160話 万象弄ぶ傲慢なる者
夜明けと共に異形の怪物は忽然と消え去る。
先ほどまでの苛烈な戦いが、何も無かったかのように。
体には傷が多かったが、しかし生き延びた。
アインは大きく息を吐きだすと、その場に座り込む。
――やはり、堪らなく愉しい。
殺戮の味は、肉を喰らうよりも満足感を得られる。
心地良い酩酊感と共に槍を振るうことの愉しさ。
それは、どうしようもないほどに心地良く、そして昂るのだ。
槍を地面に突き立て、体を支えながら立ち上がる。
ラクィア神殿での傷さえ癒えてはいないが、それでも立ち止まるわけにはいかない。
立ち止まってしまえば、マシブの死を思い出してしまうからだ。
地図を確認しようとした時、アインの視界に嫌な光景が映る。
遥か遠く、地平線の先では暗雲が立ち昇っていた。
不運なことに、その暗雲はアインの行く先に広がっていた。
その規模は近付くにつれて大きくなっていき、そして遂には空全体を覆いつくすようになってしまう。
そこで漸く気付いた。
これはただの雲ではない。
雄大な大空を黒く染め上げる"闇"だ。
世界を覆い尽くさんと、闇が広がっていく。
その光景は何よりも絶望的で、何よりも悍ましい恐怖を感じさせる。
アインは直感的に理解した。
この先にある、地図に示された場所。
そこに存在するのは『教団』の本拠地であると。
何故、ヴァルターがそれを知っていたのかは分からない。
彼のことだから、自分には想像の付かないような手段で明かしたのだろう。
そんなことを考えつつ、気を引き締めてその地に向かうと――。
「――ッ!」
思わず息を呑んだ。
眼前に広がる、気圧されてしまうほどの光景に。
そこには邪教徒が左右に列を成して、まるでアインの到着を歓迎するかのように道を作っていた。
まるで、自分がこの地を訪れることを"予め知っていたかのように"準備していたのだ。
邪教徒たちの表情は仮面に隠れて窺えない。
しかし、それでも伝わってくるほどに彼ら彼女らは歓喜していた。
今日という日が訪れたことに感謝をしていた。
アインは恐怖という感情をあまり抱かないが、今回ばかりは背筋が凍えるような恐怖を感じた。
この道の先には、教団の祖であるバロン・クライが待ち受けているのだろう。
――バロン・クライ。
世界各地の魔物の活性化を引き起こした諸悪の根源であり、そして世界の破滅を目論む邪悪な存在。
彼の行動によってアインの住む村は凶暴化したオークの群れに蹂躙された。
ヘスリッヒ村は魔物に喰らわれて衰弱した。
勇敢な冒険者ハインリヒは家族を失った。
最古の竜ドラグ・ベルディヌは理性を失った。
エルフ族の里は若き長ミレシアを奪われた。
メルディアの地は亡者の徘徊する呪われた地となった。
アインの見てきた悲惨な結末は、全て彼が関わっている。
バロン・クライが存在しなければ、きっとアインは普通の村娘として暮らせていたはずだ。
だが、それは過ぎたこと。
今のアインにとって重要なことはただ一つ。
彼の命を刈り取ることのみだ。
そうして道を歩き終えると、巨大な祭壇に辿り着く。
悪魔のような悍ましい装飾を施された祭壇。
そこには、調律者とミレシアが使われていた。
それだけではない。
祭壇を背に、アインを迎えるように両手を広げる人物。
その姿に戦慄く。
「ヴァルター……ッ」
その名を口にする。
そこに待ち構えていたのは、黒き逆十字の神父ヴァルター・アトラス。
アインの命の恩人であるはずの彼が、何故だかそこに佇んでいるのだ。
「貴女が来るのをお待ちしていました――アイン」
その表情は普段の穏やかな彼そのものだ。
だというのに、何故だろう。
ゾッとするほどに激しい恐怖に駆り立てられてしまう。
「長きに渡る準備の末……漸く、この儀式を完成させることが出来たのです。せっかくですから、同胞である貴女にも見せたいと、そう考えたのですよ」
本来であれば敵となるはずのアインを、ヴァルターはわざわざ儀式に招き入れたのだ。
既に儀式自体は進行し始めているようだったが、それを止める術は無い。
「どうして――」
なぜ、アイゼルネに殺されかけていた自分を助けたのか。
気まぐれと返されてしまえばそれまでだが、ヴァルターが安易な発想で行動をするような人間には見えない。
何かしらの意図を持って行動しているはずだ。
であれば、今こうしてアインが呼び出されたことにも何か意味があるのかもしれない。
そう考えるが、何も出来ることは浮かばなかった。
しかし唯一、出来ることがある。
「バロン・クライ――私はあなたを殺すッ」
槍を手に構え、地を蹴って瞬時に肉迫する。
ヴァルターは楽しそうにそれを見下ろしていた。
「――紅閃」
突き出した槍はヴァルターの腹部を貫く。
だが、手応えは無い。
まるで湖面に突き立てたかのような感触だった。
「素晴らしい突きですねえ。ただの村娘がここまで槍術を昇華させた。ああ、涙を流してしまいそうだ」
「――ッ」
アインは舌打つと後方に飛ぶ。
まさか、槍がすり抜けてしまうとは思わなかった。
まだ手札はある。
アインは平常を保つように呼吸を整え、義手を前に突き出す。
「潰れてッ!」
重力魔法の行使。
これを耐えられる者は、よほど体格に恵まれた戦士くらいだろう。
並の人間では体が耐えられずに圧し潰されてしまう。
だが、ヴァルターは笑みを絶やさない。
「いやはや、この魔法も素晴らしい。こればかりは、私といえども真似することは難しいでしょうねえ」
まるで通用しない。
アインはその事実に愕然としつつ、しかし戦意は失わずにいた。
シャツの首元を引き、黒鎖魔紋を露にする。
ヴァルターを相手にするのだから、出し惜しみはしていられない。
「我は渇望する。永劫の悦楽よ、此処にあれと――血餓の狂槍」
畏怖されし邪神の力。
賜りし漆黒の槍を手に、再び肉迫する。
「――黒牙閃」
再びヴァルターの胴体に槍を突き刺す。
先ほどとは違い、微かに手応えを感じることが出来た。
「ふむ……この槍は、少しばかり危険ですねえ」
ヴァルターは興味深そうに見つめ、槍を引き抜こうと後方に下がろうとする。
だが、アインはそれを許さない。
「――槍鎖『象影』」
アインの影から伸びた無数の鎖がヴァルターの四肢を絡め捕る。
このまま喰らえる限り喰らってしまおうとするが――。
「こちらは稚拙な魔術ですねえ。発想は悪くないのですが……」
落胆したようにため息を吐き――ヴァルターは鎖を容易く振り払って掌底を放つ。
随分と加減した様子だったというのに、アインの体は木の葉のように吹き飛ばされた。
地を転がるが、すぐに体勢を立て直して槍を構える。
まだ体は動く。
殺気を滾らせて、アインは戦意を露にする。
それを見てヴァルターは考えるそぶりを見せる。
彼は一体何を考えているのか、アインには見当も付かない。
少しして、ヴァルターは肩を竦めた。
「残念ですが――今の貴女には、私と相対する資格が無い」
そう言って、彼は懐から一冊の魔導書を取り出す。
その中から一つの魔術を選び、構築し始めた。
それは魔法の域に留まらない。
大魔法という言葉でさえ失礼なほどに、膨大な魔力が込められていた。
空を覆う闇がヴァルターの元に集う。
大地が震える。
そうして、生み出された魔法は条理から外れた超越の術。
内に秘めた深淵なる狂気を露にし、ヴァルターは高らかに詠う。
「原初の神の一柱、夢幻の魔の願いしは。幾多の命灯消え去る刹那。汝が歩む道の果て、其の結末は非情と知りなさい――災禍の日」
途方もない量の闇が爆ぜた。
世界を黒く染め上げる闇。
その余波は、それだけで多くの命を刈り取るほどに凶悪なものだった。
耐えられるはずがない。
死の恐怖を感じ、アインは目を閉じるが――。
「それでは困るのだがな、人間」
目を開けると、視界に漆黒の翼が映った。
見れば、アインを庇うように六転翼『第一翼』オルティアナが立っていた。
なぜ黒鎖魔紋を持つ自分を守ろうとしているのか理解出来なかったが、少なくともオルティアナはアインを守る気でいるようだった。
だが、その表情に余裕はない。
ヴァルターの魔術から身を守っている障壁に、徐々にひびが入っていく。
長くは持たない。
それを察したオルティアナは嘆息する。
そうして、仕方がないといった様子でアインに振り返った。
「喰らう者よ。道理を一切気にせず喰らうといい。その力が愚者を貫く光となることを期待している」
そうして、アインの足元に魔方陣が展開される。
転移魔法だと気付いた時には、既に視界は光に閉ざされていた。




