120話 惨劇を嗤え
エルフ族の里は酷い惨状だった。
巨大な茨によって至る所が荒らされてしまい、元の美しい風景はそこにはない。
愛する伴侶を失い、獣のように慟哭する男。
もう帰ることのない母を、歪な面持ちで待ち続ける幼子。
茨に叩き潰されて原形を留めない小さな肉塊の傍では、焦点の合わぬ瞳で呆然と立ち尽くす女性がいた。
死とは斯くも無常なものなのか。
もはや見慣れてしまった惨状を前にして、アインは苛立ったように壁を殴り付ける。
邪教徒の襲撃はアインにとって脅威足りえなかったが、里に住まう人々を守り切ることは出来なかった。
他者の生死に関心が無い、というわけではない。
だが、死に行く者全てに目を向けることがどれほど負担になるのかを、アインはこれまでの旅で思い知っている。
いちいち背負っていたら、この過酷な運命を背負って生きることなど不可能だ。
未だ甘さを捨てきれていないのだろうか。
残酷に、狡猾に、非道の限りを尽くしてでも己が生き延びることを考える。
いっそ無辜の民さえ嗤って踏み躙れるような殺戮者になってしまえばいい。
それが出来れば、こうして苦悩する必要もなくなる。
その選択肢を許さないのは、平穏な日々を過ごしてきた過去の記憶。
長年普通の少女として生きてきたアインにとって、その幸せは忘れ難い大切なものだ。
手放せと言われて、容易く頷くことは出来ない。
しかし、何故だろう。
記憶に霞が掛かったかのように上手く思い出せない。
己の両親の名前さえ、口にすることが出来ないのだ。
その事実にアインは愕然とする。
何故、今までその事実に気付けなかったのか。
漠然と"幸せだった"ということしか覚えておらず、その光景は酷くぼやけてしまっている。
ふと、崩れた民家の中に鏡を見つける。
ひび割れた鏡面に映った自分は、無垢な少女などでは決してない。
右腕を失い、代わりに物々しい形をした義手が付いている。
その顔つきは歴戦の戦士のようでもあり、残虐な殺人鬼のようでもある。
服を捲り上げると、胸元には禍々しく脈動する黒鎖魔紋が在った。
何よりも、自分の瞳が恐ろしい。
鏡に映ったアインの顔は、悍ましい狂気を孕んでいる。
里の惨状に胸を痛めていると思っていたが、その口元は弧を描いていた。
愉しいのだ。
どうしようもなく心が躍ってしまう。
戦場に響く無数の断末魔が、肉を喰らい酒を呑む時のような充足感を与えてくれる。
愛する者の死を嘆く人々の声が、甘い菓子を食べている時のような幸福感を与えてくれる。
その度に、己が生きる場所が此処なのだと否定しようのない事実を突きつけられてしまうのだ。
もはや黒鎖魔紋の存在は関係ない。
己の本質を理解しているからこそ、狂気を引き出すことに魔紋の解放は必要ないのだ。
今もなお、返り血の暖かさが恋しくてたまらない。
気晴らしに里を歩いていると、地面に横たわるマシブを見つける。
一瞬死を幻視したが、彼はアインに気付くと何事も無く起き上がってきた。
「里の襲撃は終わったみてえだな」
マシブは少しよろめきつつ、どうにか倒れずに踏ん張る。
未だ灼鬼纏転による痛みが酷いようだった。
満身創痍といった様子だったが、どこか以前の彼よりも力強く見えた。
「……マシブは、この惨状をどう思う?」
「酷えもんだよな。教団ってのは、戦う気のない奴まで襲ってやがる」
家の中で怯えていた者たちさえ邪教徒たちは容赦なく殺していた。
何が彼らをそうまでさせるのか、マシブには理解できない。
だが、とマシブは続ける。
「ざまあねえよな、死んだ連中は。くたばっちまったのは同情するが、そいつらには身を守るために力が無かっただけだ。涙を流してやるほど、俺はお人好しじゃねえ」
強者が弱者を守る義務など無い。
死んでしまったのは、ただ彼ら彼女らが無力だっただけ。
犠牲になった皆の死を弔うことは、前へ進む自分の足枷にしかならない。
そう考えられるのはマシブが非情だからだろうか。
それともアインが甘さを捨てきれていないせいだろうか。
この惨劇を見て心を痛めない者は根っからの悪人、あるいは狂人くらいだろう。
そして、黒鎖魔紋を与えられた時点でアインにはそうなるだけの資格がある。
いずれは嬉々として罪のない人々を殺めるようになるのかもしれない。
「……そう」
少し考えてから、納得したように頷く。
この過酷な道を進んでいくにはマシブのような考え方が必要だ。
でなければ、道半ばにして倒れてしまうだろう。
だが、果たして道の先に何が待っているのだろうか。
歩み続けた先に己の求めるような結末があるとも限らない。
何も見えないまま、暗闇を歩き続けているような感覚だった。
「あの女の言葉を気にしてんのか」
マシブはこの森に来た時のことを思い出す。
二人に接触してきた存在――六転翼の『第一翼』オルティシア。
彼女の言葉は、彼にとっても聞き逃せないものだった。
「"死を恐れるならば、死を齎せ。生き永らえたいならば、生を奪え"ってんだ。単純な事だろうよ」
「罪の無い人を殺めたとしても?」
「構わねえよ。俺は、お前に付いて行くと決めた時から覚悟は出来てるぜ」
アインは他者の魂を糧とする。
それは比喩でも何でもなく、純粋に殺めた分だけ力が高まるのだ。
今でも十分すぎるほどの速度で成長しているが、これでも甘いのだとオルティシアは言う。
であれば、無慈悲な殺戮者になる他ない。
多くの命を喰らうことでアインが生き永らえるならば、マシブはそれで構わないと思っていた。
「私は――」
言葉にしようとした時、里の方から駆けてくる気配に気付く。
振り返ると、そこには酷く慌てた様子のレスターがいた。
「た、大変です! ミレシア様が、ミレシア様がっ!」
「少し落ち着いて」
アインが宥めるとレスターは荒い呼吸を整えようと深呼吸を始めた。
彼の様子から、二人はただ事ではないのだろうと察する。
少しして、レスターが落ち着きを取り戻す。
「それで、ミレシアがどうしたの?」
「ミレシア様が……邪教徒に、連れ去られてしまいました……」
それを聞いて、二人はこの戦いに敗北したことを悟る。




