159話 喪失と忘却
喉が枯れ果てる程に哭いた。
掠れた声で嗚咽した。
血だまりに倒れ伏す亡骸は、もう何も答えてくれない。
この深い悲しみは何が埋めてくれるのだろうか。
絶望の奈落に突き落とされ、残されたものはただ一つ――黒鎖魔紋。
いっそ全てを喰らってしまおうか。
畏怖されし殺戮者となって、獣のように血肉に塗れて嗤おうか。
きっとそれは、夢のように楽しいことだろう。
未だ癒えぬ傷を抱えて立ち上がった時、背後から歩み寄って来る者がいた。
「アイン――」
エミリアはアインと足元に転がる亡骸を交互に見て察する。
マシブは死んだのだと。
だが、アインは嗤っていた。
涙を流しながら、焦点の合わない瞳で嗤っていた。
内に秘めた狂気が露になった姿は、酷く痛々しく感じさせる。
エミリアは気まずそうな表情で懐から羊皮紙を取り出し、アインに手渡す。
「あの神父が、貴女にこれを渡せと」
そこに描かれていたのは地図だった。
ハイデリア公国から北方に進んだ先にある未開の地。
その中の一か所に印が付けられていた。
地図にはこう記されていた。
――傷心の貴女に、甘美な夢を与えましょう。
ヴァルターからの誘い。
彼の意図するところは理解出来なかったが、悲しみを紛らわせるくらいは出来るのだろう。
「アイン。悲しいでしょうけれど、そう気を落とさないで。きっと彼は、戦士として勇ましく戦い抜いたはずよ」
エミリアが励まそうとするが、アインは首を振る。
相手はアイゼルネだったのだ。
マシブが無様に嬲り殺しにされたことは容易に想像出来る。
殺さなければならない。
あの憎き枢機卿アイゼルネ・ユングフラウを。
如何なる方法を用いてでも、その命を刈り取って、己の所業を悔いさせなければならない。
最愛の両親を失い、信頼する相棒までもが殺された。
復讐の道は避けられない。
彼女を殺すことこそが自分の生きる意味なのだとさえ思えていた。
ヴァルターは何を思ってアインを誘うのか。
その意図は不明だが、何か大きな意味があるはずだ。
「……行かないと」
体は酷く痛む。
安静にするべきだろうが、アインの心はそれを望まない。
疼いているのだ。
都合良く、黒鎖魔紋が熱を帯びている。
災禍の日は間もなく訪れるだろう。
それ以外のことは何も考えられなくなっていた。
エミリアたちを振り返ることなく、アインはその場から立ち去る。
未だ混乱の収まらないラクィア神殿を、目に付いた信徒を殺しながら歩いていく。
だが、心は満たされない。
この程度の殺戮では全く足りないのだ。
草原を抜け、森を抜け、荒野に出る。
呆然と歩き続け、数日が過ぎただろうか。
身を刺すような寒気を感じた時、アインは気付く。
――夜が来た。
全てを忘却の彼方へと追い遣る、血塗られた災禍の訪れだ。
暗闇に蠢く無数の殺意。
臓腑が震えるような悍ましい唸り声を聞いて、湧き上がる黒い感情。
深い森の奥で一人、アインは歓喜する。
ようやく災禍の日が来たのだと。
「我は渇望する。永劫の悦楽よ、此処にあれと――血餓の狂槍」
暗闇の中で、その槍は最も昏い闇を讃えていた。
まるで今のアインの感情を表すかのように。
襲い来る異形の軍勢。
今宵は共に戦う相棒がいない。
久しく一人で迎える災禍の日は、どうしてだか心地良く感じてしまう。
全てが始まったあの日から、アインは多くのものを失ってきた。
唯一残された人間らしい感情も今や消え失せて、ただひたすらに血飛沫や断末魔を求める殺戮者となった。
後悔など無い。
これが、定められた運命なのだ。
黒鎖魔紋を得てしまったのだから、いずれ狂気に呑まれることは決まっていた。
それが早いか遅いか、それだけの違いでしかない。
闇が膨れ上がる。
狂気に染め上げられていく。
死者に感傷を抱くような心は、災禍の日を迎えたことの悦びに上書きされた。
身が削られていく苦痛さえも愛おしい。
長い夜が明けるまで、この戦いを楽しめばいい。




