38話 狡猾な毒牙(3)
虚空から現れた漆黒の槍。
それは、アインが先ほどまで振るっていた魔槍『狼角』とは似て非なる物。
深い森の奥底で見る夕闇のような不安。
血溜まりの中で死を待つような恐怖。
あるいは、奈落から見上げた小さな空のような絶望。
黒鎖魔紋の第二段階――創造。
それは、邪神の加護によって生み出された神器。
とても昏い、闇で象られた一本の槍。
血餓の狂槍を手に、アインの狂気が目を覚ました。
「なンなんだ、それは……」
ペドロは知らなかった。
黒鎖魔紋の力は三段階まであることに。
彼が使えるのは、第一段階までだけだった。
彼の本能が叫んでいた。
あれは絶対に戦ってはならない相手なのだと。
惨めに泣き叫んででも許しを請うべき相手なのだと。
しかし、彼にも意地があった。
常に死と隣り合わせの過酷な人生。
幾度となく訪れた死の危機を、ペドロは打ち破って来たのだ。
それに、ペドロの発動した黒刃影は既に詠唱を終えている。
アインがどれだけの力を持っていたとしても躱しきれない。
そう考えていた。
これだけの大魔法を躱すことは不可能。
だが、飛来する無数の黒刃を前にしても、アインは悠然と槍を構えるのみだった。
「奥義――紅牙」
それは、ウィルハルトとの手合わせの際に放った一撃と同じ技。
異なるのは、手に持つ槍が血餓の狂槍であり、さらに黒鎖魔紋の力も全力で開放していること。
純粋に威力のみを求めた一振りによって、飛来する黒刃を打ち払う。
一つだけアインの頬を掠めるが、それだけだった。
ペドロの全力をもってしても、今のアインには通用しない。
アインは頬を伝う血を右手で拭うと、再び槍を構える。
先ほどまでの戦闘は戦士としての好奇心。
今から始まるのは、一方的な制裁だ。
ペドロは如何にしてこの場から逃げ出すかだけを考えていた。
どれだけ足掻いても覆しようのない、絶望的な差があった。
このまま戦ったところで万に一つも勝ち目はない。
だが、アインはそれを許すほど優しい人間ではない。
瞬時に間合いを詰めると、アインはペドロの腹部を思いっきり蹴り上げる。
「がはッ!」
肺の中の空気を強引に押し出され、ペドロは悶絶する。
だが、休む間もなくアインはペドロの右脚を槍で貫く。
苦痛に悶える暇も与えない。
息を吐く暇さえない。
容赦なく続く攻撃に、ペドロは成す術が無かった。
「まだ、足りない」
これだけでは、シュミットの街で失われた命とは釣り合わない。
もっと苦しめなければ、死んだ人たちが浮かばれない。
なにより、自分が物足りない。
アインは一度攻撃の手を止める。
情けなく蹲るだけのペドロを嬲っても意味がないのだ。
もっと恐怖を与えて、もっと苦しめて、もっと絶望させなければならない。
ふと、アインは思いついたように血餓の狂槍を翳し上げる。
先ほどペドロが使っていた大魔法のように、自分も黒鎖魔紋の力を使って何かできるのではないだろうか。
丁度良い相手が目の前にいるのだから、試さない手はなかった。
自然と、その方法は理解できた。
あるいは、知っていたのかもしれない。
魂の奥底に刻み付けられた何かが、アインに黒鎖魔紋を使いこなすための知識を与える。
「――降り注げ、怒りの雨よ」
先ほどまで明るかった空が、暗闇に閉ざされていた。
否、途方もない数の漆黒の槍が、空を覆い尽くしていたのだ。
これは制裁だ。
シュミットの街に生きていた、全ての魂の憎悪の念だ。
その穂先は全て、ペドロ一人に向けられている。
ペドロは息を呑む。
アインの発動した魔法の規模も尋常ではないが、それだけではない。
なぜだか理解できなかったが、彼は今、己が殺めてきた人々の怨嗟を幻視していた。
「その命が果てるまで、楽しませて?」
アインが言い放つと、漆黒の槍が降り注ぎ始めた。
どう考えても躱しきることは不可能。
どこまで耐えることが出来るのかを、アインは楽しんでいるのだ。
「チィッ!」
ペドロは逃走する機会を窺うが、アインに一切の隙は無い。
今の彼に出来るのは次々と降り注ぐ槍を躱し続けるだけ。
いずれ体力が尽きて餌食になることは分かっていても、それでも躱し続けることしかできないのだ。
運が良いと言うべきか、あるいは悪いと言うべきか。
ペドロは並外れた身体能力を持っていたせいで、すぐに死ぬことが出来なかった。
この絶望的な状況を、長く味わうことになってしまった。
先ほどアインに右脚を貫かれてしまったせいで、体を動かすだけでも激痛が走っていた。
出血も酷く、このままでは失血死してしまうことだろう。
それ以前に降り注ぐ槍の雨を躱しきることは不可能なのだが。
そして、終わりは訪れる。
ほんの一瞬、ペドロが出血する足を庇おうとした時――彼の右腕が地面に縫い付けられた。
次は左腕、次は右脚、次は左脚。
四肢を地に縫い付けられてしまい、身動きが取れなくなってしまう。
アインはそれを見て、つまらなさそうにため息を吐いた。
「その程度?」
苛立った声で尋ねる。
この程度の男が、シュミットの街を廃墟に変えてしまったのだ。
黒鎖魔紋の力を使って、己の利益のために無辜の民を犠牲にしたのだ。
身動きの取れないペドロにとって、それは絶望でしかなかった。
やれるところまで足掻いた。
しかし、これ以上は抵抗することさえ出来ない。
アインはペドロのもとに歩み寄ると、槍を突き立てる。
何度も何度も、あえて急所を外して突き立てる。
その度に、ペドロの絶叫が辺りに響き渡った。
「ゆ、ゆるして……ゆるしてくれ……」
必死の懇願に対する返答は、否である。
アインは無言で槍を突き立て続けていく。
許しを請う声は徐々に小さくなっていき、やがて潰えた。
アインは荒く息を吐き出すと、少し離れた場所に腰掛けた。
周囲を見回せば、自分が築き上げた惨状が広がっている。
シュミットの街のことを考えれば、復讐にしては不足しているくらいだった。
しかし、盗賊を全員殺してしまったのだから、これ以上出来ることはないだろう。
少し不満そうに、アインは右手に皮手袋を付けた。
これからどうするか。
アインは考える。
少なくとも、シュミットの街に戻ることは出来ないだろう。
甘さを捨てるには、やはり一人で旅をするべきだ。
考えを纏めてその場を離れようとした時――右手に酷い痛みを感じた。
黒鎖魔紋が疼いている。
まだ余裕はあるようだったが、数日以内に災禍の日が訪れるように思えた。
どこか、人気のない場所を探す必要がある。
災禍の日を控えているというのに、アインの表情は嬉々としていた。
ペドロも技量という面では満足のできる相手だったが、全力を出すには物足りない相手だった。
災禍の日は、自分の本性を受け止めてくれる。
存分に力を振るうことが出来るのだ。
今度はヴァルターもいないため、一人で災禍の日を迎えることになる。
ペドロとの戦いで黒鎖魔紋の力を消耗していたが、それでも不安はなかった。
過酷な運命であろうと生き抜いて見せるのだ。
アインはそう心に決めて、歩き始めた。




