30話 持たざる者(1)
駆け出すと同時に、街の中央にある時計台から鐘の音が鳴り響いた。
それは、魔物の襲撃を知らせる鐘。
彼の感じ取った気配が間違いでなかったことの証明だった。
マシブは焦燥に駆られていた。
シュミットの街は、周囲を頑丈な石造りの外壁で囲ってある。
周囲に魔物の住処となる場所が多いため、それを警戒するために造られたのだ。
下手な砦よりもずっと頑丈な造りだ。
冒険者の力を頼らずとも、シュミットの衛兵は練度が高い。
そのため、半端な魔物が攻めてきた程度ならば、鐘を鳴らすまでもなく見張りの兵が片付けるはずだった。
鐘の音が聞こえてくるのは、それだけ危険な魔物が現れたということだ。
そして、マシブはこれほどまでに悍ましい気配を感じたことがない。
ブレイドヴァイパーを狩るときでさえ、ここまでの恐怖は抱かなかった。
そう、恐怖である。
マシブは今、恐怖を感じていた。
己の力量では通用しないほどの魔物が攻めてきたのだ。
怯えるなという方が無理があるだろう。
シュミットの街には冒険者が多い。
だが、周辺に出現する魔物は低級から中級が多いため、冒険者も中堅までしかいない。
戦力をかき集めたとして、シルバーの冒険者は二桁に届くかどうか。
たったそれだけで、今押し寄せてきている魔物を相手にできるとは思えなかった。
ふと、違和感を感じて時計台を見る。
その屋根の上に佇む一人の男。
浅黒い肌と人相の悪さ。そして、手元で妖しく光を放っている魔紋を見れば、正体は明らかだった。
「くそ、あいつが頭かッ!」
盗賊の頭領が、シュミットの街に侵入していた。
あくどい笑みを浮かべている彼が、この事態を引き起こしたのだ。
絶対に許せない。
そう思って時計台に向かおうとした時――外壁が、轟音と共に崩落した。
シュミットの石壁が破壊されるほどの魔物。
それも、数えきれないほどの数だ。
街に滞在している冒険者をかき集めたとして、どこまで持つか分からない。
黒鎖魔紋の呼び寄せる災厄。
マシブも知識としては理解していた。
異形の怪物が、夜明けまで押し寄せ続けるのだ。
しかし――。
「ここまでなんて、聞いてねえ……」
抗うことさえ馬鹿らしくなってくるようだった。
高々と街を囲っていた石壁が、今ではその面影さえ見ることはできない。
わずかに残っている残骸だけが石壁があったことを物語っている。
幸い、魔物はまだシュミットの端にしか侵入してきていない。
頭領を狙えば、まだ間に合うかもしれない。
しかし、彼には守るべき家族がいた。
マシブが悩んでいると、そこに見知った顔が通りがかる。
「なにこんなところで突っ立ってんのさ!」
現れたのは、ゴールドの冒険者。
この街において、唯一対抗できるだけの力を持っているであろう少女。
暴風のゾフィー・クロッセリアがいた。
マシブは時計台の方を指さす。
ゾフィーは視線をそちらに向けると、驚いたように目を見開いた。
「多分だが、あいつが元凶だ」
「盗賊の頭領だね。確かに、黒鎖魔紋も持ってるみたい」
時計台の上で堂々と惨劇を眺めていた。
頭領を仕留めさえすれば、魔物たちもどうにかなるかもしれない。
そんな期待があったが、ゾフィーは躊躇していた。
「……正直、あれはヤバいよ。あたしがどうにかできるような相手じゃない。それこそ、ミスリルの冒険者でも用意しないと勝てないかも」
「マジかよ」
ゾフィーならばあるいは、と思っていたマシブにとって残念な知らせだった。
かといって、押し寄せる魔物を相手にできるはずもない。
どうすればいいのか、マシブは葛藤する。
だが、ゾフィーは首を振る。
「一応、やれるだけやってみる。けど、駄目そうならさっさと逃げさせてもらうよ」
「ああ、すまねえ」
マシブは自分の力不足を嘆く。
もし自分がゴールドか、あるいはミスリルの冒険者であったならば。
押し寄せる魔物も、盗賊の頭領さえも、倒すことが出来たかもしれない。
今の彼にとって、出来ることは一つだけだった。
「マシブ。そっちはどうするの?」
「頭領を任せておいてあれなんだが……すまねえ。俺は、母ちゃんのところに行くぜ」
女手一つで自分をここまで育ててくれたのだ。
ここで恩を返さなければ、一生その機会は訪れないかもしれない。
他の誰が死んだとしても母親だけは助けなければ。
マシブの覚悟に、ゾフィーも頷く。
「たぶん、シュミットはもうだめだと思う。隙を見て、街の外に避難して」
「街の外ったって、どうやって」
「街にいる冒険者が力を合わせれば、一か所くらい穴を開けられるでしょ。どれだけ逃がせるかは分からないけどね」
そう言って、ゾフィーは魔力を練り始める。
狙うのは盗賊の頭領。
生半可な魔法では通用しないだろう。
「ここはあたしに任せて、はやく親孝行してきなよ!」
「ああ、すまねえ!」
マシブは家の方に駆けていく。
宿屋は街の中心部に近いため、まだ魔物は来ていないはずだ。
可能な限り準備を整えて魔物と戦えるようにしなければ。
宿屋に駆け込むと、おろおろと慌てふためくエレノラの姿があった。
「母ちゃん、逃げるぞ!」
「マシブ!? でも、どこに逃げれば……」
「知り合いの家に行くんだ。そこなら、武器も十分にそろってるはずだぜ」
背負った斧だけでは、どこまで戦えるか分からない。
自分一人だけでも生き残れるか危ういのだ。
母親を連れた状態ならばなおさらだった。
故に、人手が必要だ。
魔物に対抗できるだけの武器も必要だ。
急がなければ、その準備さえ間に合わなくなってしまう。
マシブはエレノラを連れて家の外に出る。
そして、愕然とする。
「おいおい、嘘だろ……」
魔物の侵攻は、既に近くまで来ていた。
追い詰められた人々が中央の広場に向かって逃げていくのが見える。
だが、そこに向かったとして魔物の餌食になるのは時間の問題だった。
そして、マシブは気づく。
彼の向かおうとしていた場所はラドニスの所だった。
ラドニスの店は、街の中心部から大分離れている。
「くそッ!」
ラドニスが生き延びていたとしても、彼の店にあった魔道具は取りに行けないだろう。
押し寄せる魔物を相手にできるだけの武器がない。
対抗できるだけの人数もいない。
ただ、逃げ惑うことしかできないのだ。
中央の広場に逃げていくものの中には、見知った冒険者の顔もちらほらとあった。
アイアンやブロンズの冒険者がいたところで全く意味をなさない。
それを理解しているからこそ、彼らは逃げることを選んだのだ。
情けない。
マシブはそう思った。
冒険者として、なにか出来ることはあるはずだろうに。
彼ら彼女らは自分が助かることを選んだのだ。
しかし、同時に仕方がないとも思った。
出来ることがないのだ。
逃げ遅れた市民に手を貸す余裕さえない。
どこかに身を潜めて祈ることしか、今の彼らにはできないのだ。
そしてそれは、マシブも例外ではなかった。
「母ちゃん、行くぞ!」
しっかりとその手を取って、中央の広場まで駆け出す。
逃げ惑うことさえ出来ないのだ。
どこか、安全な場所を見つけて隠れなければ。
だが、悲劇は唐突に訪れる。
ぐちゃりと、嫌な音がすぐ近くから聞こえた。
まるで誰かが叩き潰されたかのような音。
死んだ者は、声を上げる暇さえなかったことだろう。
エレノラを引いていた手が、急に軽くなっていた。
振り返ってはならない。振り返りたくない。
焦点の定まらない瞳で、マシブは恐る恐る背後を確認する。
先ほどまでいたはずのエレノラがいない。
代わりに、柱のように巨大な腕がそこにあった。
赤黒く脈動する、悍ましい腕。
その下には潰れた肉塊があった。
マシブは視線を自分の手に向ける。
そこには、最愛の母親の手だけが残されていた。
「――がぁああああああああッ!」
怒りに身を任せ、背負った斧を振り抜く。
渾身の一撃は、魔物の腕に浅く傷をつけただけだった。
マシブは思わず斧から手を放してしまう。
見上げるほどに大きな魔物が、マシブをじっと見つめていたからだ。
腕を斧で斬り付けられたというのに、全く動じていなかった。
「な、なんだってんだよ……」
恐怖から、マシブは逃げ出す。
視界が涙で滲んでいた。
死ぬことが恐ろしかった。
自分の命が惜しいと思ってしまったのだ。
母親の仇さえ取れない無力な自分が、無性に腹立たしかった。
「なんだってんだよ、くそがあああああああッ!」
彼は持たざる者。
災禍の日に抗う力は無かった。




