51話 憎悪に狂う
同刻、ヘスリッヒ村。
目を覚ましたアルフレッドは、いつも通りエルティーナの看病をする。
そして、穏やかに眠る彼女を見てから木の実を取りに行こうと考えていた。
だが、その日だけは違った。
エルティーナが目を覚まさないのだ。
普段はアルフレッドがやってくるとすぐに目を覚ますのに、今日は全く起きる気配がない。
疲れているのだろうか。
アルフレッドは静かに眠る母親の顔を眺める。
それなら、無理に起こすわけにもいかないだろう。
そう思っていたが、彼は気づいてしまった。
エルティーナが呼吸をしていない。
「……か、母さん! 母さんってば!」
焦燥に駆られ、体中から汗が噴き出してきた。
体を大きく揺さぶっても、彼の母は全く目を覚まさない。
頭がおかしくなりそうだった。
あれだけ優しかった母親が目の前で死んでいるのだ。
ついに村人たちからの謝罪もされぬまま息を引き取ってしまったのだ。
「嘘だ……こんなの、絶対に嘘だ……」
認めようにも認められない。
大切な母親が、病で苦しみながら死んでしまった。
そして、最後まで村人たちから責め続けられて死んでしまった。
彼女はどれだけ無念だったことだろうか。
大切な息子を置いて、先に旅立ってしまうこと。
そして疑いが晴れぬ前に死んでしまうこと。
エルティーナはもう、この世には存在しないのだ。
「嫌だよ、母さん……なんで……」
アルフレットの頬を大粒の涙が伝う。
溢れ出して止まらなかった。
母を失った悲しみは自責へと変わり、やがて憎悪へと変貌する。
「……この村の連中が母さんを苦しめたからだ」
己の無力さが憎かった。
それ以上に、大切な母親を苦しめ続けた村人たちが憎かった。
殺してやりたい。
一人残らず殺してやりたい。
衝動のままに殺戮できたら、この悲しみも幾分かはマシになるだろうか。
そんな彼の脳裏に声が響いた。
『――汝の行く道に祝福あれ』
邪神が囁いた。
血が滲むほど強く握られた拳に、黒鎖魔紋が浮かび上がる。
まるで彼の意思に応えるかのように。
アルフレッドには、自身の右手に刻まれた魔紋の正体が分からなかった。
これがどれだけ危険な代物かを理解できなかった。
ただ、漠然と自身の望みを叶えてくれるものだと思えた。
「我は清浄なる世界を望む者。だが、汝は醜悪なり――黒情の狂翼」
アルフレッドの背から禍々しい魔力が噴き出す。
それは二対の翼のようにも見えた。
赤黒い悍ましい翼を生やして、アルフレッドは狂気に堕ちる。
「全員殺してやるッ!」
叫ぶように声を上げ、アルフレッドは村の方に駆けていく。
それは、あまりに悍ましい気配。
まるで悪魔が地上に顕現したかのようだった。
そして、井戸から水をくみ上げるリスティを見つけた。
アルフレッドは気配も隠さずに正面から襲い掛かる。
「な、なに!? なんなの!?」
急に襲い掛かられ、リスティの理解は追いついていなかった。
アルフレッドは手に魔力を込めると彼女の胸を貫く。
「がぁ、あぁ……ぁ……」
痛みに悶える暇も無く、リスティはそのまま命を落とす。
流行り病と闘い続けた少女にしては、あまりにも呆気ない最後だった。
アルフレッドは命を奪うことで心が満たされるように感じた。
復讐の瞬間とは、これほどまでに甘美なものなのか。
今の自分には復讐を成し遂げるだけの力がある。
右手に刻まれた黒い鎖の魔紋。
湧き上がる強大な力にアルフレッドは歓喜していた。
リスティの帰りが遅いことを心配したクレアが井戸にやってきて、その惨状に愕然とする。
最愛の娘が無残な姿で転がっているのだ。
血に塗れて地に伏している彼女の上には、化け物のように変貌したアルフレッドがいた。
「なんてことを……」
その声を聞いて、アルフレッドはようやくクレアの存在に気付く。
リスティを殺めた感触に浸って気付いていなかった。
その瞳が大きく見開かれた。
得物を見つけたと言わんばかりの表情。
逃げようと背を向けたクレアに瞬時に追いつくと、その手足を切り落とす。
「嫌ぁあああああッ!」
痛みに悶えるも、逃げるための手足さえ残されていない。
アルフレッドは身動きさえ取れなくなったクレアを担ぎ上げると、そのまま井戸に投げ落とした。
彼女はこのまま溺れ死ぬことだろう。
そう考えると楽しく思えた。
狂気に身を堕とした彼にとって、いかにして復讐するかは重要な事だった。
そして、手当たり次第に周辺の家を破壊していく。
中で寝ているであろう病人たちを巻き添えに破壊して、その爽快感にアルフレッドは身悶えする。
「もっと早くこの力が手に入っていたらよかったのに」
そうしたら、もっと早く村の人々を殺すことが出来た。
エルティーナも静かに村で暮らすことが出来たことだろう。
それどころか、地竜の群れに殺された父だって助けられたかもしれない。
「でも、もう遅いんだ。全部、全部……全部ッ!」
全部失ってしまった。
今の彼に残されているのは自分自身だけ。
もはや、これ以上失うものなんてない。
騒ぎを聞きつけてノーザンがやってきた。
彼は村の惨状に愕然としていた。
アルフレッドは一番憎い相手を見つけて笑みを浮かべる。
どうやって殺してやろうか。
泣き叫ぶほど苦しませてやろうか。
そんなことを考えながらノーザンに歩み寄る。
「てめ、このクソガキがッ! なんてことしやがった!」
「お前も死ぬんだよ」
「ちぃッ!」
ノーザンは剣を持っていた。
勇敢にも、アルフレッドと戦うつもりなのだろう。
剣を正面に構え、じっとアルフレッドの動きを見ていた。
だが、そんなことをしてもどうしようもない。
黒鎖魔紋を持つ者に、常人が勝てるはずもないのだ。
アルフレッドは瞬時に間合いを詰めるとノーザンの手首を切り落とす。
「ぎゃぁあああああああッ! くそッ、くそがぁッ!」
手首ごと剣を失ってしまい、ノーザンはあまりの痛みに叫び声をあげる。
だが、アルフレッドは容赦しない。
ノーザンを地面に押し倒すと、背中から生えた四枚の翼で四肢を地に張り付けた。
「ひぃッ……」
もはや抵抗は無意味だ。
アルフレッドは拳に魔力を込めると、ノーザンの腹部に思い切り叩きつけた。
「がはッ!」
その反応が愉しくて、アルフレッドは夢中になって何度も拳を叩きつける。
その度にノーザンが泣き叫ぶが、それでも手を緩めるようなことはしなかった。
なぜならば、これはアルフレッドにとって最高に愉しいものだったからだ。
我慢する必要なんてないのだ。
今の彼を止められる者は、この場には存在しないのだから。
だが、徐々にノーザンの声も小さくなっていく。
それが気に入らなくて、アルフレッドは彼の腕と足を翼で何度も突き刺し始めた。
「ぐぁあッ! や、やめてくれぇ、がぁッ!」
「もっといい声上げてくれよ。僕はまだ満足してないぞ」
突き立てる。
突き立てる。
何度も突き立てる。
その度に心が満たされていく。
この状況を心の底から愉しんでいた。
そして、ノーザンは動かなくなった。
アルフレッドは立ち上がると、つまらなさそうにノーザンの死体を見下ろす。
こんなものかという失望が大きかった。
「もっと、もっと殺さないと足りない……」
次の獲物を探そうとした彼の前に、突然怪しげな黒装束の集団が現れる。
そして次の瞬間には、アルフレッドは意識を失ってしまった。




