夜が明けた。