5話 怪しげな神父
アインの意識が覚醒する。
日は既に沈みかけ、空は夕闇に染まっている。
鬱蒼と茂る木々が夕日を遮り、辺りは少しばかり暗かった。
体を起こしてみれば、食欲をそそるいい匂いが鼻腔をくすぐる。
匂いを辿って視線を向けてみると、焚火の上でスープが煮込まれていた。
「おや、起きたようですね」
その声の主は、先ほどアインを助けた怪しげな神父だった。
枢機卿アイゼルネ・ユングフラウを退けることが出来るほどの実力者。
そして、アインと同じく黒鎖魔紋を持つ男。
焚火に照らされた彼の表情は穏やかだったが、地に伸びた影はゆらゆらと怪しげに揺らめいている。
異様な気配。やはり、この男は人間ではない。
そんな考えがアインの頭に浮かぶが――。
「そんなに警戒しないでください。私は別に、貴女を取って食べようというのではありませんよ。ほら」
両手を広げて敵意がないことを主張する。
その姿を見て、アインは信じるべきだろうと思った。
彼の助けがなければ自分はあのまま処刑されていたのだから、警戒するのは失礼だろうと思った。
「えっと……助けてくれてありがとう、ございます」
「いえいえ、とんでもない! 私は私の成すべきことをしたまでです。それと私たちは対等な存在ですから、そう畏まる必要はありませんよ。感謝すべきは我らが主に、です」
そう言って、黒鎖魔紋を指し示す。
邪神の祝福。この世界において禁忌とされる力。
それがなぜ自分に与えられたのか、アインには理解できなかった。
「なんで私に、これが与えられたの?」
「それを説明するとなると長いですからねえ……。それより先に、まずは食事にしましょうか」
じっくりと煮込まれたスープを器に装うと、それをアインの方に差し出した。
野菜や肉がごろごろと贅沢に煮込まれたスープは、故郷の村でも食べたことがないくらいだった。
「そういえば、自己紹介がまだでしたねえ。私はヴァルター・アトラス。あなたと同じく、黒鎖魔紋を持つ者です」
「私はアイン。家名はないわ」
「アイン、ですか。いい名前ですねえ。ああそうだ、パンもありますよ」
ヴァルターからパンを受け取ると、アインはそれをスープに浸してから頬張った。
じゅわりと旨味がしみ込んだパンが、疲れ切ったアインの心を癒す。
「でも、なんで私を?」
「実のところ、偶然のようなものですよ。たまたま通りがかったら、教皇庁の馬車を見かけましてねえ。様子を窺ってみれば、貴女が捕らえられているのが見えたのです。主の巡り合わせに感謝しなければなりませんねえ」
首から下げた逆十字を握り、ヴァルターは祈るように目を瞑った。
黙ったまま祈りを捧げ続ける様子に、アインは気まずそうにスープを飲む。
少しして、はっと気づいたようにヴァルターが目を開いた。
「おっと、これは失礼。私はこういった性分なのでねえ。いやはや、どうにも周りが見えなくなってしまう。それで、なんでしたかな?」
「私が聞きたいのは、この黒鎖魔紋はどういうものか。それと、主っていうのは何者なのか」
アインの問いに、ヴァルターの表情が真剣なものになる。
「そうですねえ。主については、いずれ会えるとだけ言っておきましょう。黒鎖魔紋については……ああ、そうですねえ。まずは貴女がそれを得た時の状況と、今に至るまでを教えていただきましょうか」
「私がこの力を手に入れた時は……」
アインはヴァルターにこれまでに起きたことの全てを話す。
教会に入ると変な痛みを感じたこと。村がオークの群れに襲撃されて死にかけたこと。
その時、右手に黒鎖魔紋が浮かび上がったこと。
そして、自分が酷く残虐な人間に変わってオークを殺し尽くしたこと。
アインの話をすべて聞き終えると、ヴァルターは顎に手を当てて少し考えるそぶりを見せる。
「アイン。これはとても酷な話ですが、今から話すこと全てを受け入れなさい。そうでなければ、きっと貴女は生き延びられないでしょう」
ヴァルターの言葉に、アインは真剣な表情で頷く。
それを見て、ヴァルターは満足げに微笑んだ。
「それでは、まず黒鎖魔紋についてですねえ。これは邪神の祝福。邪神に見初められたものが得られる寵愛。死と同時に始まる悪夢」
「悪夢……?」
「ええ、悪夢です。我々は、幾度となく訪れる災禍の日に怯えながら生きる子羊。黒鎖魔紋を持つ者は、悪しき存在を呼び寄せるのです」
――悪しき存在を呼び寄せる。
その言葉にアインは反応してしまう。
やはり、村にオークの群れが襲来したのは自分のせいではないのか。
自分のせいで、大勢の人間が死んでしまったのではないか。
だが、アインのそんな様子に、ヴァルターは何故か腹を抱えて笑い出した。
まるでアインの悩みが些細なものであるかのように。
「いやはや、失礼。貴女がどうやら見当違いの悩みを抱いているようでしたので、ついつい」
「見当違いって、どういうことなの?」
「黒鎖魔紋は、オークなどというちっぽけな魔物は引き寄せません。もっと邪悪で、悍ましく、そして凶暴な魔物。月が昇ってから夜が明けるまで、無限に湧き続ける異形の怪物と殺し合うのです」
アインは自身のせいではなかったと知って安堵するが、同時に恐怖を抱く。
ヴァルターはオークよりもさらに凶悪な魔物が無限に湧き続けると言った。
そして、夜明けまで戦い続けなければならないと。
そんな恐ろしいものを背負って生きていかなければならないというのか。
アインは右手に刻まれた黒鎖魔紋を見つめる。
まさに悪夢だ。
「けれどまあ、貴女ならば大丈夫そうな気はしますがねえ。貴女の本質は、きっと私が見てきた中で最も凶暴だ」
「私が凶暴? そんな馬鹿な事が……」
「そんな馬鹿なことが、あるんですよ。命を奪って嗤うことが出来る、残虐な戦闘狂。それが貴女の本質ですよ、アイン?」
その言葉は二度目だった。
一つ目はアイゼルネに。二つ目はヴァルターに。
それを受け入れることは、アインには到底できなかった。
しかし、ヴァルターは首を振る。
「残念ながら、それが貴女という存在の本質。現に、貴女は黒鎖魔紋を発動した際、私でも驚くほどに凶暴でしたよ、ええ」
「それは……どういうこと?」
「黒鎖魔紋はですね、所有者の理性という枷を外すのですよ。本来あるべき、あるがままの、自由な姿を与えるのです」
それが、アインの本質。
命を奪って嗤うことが出来る酷く残虐な存在。
獰猛な獣のように、激情に身を任せて暴れ続ける戦闘狂。
それを認めろ、というのはヴァルターの言う通り酷な話だった。
アインは平凡な村娘だった。普通に生きて来ただけの少女が、自分は残虐な人間だと急に言われて受け入れられるわけもなかった。
「あれは……私じゃない。だって、あんな、酷いことをして喜ぶなんて……」
「受け入れなさい、と言ったはずです。でなければ、貴女は生き延びられない。黒鎖魔紋の力を引き出すには、自身の本質を理解する必要があるのですよ」
そして、力を引き出せなければ、黒鎖魔紋に引き寄せられた魔物に殺される。
ヴァルターはアインの顔を真剣に見つめる。
「すぐに受け入れることは難しいでしょう。しかし、貴女は戦いの中できっと気づくはずです。自分が何者で、どんな存在であるのかを」
アインは黙ったまま黒鎖魔紋を見つめる。
自分は本当に、そんな恐ろしい性格をしていたのか。
そんなことはあり得ない。アインはそう思いたかった。
しかし、アインは覚えている。
オークの肉を断つ快楽を。死屍累々の惨状の中で、最後に嗤うことの悦楽を。
それを全て否定することもまた、アインにはできなかった。
「アイン。最後に一つ、教えておくべきことがあります」
「教えておくべきこと?」
アインの問いに対して、ヴァルターはとても気分がよさそうにニタリと笑みを浮かべた。
それまでの彼とは一変して酷く興奮した様子で、荒い息を吐きながら言う。
「それは――災禍の日が、どれだけ恐ろしいものなのか」
空を見上げれば、月が煌々と輝いていた。