35話 切り捨てる
夜明けと共に、魔物の軍勢は消え去った。
あれだけの数がいたというのに、魔物の死体は一つとして残っていない。
全てが虚空に溶けて消え去ったのだ。
朝を迎えることがこれほど喜ばしい事があっただろうか。
マシブは眩しそうに太陽を拝んでいた。
シュミットの街はただの廃墟になってしまった。
あれだけ賑わっていた通りも、噴水の美しい中央広場も見る影もない。
辺り一面が、死体の散乱する地獄絵図となっていた。
この惨状では、この街はもう終わりだろう。
これだけ多くの命が、たった一晩にして失われてしまったのだ。
場合によっては悪霊の巣窟と化してしまうかもしれない。
このままでは失われた者たちの怨嗟が形を成し、この地を迷宮化させてしまうだろう。
せめて安らかに眠れるようにと、マシブは後で死者の弔いをしようと考えていた。
「ったく、酷い悪夢だったぜ」
「本当に夢なら、どれだけ良かったことか」
ゾフィーが大きくため息を吐く。
魔力も僅かに回復して、歩ける程度にはなっていた。
だが、とても戦えるような状態ではないため、まだ警戒は怠らない。
「これが黒鎖魔紋の引き寄せる災い……。なんで、こんな酷いことが出来るんだろうね」
「さあな。悪人の考えなんざ、俺には分からねえし分かりたくもねえ」
盗賊の頭領は、何が目的でシュミットの街に災いを引き寄せたのか。
二人には想像もつかなかった。
少しして、アインがラドニスを連れて二人のもとにやってきた。
「ラドニス、無事だったか」
「ああ、どうにか。アイン君がいなければ、今頃は辺りの骸と共に寝ていたかもしれないがね」
ラドニスは苦笑しつつ、周囲を見回す。
これだけ多くの命が失われることなど、歴史を振り返ってもそうないだろう。
まして、これは戦争でも何でもない。
魔物によって命が奪われたのだ。
厳密にはそれを引き起こした人物がいるのだが、いずれにせよ異常な事態であることには間違いなかった。
「しかし、それにしても酷いものだ。百年前にあった大災厄を思い出す」
「大災厄ってなんだ?」
「魔物が活発化する周期の中で、特に異常なものだ。これほど悍ましい魔物ではなかったにせよ、あの時も世界各地で幾つもの街や村が失われた」
ラドニスは廃墟と化したシュミットの街を眺める。
彼の記憶の中には、同じような光景が幾つも残っていた。
「魔物が活発化するといっても、気候や地脈のような環境的要因の影響ではないのだよ。獣の繁殖期とは違う。恐らくもっと高次元からの干渉か、あるいは……」
ラドニスが深い思考に入り込もうとしている時、アインは逸早く気配を察知する。
おそらくは盗賊の頭領だろう。
これまで気配を消して身を潜めていたが、災禍の日が終わったためか移動を開始したようだった。
歩き出そうとするアインだったが、右手をゾフィーに掴まれて引き留められた。
ゾフィーも微かに気配を感じ取っていたようだった。
「アイン、ダメだって! せっかく助かったんだから、わざわざ死にに行くことなんてないって!」
「死にに行くんじゃない。私は、殺しに行く」
溢れ出す殺気にゾフィーは気圧されるが、それでも首を振って反対する。
「あたしも奴とは戦ったけど、あれは化け物だよ。黒鎖魔紋の力は、あたしたちにはどうしようも……」
アインがおもむろに手袋を外すと、ゾフィーは固まってしまう。
その右手に刻まれているのは黒鎖魔紋だ。
実物を見たばかりなのだから、見まがうはずもない。
「……こういうことだから。ごめんね」
アインは三人に背を向ける。
やはり、黒鎖魔紋を持つ者は誰かと一緒にいることなど不可能なのかもしれない。
存分に力を振るいたい時、仲間がいるとかえって足手まといになってしまう。
「おいアイン! そのまま、どこかに行っちまうなんてないよな!?」
マシブが声を上げる。
彼の言う通りだった。
アインは盗賊の頭領を殺した後、どこかに去ろうと考えていた。
自分には黒鎖魔紋がある。
三人は災禍の日を乗り越えられたが、それは運が良かっただけに過ぎない。
マシブもそれが分かっているからこそ、無理強いは出来なかった。
黒鎖魔紋を持っている。
たったそれだけのことで、世界から拒絶されるのだ。
だが、それでもアインを心配していた。
「アイン。俺は、お前が黒鎖魔紋を持っているって……本当は知ってたんだ」
アインが体調を崩していた時に、マシブは見てしまった。
右手に黒鎖魔紋が刻まれていることを知ってしまったのだ。
しかし、彼はアインのことを教皇庁に報告しなかった。
マシブはアインの様々な面を見てきた。
だからこそ、黒鎖魔紋を持っているというだけで、アインのことを悪人だとは思えなかった。
「けどよ、お前が悪人だなんて思えねえ。世間だと邪教徒だのなんだのって言われるかもしれねえけど、俺は気にしねえ。だから……頼む。必ず戻って来てくれ」
「……ありがとう。でも、ごめん」
盗賊の頭領を殺した後に戻って来てしまったならば、自分はきっと優しさに甘えてしまう。
シュミットの街を失ったことで、改めて黒鎖魔紋の危険さを思い知らされたのだ。
こんな危険なものを抱えた状態で、甘い考えを持っているわけにはいかない。
だからこそ、あらゆるものを切り捨てるのだ。
誰かに頼ろうとしたり、縋ったり。
そんなことを覚えてしまったならば、いずれ必ず後悔する時が来る。
不要なものは全て切り捨てなければならない。
感情を押し殺して、一人で生きていく。
それが、アインの選んだ道だった。
マシブの必死の叫びが聞こえて来ても、アインは振り返ることをしなかった。
決めたからには、徹底しなければならない。
盗賊の頭領がどこへ向かったかは分かっていた。
彼にも自分と同じ黒鎖魔紋の力が流れている。
同質の魔力を辿っていけば見つけることが出来るだろう。
アインは激情を滾らせ、盗賊の頭領の後を追う。




