108話 焦燥に駆られる
その日の夜、寝付けずにいたマシブは家の外に出て鍛錬を行っていた。
未だに足りぬ己の力。
焦燥が、休息の時間さえも取り去っていく。
闇の中で彼の荒い息と剣を振るう音だけが響いていた。
何度も、何度も繰り返す。
鬼気迫る表情で剣を振るう姿は悪鬼の如く。
そこに敵はいないというのに、強烈な殺気を滾らせて剣を振るい続ける。
今のマシブは弱者ではない。
冒険者として二つ名を持つまでに至った、ごく一握りの人間だ。
大陸各地を探しても、彼に匹敵するほどの剣士はそういないだろう。
だが、それは人間の範疇での話だ。
獣人やエルフといった才覚に恵まれた種族。
強大な力と知性を兼ね備えた魔物。
そして、人ならざる者から加護を授けられた存在。
彼の知る強者の領域は、あまりにも遠い場所にあった。
一体どれだけの鍛錬を積めば到達できるというのか。
あるいは、常人では至れないというのか。
このままでは死ぬ。
圧倒的な力を前にして、成す術なく弄ばれて死ぬ。
怒りに血が滲むほど拳を強く握りしめ、悔しさに打ち震えながら死んでしまう。
そんな未来は到底受け入れられない。
だが、それを覆すだけの力も無い。
なればこそ、一心不乱に剣を振るい続けるしかない。
しかし、その先に道は見えない。
「ちっ……」
力を得るために、どれだけのものを切り捨てて来ただろうか。
シュミットの街でアインと別れてから、彼は過酷な道を歩んできた。
他者に対する情けも捨てて、必要であれば善人でさえ平然と犠牲にしてきた。
だが、違ったのだ。
赤竜の渓谷でアインと再会した時、マシブは己の甘さを悟った。
アインは他者に対して酷く冷たい目をしていた。
他人の生死に対して無感情だった。
そして、殺める時にのみ楽しげに嗤うのだ。
本来は悍ましいと思うのが正しい反応なのだろう。
アインは戦闘狂よりも質が悪い。
殺戮に快楽を見出す残酷な悪魔なのだ。
しかし、何故だかマシブは彼女の姿に惹かれた。
血溜まりの中で一人、恍惚と笑みを浮かべるアインを見て、むしろ美しいとさえ感じていた。
エルフの里を襲撃している邪教徒たちのように、いつの世にも悪しき存在を崇める者は現れる。
それが正しくないことであっても、彼らは盲目的に心棒してしまうのだ。
マシブもまた、自分が彼らと変わらないのだと感じていた。
だが、今のマシブはアインほど非常になれない。
賊の類を殺めることを苦とは思わないが、そこに快楽を見出すことは出来ない。
未だ人間の範疇から抜け出せずにいるのだ。
そこに違いがあるのだろうか。
あるいは、彼では辿り着けない領域なのかもしれない。
黒鎖魔紋を持つ者と持たぬ者には、埋め難い差が存在している。
常人でも強大な力を得る手段は存在している。
ミレシアのように魔術に長けていれば、単なる身体強化を奥義まで昇華させることが可能だ。
そして、マシブは彼女の扱う奥義の正体を漠然とだが把握できていた。
身体強化には限界点が存在する。
それは、注ぎ込まれる魔力に肉体が耐えられなくなって壊れ始める点だ。
戦士であれば誰もが把握しているであろう点であり、マシブ自身も身体強化の際には限界点のギリギリまで高めている。
彼の扱う奥義『灼化』とは、魔力を変質させることによって肉体への負担を減らし、より限界点を高いところまでずらす、というものだ。
これによって竜とも互角に渡り合えるほどの腕力を手に入れたが、それでもミレシアの『瞬魔』を前にして敗れてしまった。
ミレシアの『瞬魔』は治癒魔術によって限界点を越えた身体強化を可能とさせる。
肉体の崩壊を治癒魔術によって繋ぎ止め、魔力のある限り力を高めていく。
その奥義は、少し間違えれば己が傷付くことになるだろう。
肉体への負荷も大きく、用いる魔力量からして多用できる技ではないのは確かだ。
場合によっては、己の寿命さえ縮んでしまうかもしれない。
「……」
マシブは自分の右腕にナイフで浅く傷を付ける。
そして、体内に流れる魔力に意識を集中させていく。
治癒魔術さえ習得できれば『灼化』よりも上の段階へと進むことが出来るのだ。
黒鎖魔紋を持つ者を相手にしても、良い戦いを出来るかもしれない。
一縷の望みを抱いて、マシブは己の右腕の傷を癒そうとする。
しかし――。
「なんで、使えねえんだよ……」
怪我を癒す治癒魔術は、はたして大陸内にどれだけ扱える者がいるだろうか。
高名な神官や治癒術師であれば満足に扱えるのかもしれないが、彼らはそれを扱うために鍛錬を積んできた。
剣士であるマシブが一朝一夕で使えるほど甘いものではない。
マシブは唇を噛み締める。
今の彼には、無意味に剣を振るうくらいしか出来なかった。
いつまでも外に出ていては夜が明けてしまうだろう。
マシブは腕の傷口から流れる血を拭うと、家の中へと戻って僅かな休息を取る。




