53話 異変の元凶(1)
現れたのは、巨大な蛾の魔物だった。
その体躯はヴェノムモスの比ではない。
目の前に竜が現れたかのように錯覚するほどの大きさだ。
漆黒の表皮に身を包んでいた。
その身にどれだけ強大な魔力を秘めているのだろうか。
溢れ出た魔力が表皮を結晶化させており、至る所が魔石の装甲に覆われていた。
それだけ多くの魔力を喰らってきたのだろう。
胴体から黒い瘴気を発しながら、魔物はギチギチと歯を鳴らす。
以前感じた空気の淀みは魔物の生み出した瘴気によるもので間違いなかった。
であれば、森の異変の元凶であり、そしてヘスリッヒ村の流行り病の元凶でもあるのがこの魔物だろう。
魔物は巨大な羽をゆっくりと動かし始める。
その羽ばたきによって地が震えていた。
だが、喰らいすぎて肥大化した体は飛べそうにないようだった。
鈍重な体を動かして、魔物はアインとベルンハルトの方を向いた。
その眼に映っているのはちっぽけな存在。
目覚めたばかりの魔物にとって丁度良い餌に過ぎなかった。
「おいおい、アレと殺し合えっていうのか。冗談じゃない」
大量のヴェノムモスだけでも彼にとっては命の危険があった。
だが、目の前にいる魔物と相対してみればわかる。
先ほどまでの戦いは生温いものだったのだと。
足の一本だけでも自分より大きいのだ。
頭部や胴体、羽も含めればベルンハルトが住んでいた家よりも大きいくらいだった。
――馬鹿げている。
そう考えてしまうのも仕方のないことだろう。
明らかに人の手に負えるような相手ではないのだ。
それこそ一つの国家が総力を挙げて討伐するような、災害とも呼ぶべき相手だろう。
それほどまでに、この魔物は成長しすぎてしまっている。
もし発見するのが今よりもさらに遅かったならば、きっと二人には成す術が無かっただろう。
だが、この状況においてもアインは嗤っていた。
楽しくて仕方がないのだ。
自らに死を覚悟させるような相手が姿を現したことが、堪らなく嬉しいのだ。
「ベルンハルトさん、厳しそうなら逃げて」
「それこそ冗談じゃない。ここまで来たんだ、付き合うさ」
ベルンハルトは魔導銃『六芒星』を構える。
しかし、その手は震えていた。
心の中では逃げたくて仕方がなかった。
それだけの恐怖を感じながらも、ベルンハルトは逃げずに踏み止まった。
あるいは、既に逃げる気力も残っていなかったのかもしれない。
草陰に身を隠している彼の足は酷く震えていた。
その状態で、果たしてあの悍ましい魔物を振り切れるほどの速度で走れるだろうか。
強がって見せたところで状況が変わるわけではない。
今いる二人だけで目の前にいる化け物を相手にしなければならないのだ。
「こいつは、そうだな……グラトニーモスとでも呼ぶべきか」
暴食の鎧蛾――グラトニーモス。
その巨躯が、アインに狙いを定めて突進してきた。
「――ッ!」
アインは横に移動して軌道上から離れる。
見た目相応に動きは遅かったが、もし巨躯から繰り出される突進をくらえばひとたまりもないだろう。
すれ違いざまに槍を突き立てるが、魔石化した表皮が鎧のようにグラトニーモスの身を守った。
予想していたよりも遥かに頑丈で小さな傷をつけることがやっとだった。
隙間を上手く突いていくしかないだろう。
だが、それではグラトニーモスの巨体に有効な一撃を与えられない。
もう一度黒鎖魔紋を解放すれば随分と楽になるかもしれないが、消耗を避けるためにも極力使いたくなかった。
後方から一線の光が突き抜ける。
ベルンハルトの撃ち出した光弾がグラトニーモスの鎧の隙間を穿つ。
しかし、それは全体で見れば僅かな傷でしかなかった。
グラトニーモスが脚を薙ぎ払うように振るう。
周囲の木々を薙ぎ倒しながら振るわれた脚を、アインは地に伏せて躱す。
あの巨体を支えるほどの力がある脚だ。
もし直撃してしまえば、体中の骨が粉々に砕けてしまうことだろう。
有効な攻撃が思い浮かばなかった。
首元は特に分厚い魔石で覆われており、胴体は隙間があるものの、多少の傷を与えるだけでは効果は薄いだろう。
以前迷宮でブレイドヴァイパーと戦った時も似たような状況だったが、あの時はゾフィーの魔法によって頭部を切り落とすことが出来たから勝てたのだ。
先ほどまでの戦いで魔力も随分と消耗してきており、頭部を切り落とすほどの力は残っていない。
考えている間にもグラトニーモスの猛攻は続く。
牙と脚の両方に気を付けなければならない状況では、対策を考えることさえままならない。
振るわれる巨大な脚を槍で受け流して、アインは荒く息を吐き出す。
相手は理不尽の塊のような存在だ。
闇雲に攻撃を繰り返しただけでは意味がない。
かといって、今の二人では有効な一撃を加えることもできない。
目を突き刺して視界を奪うべきかとも考えたが、それで激しく暴れられたら余計に厄介なことになってしまう。
何より、グラトニーモスの複眼を全て潰すこと自体が難しい。
徐々に体力を奪って弱らせていけるような、何か確実な戦法が必要だった。




