136話 バロン・クライの祭壇
大陸各地で発生している魔物の活性化。
外界から流入した悪しき力によって影響を受けた魔物が、それまでとは異なった成長を果たして凶暴化してしまう。
その原因となるのは、邪神の住まう世界との境界が失われかけていることにある。
だが、この迷宮は違う。
空間自体が悪しき力に侵食され、現世とは異なった領域となっているのだ。
押し寄せる異形の軍勢。
見紛うはずもない。
繰り返される惨劇の夜を、二人は確かに覚えている。
「どうなってやがる……」
仰々しい祭壇を見上げ、マシブは呆然と呟く。
アインも同じ感想を抱いていた。
世界の破滅を目論む教団。彼らの力を侮るつもりは無かったが、まさかこれほどまでに力を持っているとは思っていなかった。
部屋全体に刻まれた複雑な魔紋。
張り巡らされた黒き鎖。
それに縛られている存在が何者であるのか、二人は知っていた。
「六転翼……」
漆黒の髪。
漆黒の翼。
漆黒の服。
神と崇めるには禍々しく、悪魔と呼ぶには美しすぎる。
枷を掛けられて祭壇に飾り上げられた姿を前にして、人間の生み出す物を芸術と呼べるだろうか。
世界を管理するという、超常の存在。
それがどれほど恐ろしい力を持っているのかは考えるまでもない。
鎖に繋がれて身動きを取れない状態だというのに、未だに平伏したくなるほどの圧を感じる。
だが、以前と異なって体が震えないのは、二人が強くなったからだろうか。
「あれは……神、なのかッ……?」
ファーレンが跪き、仰ぎ見る。
浅ましい宗教の祖には、果たして彼女の姿はどう映っただろうか。
鎖に捕らわれた神はゆっくりと瞼を持ち上げる。
そして、アインに視線を向ける。
正しくは、胸元の黒鎖魔紋に。
「我が名は第四翼『クローディア』。喰らう者よ。汝が此処を訪れた理由は何か」
以前邂逅したオルティアナと同質の気配。
間違えるはずもないだろう。
正しく神と呼ぶにふさわしい存在がそこにいた。
「聞きたいことがある」
「妾に全てを教えることは出来ない。長らく、この閉ざされた空間にいたのでな」
「知っていることだけで構わない」
彼女には聞くべきことが幾つもある。
一つずつ、疑問を解消していくべきだろう。
「六転翼というのは、何をするために存在しているの?」
「その疑問に答えるのは容易だ。我ら六転翼は世界の管理者。秩序を乱す者、破滅を齎す者は排除する」
言葉通りであれば、六転翼は正しく神と呼ぶべき存在だろう。
その排除対象が何者かが問題だ。
「このメルディアに呪いをかけたバロン・クライは?」
「彼の者は人の領域を超えた存在。既に我らの手に負えなくなってしまった。故に、今の無様な姿があるというわけだ」
祭壇に捕らわれたクローディアは自嘲する。
神に等しい存在であっても、こうして囚われて儀式に組み込まれてしまうのだ。
「祭壇に来るまでに見ただろう。この領域は既に邪神の世界。いずれ、世界の全てが呑み込まれる」
「それが、彼らの言う世界の破滅なの?」
その問いにクローディアが頷く。
世界は異形の怪物に埋め尽くされ、逃げ惑うように陰で暮らす人々。
そこには一切の希望も無い。
教団を阻止しなければ、世界は人が生きられないほど過酷なものになってしまうだろう。
だが、その世界は果たして苦痛に満ちているだろうか。
災禍の日を待ち遠しく思うアインにとって、その世界は――。
アインは思考を切り替え、クローディアに問う。
「前に怪しい力を使う子供を見た。あれは何者なの?」
「恐らくは調律者のことを言っているのだろう。ふむ、世界が動いたか」
クローディアは安堵したように呟く。
彼女の言う"調律者"という存在が何者なのか。
「混沌が訪れた時、修正を試みる世界の意志の具現化。我らとは異なる存在だが、我らより上位の権限を持つ。お前たちの言う"神"という呼び方をするならば、こちらの方が近い」
「バロン・クライを殺せる?」
「否だ。調律者には力を蓄える期間が必要になる。世界に数多散らばる魂の残滓を回収し、その残留する魔力を糧として成長していく」
しかし、とクローディアは続ける。
「調律者に抗うことは人間には不可能。いずれ、その者は死ぬことになるだろう」
確信を持って言い放つ。
それほどまでに調律者という存在は強力な力を持っているのだろう。
だが、一つだけ疑問が浮かぶ。
「もしバロン・クライが調律者の存在に気付いて、成長を阻止したら?」
その問いに、クローディアは黙する。
まさか世界自体が敗北するなどと、想像することは無意味な話だ。
しかし、バロン・クライが調律者という存在に気付いていたならば。
成長しきる前に邂逅してしまったならば。
今のクローディアのように、捕らわれてしまう可能性もゼロではない。
聞きたいことを聞き終えると、アインは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
己の震えを抑え込むように体中に力を入れて、一歩前に踏み出す。
「マシブ」
「……ああ、わかったぜ」
アインの意図を理解して、マシブは後ろへと下がる。
それを見て、ファーレンは首を傾げる。
「どうした。解呪をするのだろう?」
「その必要は無くなったってことだ。見てればわかる」
その言葉を聞いて、ファーレンもマシブに倣って下がる。
二人の視線の先では、アインと未だに鎖に捕らわれたままのクローディアが対峙していた。
「もしや、妾を喰らおうなどと思い上がってはいないだろうな?」
言葉を返す事無く、アインは槍を構える。
ずっと耐え続けていたのだ。
目の前に御馳走を並べられて、我慢できる獣はいない。
まして今のクローディアは鎖に囚われて抵抗出来ないのだ。
極上の魂。これを喰らわないという手は無い。
「傲慢な。それが誤った選択であることを、汝は理解した方がいい」
忠告に耳を貸す事無く、アインは前へと進んでいく。
一歩前に踏み出す度に圧が増していく。
これが、六転翼の力。
「私の糧となって、消えて」
槍を突き立てる。
刹那、凄まじい力の奔流がアインに流れ込む。
「――ッ!」
人では辿り着けない領域。
黒鎖魔紋を以てしても、これほどの力を引き出すことは難しいだろう。
大量の酒を呑んだ時のような酩酊。
体が酷く熱い。
焼け爛れるような熱を感じても、アインは槍を手放すことをしない。
「愚かなことを……ッ!」
クローディアの表情が険しさを増していく。
黒鎖魔紋の力だけでは脅威足りえないが、それでも鎖に囚われて一方的に嬲られることに対抗することは厳しいのだろう。
これが正しい選択でないことをアインは理解している。
理解してなお、喰らうことを止めない。
もっと力を得なければ、その先に待っているのは死のみだ。
激しく魔力光が明滅し、部屋全体に刻まれた魔紋が光を放つ。
余波で空間そのものが歪み、壊れかけていた。
そして――。
「終わった、のか……」
未だ空間が安定しない中でマシブが呟く。
迷宮は崩れかけていたが、辛うじて崩壊は免れたようだった。
視線の先では、アインが槍を手に持ったまま佇んでいた。
恍惚とした表情で、体中から湧き上がる快楽に浸っていた。




