143話 苦悩する
その夜は月が煌々と輝いていた。
霧が深い夜だった。
そして、とても静かな夜だった。
馬車の軋む音と、それを引く馬の蹄の音だけが辺りに響く。
荷車で揺られるアインは、槍を抱えて微睡んでいた。
信頼できる仲間たちに守られて迎える夜は、久しく忘れていた睡眠の心地よさを感じさせていた。
周囲を警戒せずに眠れる夜は、一体どれくらいぶりだろうか。
御者台で馬を引くマシブは、客車を振り返って頬を緩める。
こうして眠っている姿はシュミットを訪れた頃と何も変わらない。
変わってしまったのは、周囲を取り巻く状況だけだ。
「少し、よろしいでしょうか」
荷車から身を乗り出したヴァルターがマシブの隣に腰掛ける。
穏やかに微笑む姿は確かに神父らしいもので、その一面は偽りではないのだと感じた。
「丁度良い。俺もお前には聞きたいことがたくさんあったんだ」
「おやおや、そうでしたか」
マシブが彼と出会ったのはこれが初めてではない。
シュミットの街が災禍の日によって陥落したその夜、人々を助けるために手を差し伸べた不気味な神父。
彼の存在が無ければ、きっとマシブも異形の魔物に喰らい貪られていただろう。
ヴァルターの右手に視線を向ける。
皮手袋で隠れているが、そこには黒鎖魔紋が刻まれている。
「……俺はアインの隣に立ち続けられると思うか?」
「ふむ……それは戦士として、ということでしょうか」
鋭い眼光でマシブを見つめる。
ヴァルターから見て、彼はどう映るのか。
「大抵の場合において、その問いに私は頷くでしょう。大陸各地を巡ったとして、貴方ほどの戦士は早々見つからない」
剣士としての卓越した技量、二本の大剣を振り回すだけの膂力。
時には非情になって判断を下すことが出来る冷静な思考、過酷な道を歩み続けられる胆力。
生まれ持った天賦の才を存分に発揮した一流の戦士と言えるだろう。
ですが、とヴァルターは続ける。
「今回の相手は枢機卿殿です。彼女を相手にして、貴方が生き延びられるとは到底思えない」
ヴァルターは断言する。
どう足掻いたところでマシブでは役者不足なのだと。
勝機が僅かでも見えていたならば、彼は違った言葉を使っていただろう。
「そうかよ」
マシブも薄々気付いていたのだ。
今のアインですら恐怖を抱くほどの相手を前に、自分が勝てるはずは無いのだと。
「……黒鎖魔紋を手に入れるにはどうすりゃいい」
精神を蝕む禁忌の力。
この先、マシブが戦い続けるには魔紋を得るしかないだろう。
「どうやら、貴方もこれに焦がれているようですねえ」
ヴァルターは皮手袋を外し、黒鎖魔紋を露わにする。
持つ者に強大な力を与える畏怖されし魔紋。
魔道に進む者は皆、これを求めるのだ。
マシブには黒鎖魔紋が羨ましく思えた。
忌み嫌われる刻印であることは知っている。
かつての彼もまた、災禍の日によって大切なものを失っているのだ。
しかし――。
「それしかねえんだ。悔しいが……今の俺には、アインの隣に立てるほどの強さがない」
これまでの旅路は確実に彼を強くさせた。
だが、アインはそれ以上の速さで成長してきている。
二人に差があるとすれば、それは黒鎖魔紋の有無だろう。
「黒鎖魔紋を手に入れられるなら、俺はどんなことだってやってやる。そのつもりで、ずっと戦い続けてきた」
アインの隣に立ち続けたい。
それが彼の望みであり、力を渇望する理由だ。
だが、ヴァルターは首を振る。
「残念ですが……私から見て、貴方には黒鎖魔紋を得られるだけの適性が無い。これは望めば手に入るような代物ではないのです」
ヴァルターは右手に刻まれた黒鎖魔紋を見つめながら言う。
「私がこれを得られたのは必然といっていい。何故ならば、私は邪神の寵愛を受けるに値するだけの狂気を目覚めさせたのですから」
相応しいだけの狂気が足りていない。
アインの隣に立ち続けたいと願うマシブの想いは正気の範疇にあるのだ。
ヴァルターの言葉通りであれば、彼は魔紋を得られるだけの何かを経験したのだろう。
その何かというものがマシブには分からない。
それ故に、こうして苦悩するのだ。
「切っ掛けが必要ってことか」
「その通りです。もし貴方が得られるとすれば――」
ヴァルターは荷車を振り返る。
そこには穏やかに寝息を立てているアインの姿があった。
「冗談じゃねえ」
マシブは即座に否定する。
隣に立ち続けたいがために魔紋を求めているのだ。
魔紋を得るためにアインを失っては本末転倒だろう。
だが、このままで良いとも思えない。
はたして他に力を得る方法はあるのだろうか。
思案するが、何も思いつかなかった。
「存分に苦悩しなさい。その意思が折れぬ限り、主は貴方のことを見捨てない」
「黒鎖魔紋が得られないなら、邪神ってのに用はねえよ」
「そうですか……ふむ」
ヴァルターは少し考えるそぶりを見せてから口を開いた。
「一つ、助言を与えましょう。貴方は強大な力を望んでいるが、何も力が全てではありません。貴方が心から望むのであれば、相応の役割が与えられるはずです」
「……よくわからねえな」
マシブは頭を掻き毟る。
ヴァルターの言うことは抽象的でいまいち理解できなかったが、それでも戦い続けるという道から外れるつもりはない。
その覚悟は決して折れないだろう。
ラクィア神殿までの道程は遠い。
しかし答えに辿り着けなければ、彼の道は途絶える。




