4話 襲来
馬車に揺られ、アインはただ無気力に座っていた。
目隠しが視界を奪い、手足も枷にかけられており逃げ出すこともできない。
このまま教皇庁に連行されて処刑されてしまうのだろう。
「……死にたくない」
何度目かになる、その言葉を呟いた。
たとえ自分が災いを引き寄せる存在だったとしても、死にたくないと思った。
もちろん、アインはそれがどれだけ我儘なことかも理解していた。
自分の近くにいるだけで人が危険に晒される。
言い換えれば、自分のせいで命が他者の命が奪われるのだ。
生半可な覚悟では、この運命を背負って生きていくことはできないだろう。
そして、その過酷な運命をアインに背負わせた存在。
右手の甲に刻まれた黒鎖魔紋は、なぜアインに与えられたのか。
理由はわからない。わからないが、今は生きる術を探すしかなかった。
しかし、今のアインにできることは馬車に揺られていることくらいしかなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
突然、地を裂くような轟音が辺りに響き、馬車が大きく揺れた。
視界を奪っていた目隠しが、誰かに引っ張られるように不自然な動きでずり落ちた。
そして、開けた視界では手足の枷がアインの目の前で勝手に外れていく。
「な、なにが起こってるの?」
アインの力を封じる枷が、独りでに外れていく様子は異様だった。
あれだけ力を込めても外すことのできなかった枷が、今はアインから外れて馬車の床に落ちているのだ。
だが、今はそれよりも気にすべきことがあった。
馬車の外から聞こえてくる無数の断末魔。
賊か何かの襲撃を受けているのだろうかと、アインは恐る恐る馬車の外に出る。
しかし、外の状況はアインの予想とは少しばかり違っていた。
「ああ、嘆かわしい。我らが主に祝福を受けた娘が、このような、汚らわしい者共の手に落ちるとは!」
教皇庁の兵に取り囲まれた一人の男。
どこか不気味な印象を受ける、青白い肌をした巨躯の神父。
黒い衣に身を包み、首元には逆十字が下げられている。
右手には赤黒い魔力光を放つ魔導書。
左手は教皇庁の兵たちに向けられていた。
大勢に取り囲まれているというのに怯む事無く、むしろ男の方が圧倒しているようにさえ見えた。
異様な雰囲気を感じる。そこに立っているのは人間ではないような感覚。
魔物の気配が混ざっているように思えた。
男はまるで劇でも演じてるかのような大げさな動作で、高らかに声を上げる。
「さあさあ! せっかくこれだけの人数がいるのです。その魂、余す事無く全て頂戴しましょう!」
ゾクリ、背筋が凍りつくような寒気がした。
そのさっきが自分に向けられているものではないことは理解しつつも、それでも逃げ出したくなってしまうようなおぞましい気配。
兵たちが動けずにいる中で、一人だけ前に歩み出る者がいた。
「ヴァルター・アトラス。自分から殺されに来るとは、随分と殊勝な心掛けだな?」
その姿を見るだけで恐怖が蘇ってしまう。
村の独房で刻み付けられた恐怖が、アインの体を震わせる。
「おやおやこれは、枢機卿殿。やはり貴女がいましたか」
「知っていて姿を現したのだろう? よほど死にたいらしいな」
枢機卿アイゼルネ・ユングフラウ。
教皇の勅命によって動く騎士であり、処刑官でもある。
そんな彼女だったが、それでも目の前の男を最大限の警戒をもって対峙していた。
二人には何らかの因縁があるのだろう。
お互いに武器を構え、一触即発の空気の中で睨み合いが続く。
しかし、怪しげな神父――ヴァルターは残念そうにため息を吐いて魔導書を懐にしまった。
「先ほどはああ言いましたが、残念ながら、今回は殺し合いに来たわけではないのです。ただ、その馬車に積んだ娘を諦めてくれさえすれば、この場は引いて差し上げましょう」
「邪教徒をみすみす手放せと? この私に、貴様が指図を出来ると思っているのか?」
「枢機卿殿。貴女とて、人目がある場で全力は出せますまい。それに私も、近頃これが疼くのでねえ」
そう言ってヴァルターが手袋を外す。
その右手の甲には、アインと同じ黒鎖魔紋が刻まれていた。
「災禍の日が近いのですよ。可能なら、不要な消耗は避けておきたいのです」
「お互い、今はやり合うべきではないと」
「そういうことです」
ニタリと口元を歪めるヴァルターだったが、次の瞬間にはその喉元に剣が突き付けられていた。
「この私を誰だと思っている? 邪教徒は決して許さず、この剣で死を齎す。我が名に誓い、貴様をこの場で殺してやろう」
「おお、それはそれは。いやはや、恐ろしいですねえ」
そんな状況に追い詰められてなお、ヴァルターは笑みを絶やさない。
むしろ、この窮地を楽しんでいるようにさえ見えた。
「――ですが、倒すべきは私一人とお思いですかな?」
その言葉と共に、馬車の方向から強烈な殺気が膨れ上がる。
振り返れば、すぐ近くまで肉薄したアインが槍を突き出そうとしていた。
「死ねえええええッ!」
両親を殺された少女の、強烈な憎悪を込めた一撃。
完全に不意を突いた一撃を、アイゼルネは超人的な反応速度で躱し、槍を突き出した無防備なアインの腹を蹴り上げる。
しかし――。
「――ほう?」
常人ならばそれだけで動けなくなるはずだったが、アインは痛みをものともせず槍を引き戻し、再びアイゼルネに襲い掛かる。
どれだけ傷を負おうと、怯む事無くひたすらに槍を振り回し続けていた。
「なんて素晴らしい! 暴力を体現したかのような獰猛な槍捌き。苦痛をものともせず戦い続ける精神。ああ、彼女は獣だ!」
ヴァルターの歓喜の声が響く。
アインは血餓の狂槍を手に、アイゼルネを殺そうと暴れ続けていた。
時折襲い掛かってくる教皇庁の兵たちも薙ぎ倒して、仇を一心不乱に狙い続けていた。
しかし、その槍はアイゼルネに届かない。
「力を得ただけの村娘風情が、私を煩わせるな」
剣を一閃。それだけで、アインの体は木の葉のように容易く吹き飛ばされた。
体の至る所から流血しており、もはや戦闘を継続できる状態ではない。
だというのに、アインの殺気は増すばかりだった。
そして、もう一人。
殺気を膨れ上がらせる者がいた。
「そろそろ終いにしましょうか。いくら枢機卿殿であろうと、黒鎖魔紋を持つ者二人を同時に相手取ることは厳しいと思いますよ? ええ、とても厳しいでしょうねえ」
ヴァルターの言葉に、アイゼルネは苛立たしげに眉を顰める。
周囲の兵たちではアインを止めることさえできない。
そうなれば、実質一人で黒鎖魔紋を持つ二人を相手にしなければならないのだ。
アイゼルネは心底不快そうに息を吐き出すと、剣を鞘に収めた。
「……仕方ない。今回は退いてやろう」
「助かります」
終始笑みを浮かべ続けていたヴァルターだったが、そこに少しばかり安堵の色を見せる。
彼自身も、アイゼルネとこの場で戦うことを避けたいようだった。
アイゼルネは荒い息を吐きながら槍を構えるアインを一瞥して、視線を外した。
「総員、戦闘終了だ。教皇庁に報告に向かう」
アイゼルネが兵を引き連れて去っていく。
アインはその背を追いかけて殺してやりたいと思ったが、消耗しきった体は限界に来ていた。
「少し休みなさい。起きたらこれの事について、色々と教えて差し上げましょう」
黒鎖魔紋を指し示し、ヴァルターは優しそうに囁いた。
その言葉を聞き終えると、アインは意識を手放した。