162話 生き残り
世界が闇に覆われたあの日、アインは六転翼『第一翼』オルティアナによって救い出された。
気付けば異形の怪物が殺戮の限りを開始して、抗う力を持たない人間たちはその数を減らしていった。
初めは目的も無く、ただ荒廃した世界を彷徨っていた。
ヴァルターとの実力差は途方もない。
それを埋めるには幾千幾万もの魂を喰らう必要があるだろう。
だが、それを成すには壁が存在していた。
アインは未だ理性を捨てきれていない。
黒鎖魔紋の力を十全に行使するには、血肉に飢えた獣のように戦いを求めなければならないのだ。
槍を片手に闇の中を進み続けた。
視界に映るもの全てを喰らい、情け容赦なく多くの命を奪った。
死に行く者から"悪魔"と罵倒されようと、アインは決して慈悲を与えずに戦ってきた。
気付けばその体は邪悪な力に蝕まれ、胸元の黒鎖魔紋は四肢へと伸びていた。
戦いに快楽を見出す獣の姿のみが残されていた。
彷徨い続けた獣は、いつしか蓄積した傷に耐えられずに戦場で意識を失ってしまった。
暗闇の中に明かりが揺らめく。
それは心地良くて、微睡みを手放すには名残惜しく感じた。
体には毛布とも呼び難い布切れが被せてあった。
アインは眠い目を擦って体を起こす。
そして、周囲を見て疑問を抱く。
――人がいる。
二十人にも満たないだろう老若男女が、身を寄せ合って寒さを耐え凌いでいる。
或いは、常闇の恐怖を忘れようとしているのだろうか。
焚火を挟んだ対面には、渇いた音を鳴らす弦楽器を老人が弾いていた。
「目が覚めたみたいだな」
その声の主に視線を向ける。
見覚えのある人物だった。
以前、ヘスリッヒ村で共に戦った狩人――ベルンハルトがそこにいた。
「どうして……」
「化け物と戦っているところを偶然見つけたから救出させて貰った。余計なお世話かもしれないがな」
ベルンハルトは苦笑する。
もし助けが来なかったとしても、アインであれば戦い抜けたかもしれない。
だが、限界をとうに超えた状態で槍を振るい続ける姿は痛々しく、放っておくことは躊躇われた。
「こんな世界だ。戦力は多いに越したことは無いだろう?」
ベルンハルトは随分と疲れた様子だった。
周囲を見回してみて改めて気付く。
この一団には彼以外に戦える者が誰一人としていない。
そんな状況で、ベルンハルトはこの過酷な世界を生き抜いてきたのだ。
以前と比べて白髪が目立っているのも仕方のないことかもしれない。
「まだ体は休まってないだろう。俺は周囲の様子を探ってくる」
そう言ってベルンハルトは立ち上がる。
彼は戦士ではなく、獣を狩ることを生業とする狩人だ。
そんな彼でさえ戦わなければならないほど、この世界は困窮している。
その背を見送ると、アインは焚火を囲む者たちに視線を向ける。
皆は自然体を装いつつも、アインのことを少し警戒しているようだった。
無駄なことを、とアインは呆れる。
彼らが束になったところで脅威にはなり得ない。
その気になれば、この場を血だまりにすることなど容易いだろう。
しかし、この一団を率いているのはベルンハルトだ。
以前共闘したせいか、殺意を抱くことが出来ずにいた。
「あの、これ……」
思索に耽っていると、目の前に少女が怯えた様子で佇んでいた。
パンを差し出す手は酷く震えている。
そんなに殺気立っているだろうかと首を傾げつつ、アインは手を伸ばす。
「……ありがとう」
アインはパンを受け取ると、思い切り齧り付く。
久々に食べ物らしい食べ物にありついた。
荒野を彷徨っていた時は、こうして食事をすることさえ忘れていたような気がする。
パンは酷く乾いていた。
喉の渇きが気になって、アインは革袋を取り出す。
すると、その場にいた皆の視線がアインに集まる。
彼らは水の入った革袋をじっと見つめていた。
よほど水が不足しているのだろう。
目を見開いて革袋を見つめる姿は獣と変わらない。
過酷な世界は、常人さえも狂気に染め上げてしまうのだろうか。
視線を上げれば、目の前に佇む少女も革袋をじっと見つめていた。
まだ幼いというのに言葉に出さずにいるのは立派と考えるべきだろうか。
アインは蓋を開け、革袋の水を少しだけ口に含み、呑み込んだ。
「……あとは好きにすればいい。ほら」
そう言って、革袋を少女に差し出す。
少女は目を輝かせて受け取ると、はっと我に返って周囲を見回す。
そして一口だけ飲むと、革袋を横にいた男性に手渡した。
男性は一口だけ飲むと、隣にいる老婆に手渡す。
老婆は一口だけ飲むと、隣にいる女性に手渡す。
一周してアインのもとに返ってくる頃には、既に水は空になっていた。
アインは先ほどの考えを改める。
彼ら彼女らは、ギリギリのところで理性を保っているのだ。
だからこそ、こうして生き延びているのだろう。
世界が闇に覆われてから、アインはこういった集団に何度か出くわしたことがあった。
その全てが醜く争う集団で、そういった者たちは容赦無く殺してきた。
では、今回はどうすればいいのだろうか。
僅かな水を分け合うことが出来るほどに理性を残している彼らは、殺すべき相手なのだろうか。
それに対して、自分は随分と酷い人間になってしまった。
目に付く全てを殺し尽くし、自らの糧としてきた。
死にかけていたところを助けられたのでなければ、きっと彼らも餌食となっていただろう。
しばらくして、ベルンハルトが戻ってくる。
「一先ず、この近辺は安全みたいだ。もうしばらく体を休めていくとしよう」
その言葉を聞いて、皆が安堵したように息を吐いた。
世界に安息の地は無い。
僅かでも体を休められるのはありがたかった。
「あんたも構わないよな?」
ベルンハルトが問う。
その言葉の意味は、一緒に休んでいけるかというだけではない。
少しの間、共に行動出来ないかという意味も孕んでいた。
アインは少し考え、頷く。
酷く消耗した状態では十全に力を行使できない。
しばらく休むくらいは構わないだろう。




