138話 枢機卿
教皇庁は大陸で最も強い力を持つ組織である。
厳格な戒律と善を説くヴァレリア教。
その教えを大陸各地へと広めるべく、彼らは至る所に神殿を築いた。
だが、その裏では多くの信仰が蹂躙されてきた。
教皇庁は他の宗教の存在を容認せず、地域に根付いた文化と共に排除してきたのだ。
それ故に、反抗心を抱く者も多いという。
であれば、なぜ教皇庁は力を保てたのか。
如何にして反乱因子を抑え込むことが出来たのか。
それは、教皇庁の保有する強大な軍事力にある。
教皇庁聖十字騎士団、通称『純白示教』。
敬虔な信者たちによる布教活動といえば聞こえは良いが、その実態は武力による強引な弾圧だ。
いざ戦争となれば大国をも凌ぐほどの教皇庁を相手にして、要求を拒むことが出来るほど地域の信仰は力を持たない。
そして、『純白示教』を統括する存在――枢機卿アイゼルネ・ユングフラウ。
ある者は敬虔な信徒であると言い、ある者は冷徹な拷問官であると言う。
彼女の経歴には不可解な点が多いが、その行動は一貫している。
――邪教徒死すべし。
異様なまでの執着。
鬼気迫る様子で日々鍛錬を積み、いざ戦場に出れば多くの命を奪う。
捕縛の命が出ていたとしても、相手が邪教徒であればその場で殺すことも厭わないほど。
彼女は英雄だ。
教皇庁の信徒が多い大陸において、邪教を滅する聖騎士。
それが民衆からの印象だろう。
それ故に、邪教徒は恐れるのだ。
己の死はアイゼルネの足元に敷かれた絨毯でしかないのだと。
今宵もまた一つ、邪教徒の断末魔が響くことになる。
薄暗い牢に捕らわれた身なりの汚い男。
彼は鎖に繋がれて跪かされていた。
そして、彼の視線の先にいるのは一人の女性。
生温い拷問官に当たったものだと男は薄ら笑いを浮かべていたが、その直後に顔が強張る。
ゾクリとするほどの嗜虐的な瞳。
拷問器具を片手に、如何にして男を苦悶させるかを考えていた。
「さて、始めよう」
拷問官――アイゼルネは男の前に立つと、容赦無く腹部を蹴り上げる。
「がはッ――」
まさか何かを問われる前に蹴られるとは思っておらず、男は苦しそうに息を吐き出す。
元より口を割るつもりは無かったが、微かに恐怖心が生まれる。
「私は煩わしいことが嫌いだ。早く話してもらおうか」
「な、何をだ……」
「教団とやらについてだ」
男の右手に浮かぶ黒い痕――黒鎖魔紋。
紛う事無き邪教徒の印。
それだけであれば、男は楽に死ぬことが出来ただろう。
魔紋を捧げ、後は首を切り落とされるだけ。
だが不幸なことに、彼の反対の手には違う印が刻まれていた。
「貴様の左手に刻まれた印。それが教団の証であることは知っている」
「……だったら何だって言うんだ」
「知る限りの情報を話せ。貴様がどうやって、この"神聖な地"に足を踏み入れたのか」
二人がいる地下牢からは想像も付かないような言葉。
事実として、この地は邪教徒にとって苦痛を伴う聖域だった。
「……」
男は沈黙を貫く。
それを話すということは、教皇庁に屈すると同義。
彼にその選択肢は存在しない。
「話す気は無いようだな」
アイゼルネの手に握られた銀の針が松明の光を照り返す。
その鈍い光を見て、男は顔をひきつらせた。
「それを俺にぶっ刺そうってのか? 冗談きついぜ……」
抵抗しようにも、男には抗う力さえ残されていない。
牢に刻まれた魔紋が、魔術の行使を全て封じているのだ。
男の右手を掴んで固定すると、指と爪の間に針を差し込んでいく。
苦痛を堪える男の視界には悪魔のような表情を浮かべるアイゼルネの姿があった。
「こちとら拷問慣れしてるんでねえ。俺に時間を使うだけ無駄だぜ?」
その言葉は決して強がりではない。
教皇庁の主要な神殿の一つであるラクィア神殿。
そこに潜入するにあたって、特殊な訓練を受けてきた彼が抜擢されたのだ。
しかし、アイゼルネは呆れたように溜息を吐く。
「貴様は理解していないようだな」
「な、何がだ……?」
「私にとって、貴様の生死はどうだっていい。情報も得られれば僥倖というだけ」
男にはアイゼルネの言っていることが理解できなかった。
潜入を任されるだけあって、男は教団内でもそれなりの立場にいる。
教皇庁でさえ知らないような情報も多く持っていることだろう。
であれば、何のために拷問を行っているのというのか。
疑問に満ちている男を見てアイゼルネは嗤う。
「それが欲しいんだ。貴様の持つそれが私の力となる」
指先で黒鎖魔紋をなぞる様に滑らせて、男の耳元で囁く。
熱っぽい吐息を感じ、男は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「……黒鎖魔晶でも作るのか? 生憎だが、俺の魔紋からじゃ大したモンは作れねえよ」
男は震えた声で言う。
事実、彼は諜報員であって戦闘員ではない。
彼から黒鎖魔晶を得たとしても、大した武器にはならないだろう。
だが、男は思い違いをしていた。
目の前にいる女性に常識は通用しない。
アイゼルネが黒鎖魔紋を欲する理由は、彼女のみしか知らないのだ。
「こういうことだ」
アイゼルネが男の顔を鷲掴みにする。
直後、得体の知れない恐怖が湧き上がってきた。
「なんだ、これは……ッ!」
男は苦悶に満ちた声を上げる。
体の奥底にある“何か”が失われていくような感覚。
激痛が体中を駆け巡っていた。
アイゼルネの哄笑が地下牢に響き渡る。
彼女を悪鬼足らしめるのは邪教徒への憎悪だけではない。
「存分に苦しむがいい。貴様にはお似合いの末路だ」
喰らっているのだ。
男の持つ黒鎖魔紋を。
力への渇望が、それを可能とさせた。
やがて、男は力を失ったように項垂れた。
己の根幹とも言うべき黒鎖魔紋を喰らわれて、残った器には何も残らない。
邪神の寵愛を失った者に何の価値があるというのか。
だが、最後に紡ぐ。
「今に見ていろ。あのお方が、この世界を――ッ」
斬首。
無慈悲な剣閃によって、男の命はここで途絶えた。
「調律者は教皇庁の手に収まった。どう足掻いたところで、邪教徒には手出しできない」
精々冥府で悔やむがいい。
そう言い残して、アイゼルネは地下牢を後にする。




