158話 慟哭
階段を上がり、ラクィア神殿の東側へと出る。
調律者を助け出すことに成功したのだから、これ以上この場に留まる意味はないだろう。
アインは調律者に視線を向ける。
神と定義するに最も相応しい存在。
見た目はアインよりも幼い少女だが、その内に秘めた力は比べ物にならない。
調律者は成長するという。
現時点でこれほどの力を持っていることを考えると、それを捕らえたアイゼルネはそれ以上の力を持っているということになる。
「……ッ」
恐怖が勝ってしまう。
殺すべき敵は、自分が想定しているよりも遥かに強いのかもしれない。
アイゼルネに追い付くには、今よりも多くの命を奪って糧にしなければならないだろう。
――死を恐れるならば、死を齎せ。生き永らえたいならば、生を奪え。
六転翼の言葉を思い出す。
多くの命を喰らうことでアインは成長することが出来る。
であれば、今のように敵対者だけを殺しているだけでは不足しているのかもしれない。
だが、それでは自分が憎む教皇庁や教団と変わらないのではないか。
そこまで堕ちてしまった時、信頼する相棒は何を思うだろうか。
一人の少女が歩むには、あまりにも過酷する道。
解を与えてくれるような存在はおらず、苦悩しながら這い蹲ってでも進むしかない。
調律者はアインのことを無感情に見つめるだけで、何か返答をするわけでもない。
祈れば何かを叶えてくれるような神は、愚かな人間が生み出した幻想でしかないのだろう。
歩みを進めている時――不意に前方の壁が突き破られ、一人の人物が転がり出てきた。
――枢機卿アイゼルネ・ユングフラウ。
その人物を視界に収めた時、アインの内に秘めた殺気と恐怖の二つが膨れ上がった。
よろめく体を支えつつ、槍を構えようとして気付く。
何故、アイゼルネはあんなにも険しい表情を浮かべているのか。
「おや、どうやらそちらは片付いたようですねえ」
突き破られた壁の奥から、悠然とヴァルターが姿を現す。
アイゼルネと戦っていたのだろう。
だというのに、彼の表情はいつものように穏やかなものだった。
「チッ――」
アイゼルネが不愉快そうに舌打つ。
まさか、このタイミングで敵が増えるとは思っていなかったのだろう。
これは好機ではないのか。
明らかにアイゼルネは消耗しており、対してヴァルターは涼しげな様子だった。
もしかすれば、ヴァルターの方が実力で優っているのかもしれない。
「さてさて、どうしましょうかねえ。これだけ場が整っているのであれば、枢機卿殿を殺すことも難しくはないですが――」
ヴァルターはアインに視線を向ける。
既に満身創痍といった様子だが、それでも槍を振るえるだけの気迫は残っていた。
確かに今は好機だ。
しかし、こうして復讐を遂げたとして、はたして自分は満足できるのだろうか。
否、後悔することになるだろう。
勝利の味は、きっと苦い木の実を噛み潰したように不快さを残してしまう。
次に、ヴァルターはアイゼルネに視線を向ける。
互いに全力ではないにせよ、幾分か実力は把握することが出来た。
人数で優っていることを考えれば、こちらが圧倒的に有利な状況だった。
アイゼルネは不愉快そうに眉を顰める。
全てを弄ぶようなヴァルターの態度が気に入らなかった。
「……ほう、そういうことだったか」
ふと、アイゼルネが納得したように呟いた。
彼女が何に気付いたのか、アインには察することが出来ない。
「道化め。よく口は回るようだが――」
再び剣を構え、戦意を示す。
余裕が戻ってきたのか、微かに笑みが浮かぶ。
「――その小娘を庇って、この私を相手に出来るか?」
剣先はアインに向けられていた。
それを見て、ヴァルターが初めて表情を変える。
「流石は枢機卿殿。易々と騙されてくれるような愚者であれば、都合が良かったのですが」
「一度は騙されたが……二度は無い」
ヴァルターが何を目的として、アイゼルネは何に気付いたのか。
二人を除いた者たちは理解が追い付かない。
アイゼルネの言う一度目とは、村から連行されていくアインをヴァルターが救った時。
その時点で既に計略は始まっていた。
この場にはアイン、ヴァルター、エミリアとウィルハルト、そして調律者がいる。
対するアイゼルネは一人だけ。
明らかに有利な状況だというのに、ヴァルターは困ったように肩を竦める。
「いやはや、困りましたねえ。既に用済みかと思えば……やはり貴女は面白いッ!」
そして、目を大きく見開く。
そこには底知れぬ狂気が蠢いていた。
「それ故に、枯れ果てた大地に雨降るが如く――我が心が躍るのですッ! 嗚呼、誰もが伴奏に酔い痴れ踊る愚者というわけではない!」
彼の企みの何処までかを、アイゼルネは確信を持っていた。
ヴァルターはアインに"何かしらの役割を背負わせようとしている"のだ。
興奮を深呼吸で抑え、ヴァルターは一礼する。
「ああ、失礼しました。実に愉快な気分でしたので、つい」
平常を装っているように見えるが、その内から漏れ出る狂気に誰もが気圧されていた。
彼は何を抱いて黒鎖魔紋を得たのか。
ヴァルターは一息吐くと、魔術を構築し始める。
「枢機卿殿の見事な推察には、報酬を用意しなければなりませんねえ――日輪門」
アイゼルネの足元から光が溢れ出す。
呼び出されたのは、煌めく日輪を模した転移門だった。
「貴様――ッ!」
アイゼルネが範囲外に出ようとするが、見えない壁に阻まれてしまう。
既に魔術は完成されている。
逃げることは難しいようだった。
「さあ、行きなさい。そして来るべき日に備えるといい。それが意味を成すかは貴女次第です」
そして、アイゼルネの姿が掻き消える。
どこへ転移させたのかはヴァルターにしか分からない。
アインは安堵したように膝を突く。
以前のように軽くあしらわれるようなことは無いだろうが、アイゼルネを相手に打ち合えるとは思っていなかった。
もし戦いが始まってしまったら命を落としていたかもしれない。
これで一先ずは終いだと、アインは息を吐きだすが――。
「――おやぁ? この場には、一人足りませんねえ?」
わざとらしく、ヴァルターが辺りを見回す。
既に死んでいることを理解しているというのに、大袈裟に。
だが、それを聞いたアインは愕然と目を見開く。
まだ傷が酷く痛むというのに、痛みを噛み殺して走り出した。
アインは一人、ラクィア神殿を駆け回る。
まさかマシブが死ぬようなことは無いだろうと、そう思いつつも否定しきれない自分がいた。
何より、この地には先ほどまでアイゼルネがいたのだ。
死という言葉を思考から取り去ることは難しい。
そんな中でも、実はどこかで油を売っているのではないかと、そんな願望を抱いてしまうのは仕方がないだろう。
アインにとってマシブは頼れる相棒であり、友でもある。
そして、狂気に呑まれかけている自分を人間として在らせてくれる最後の存在だ。
そんな彼が死んでしまったら、どう生きていけばいいのか分からなかった。
曲がり角を曲がった時――その視界に、倒れ伏すマシブの姿があった。
「――ッ!?」
彼の周辺には大きな血だまりが出来ていた。
酷い怪我を負っているのだろう。
その近くには、粉々に踏み砕かれた双剣『剛蛇毒牙』があった。
急いで駆け寄り、声をかける。
だが、返事は無い。
「マシブ……?」
力無く倒れ伏す一人の戦士の亡骸。
最後まで勇ましく、己の矜持を捨てずに戦い抜いた男は、今では指一本さえ動くことは無い。
「どうして……ッ」
そっと頬に触れると、その冷たさにアインは涙する。
彼はもう動かないのだ。
下らない言葉を交わしながら、酒を飲んで語らう夜はもう訪れない。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
ただ呆然と亡骸を眺めることしか出来ない。
黒鎖魔紋は災いを呼び寄せるという。
それさえもアインは愉しんできたが、今度ばかりは嗤うことが出来なかった。
心臓が激しく脈打っていた。
呼吸が乱れ、視界も焦点が定まらない。
こぼれ続ける涙が、その悲しみの深さを物語る。
アインは力無く地面に手を突いて――慟哭する。
「うああああああああああああああああああああああッ!?」




