134話 狂気に呑まれる
その槍が己に向けられた時、マシブは言いようの無い恐怖を感じた。
これまで共に戦ってきた者から受ける殺意は、なぜこんなにも恐ろしいのだろう。
アインは完全に理性を失ってしまっている。
黒鎖魔紋がどこまで解放されているかは分からなかったが、場合によっては普段のアインよりも強い可能性もある。
そうであったならば、マシブの命は助からないだろう。
「くそ、どうしろってんだ」
マシブは警戒した様子で剣を構える。
殺めるつもりはない。
意識を飛ばしさえすれば、力を抑え込むことも出来るだろう。
だが、如何にしてアインを抑え込めばいいのか。
思案するが、少なくとも穏便に済ませられるということは無い。
それまでの間に怪我を負わせることになってしまう。
「……どっちが怪我を負うんだろうな」
常人では黒鎖魔紋の力に対抗することは出来ない。
その狂気と対峙したら最後、その先に待っているのは死のみだ。
だが、マシブは抗えるだけの力を持っている。
第二段階まで解放した教団の幹部さえも返り討ちにするだけの力量があるのだ。
厳しい戦いではあるが、不可能というほどではない。
幸いというべきか、今のアインは動きが鈍い。
狂気に呑まれたせいか戦士らしい立ち振る舞いをしていないのだ。
であれば、勝機があるかもしれない。
そう思った直後、アインが動き出す。
ゆらりと体を動かして――瞬時に肉迫する。
「――ッ!?」
咄嗟に剣を振るうが、アインはそれを身を屈めて掻い潜ってマシブの脇腹を斬り付けていく。
まるで獣のような身のこなしだった。
「やりづれえな……」
幸い傷は浅かった。
マシブは即座に回復魔法によって治癒していくと、アインの方に向き直る。
今度こそ逃すまいと剣を構える。
一瞬の躊躇いが命取りとなるのだ。
相手がアインだからといって、その剣を鈍らせては助けることが出来ない。
灼鬼纏転によって力勝負で後れを取ることは無いはずだ。
マシブは荒く息を吐き出して、強化の度合いを高めていく。
身体強化と治癒。
その配分を違えた途端、灼鬼纏転は身を切り裂く害となる。
だが、今は魔力の限りを尽くして身体強化を施さなければならない。
再びアインが槍を構えてマシブに襲い掛かる。
その強烈な殺気に当てられて、再びその体が鈍ってしまう。
「チィッ!」
咄嗟に身を翻して槍を躱し、アインの腹部を殴り付ける。
しかしアインはそれに怯む事無く、逆にマシブの腕を掴んで投げ飛ばす。
視界が大きく回転し、瓦礫に叩きつけられる。
それ自体は鎧のおかげてあまり痛みは無かったが、それ以上にマシブは驚愕していた。
アインは優れた槍術を持っているが、少なくともマシブを投げ飛ばせるほどの怪力は持っていなかった。
黒鎖魔紋の力があれば不可能ではないかもしれないが、それでも容易く投げ飛ばせるほどとなると異常だ。
もし真正面から相手をするとなると、マシブであっても苦戦を強いられることになるだろう。
さすがに一人で相手をするには厳しい。
ふと、マシブは先ほどからファーレンの姿が見えないことに気付く。
「あいつ、隠れてやがる……」
恐らくどこか安全な物陰に身を潜めているのだろう。
ファーレンと連携を取れるのであれば随分と楽になるのだが、本人にはその気が無いらしかった。
マシブは舌打つと、今度は自分から攻めていく。
助けは期待するだけ無駄だ。
一人で何とかしなければならない。
大地を力強く踏みしめ、アインに向かって拳を突き出そうとした時――行く手を阻むように地面から無数の槍が突き出す。
咄嗟に身を仰け反らせて躱し、後方へと飛ぶ。
獲物を捕らえ損ねた槍は霞となって消えた。
マシブの額を冷や汗が伝う。
こんな攻撃が出来るのであれば、視界に映る全てが間合いに入っていると言ってもいいくらいだ。
「……やるしかねえッ」
再び駆け出す。
怪我を恐れていては戦士の名が泣いてしまう。
黒鎖魔紋を解放したアインは怪我を一切恐れない。
手傷を負えば負うほど戦意が高まるくらいだ。
それがマシブに出来ないという道理はない。
大地を踏みしめた足を貫くように槍が突き出す。
苦痛に顔を歪めつつも、マシブはもう一方の足を前に出す。
胴体を貫くように地面から槍が突き出す。
血が噴き出しても、さらにマシブは前進する。
「うおおおおおおおおおおおおッ!」
獣のように叫んで肉迫する。
その巨躯から繰り出される突進によって、アインの体が大きく飛ばされた。
近くにあった建物に衝突し、降り注ぐ瓦礫の餌食となる。
やりすぎたかとマシブが駆け寄ろうとするが、魔力の高まりを感じて足を止める。
直後、瓦礫の山を中心に爆発が起きる。
立ち込める煙の中に人影を見つけた時、マシブは再び戦闘態勢を取った。
この程度で倒れるほどアインの精神は柔ではない。
気を失うまで戦わなければ黒鎖魔紋の支配から助け出すことは出来ない。
しかし――。
「ぐッ、こいつは……」
押し潰されるような重圧。
それは、赤竜の王の魂を喰らったからこそ成せる技。
重力魔法によってマシブの体の自由が奪われる。
膝を突くも、全力で抗おうとする。
灼鬼纏転を限界まで高めて再び立ち上がろうとして――今度は地面に這い蹲る。
黒鎖魔紋の力を重力魔法に注ぎ込んでいるのだ。
これを耐えきることなど不可能に等しい。
顔を上げれば、マシブを見下ろすようにアインが立っていた。
首筋に冷やりとした物が触れる。
それが槍だと気付いた時、マシブは死を覚悟する。
もしここで朽ち果てたとしても、アインの糧となるのであれば。
そんな歪んだ考えを持ってしまうのは、これまでの過酷な旅路のせいだろうか。
マシブはそんな末路も悪くはないと目を閉じる。
だが、何時まで経ってもその時は訪れない。
恐る恐る目を開けてみれば、突き付けられた槍の穂先が震えていることに気付く。
「アイン……?」
理性が戻ろうとしているのか。
微かな期待と共に、マシブは声をかける。
「覚えてるか? 初めて会った時も、こんな感じに這い蹲らされたよな。ほら、ギルドで声をかけた時だ」
アインがシュミットの街の冒険者ギルドを訪れた時、マシブに声を掛けられたのだ。
ナンパの結果は情けないものだったが、彼は今でもその時のことを覚えている。
「その時、お前に酷い言葉を投げかけられたよな。なんだったか……」
「……そんなに寝たいなら、代わりに地面を紹介してあげる」
「ああ、それだ」
体に掛かる重圧が消えると、マシブは安堵したように息を吐き出す。
同時にアインが力を失ったかのように地面に座り込んだ。
「大丈夫か?」
「マシブと比べれば、全然平気」
アインはマシブの体を指して言う。
地面から突き出る槍を強引に突破したせいで、彼の体は酷い状態だった。
「治癒魔法を覚えてて良かったぜ。命拾いした……ん?」
事態が収まったことを察したのか、建物の影からファーレンが出て来るところが見えた。
マシブは呆れたように溜息を吐く。
「ったく、使えねえジジイだぜ」
「おぬしらの厄介事に巻き込まれるのは御免でな」
ファーレンは首を振って拒否の意を示す。
いずれにせよ、彼がいたところで囮にしか使えないだろう。
信徒を三人も失ったはずだったが、ファーレンの顔に悲しみの色は窺えない。
彼からすれば、信徒たちは都合の良い手駒に過ぎないのだろう。
「治癒魔法くらいはやってくれねえと困るんだがな」
「仕方ない、その程度であれば任されよう」
ファーレンの治癒魔法で傷が癒えると、マシブは立ち上がって周囲を見回す。
派手に暴れたせいか、物音を聞きつけた死霊が集まってきているようだった。
「先を急ごうぜ。あんな奴らを相手にしてらんねえからな」
三人は死霊から逃れるように中央への道を急ぐ。




