100話 襲撃者
エルフ族の里が存在するのは広大な森林地帯の中である。
大陸で最も広いとされるこの場所は、通称"迷い人の森"と呼ばれるほど。
その日の天候によっては霧が視界を奪い、旅人たちを夢幻の迷宮へと誘うのだ。
「こりゃあ、完全に迷っちまったな」
地図を眺めながら、マシブが頭を抱える。
深い霧の中では視界が酷く悪い。
何らかの魔術的な効果もあるのか、彼の持つコンパスも狂ったように回転を続けていた。
オルティアナとの邂逅から随分と時間が経っていた。
背丈の高い樹木のせいで空は見えないが、体感的には昼くらいだろうか。
一向に目的地に辿り着けそうになく、マシブはため息を吐いた。
「ここまで歩いて引き返すってのもなあ――とッ!」
マシブは振り返りざまに背中から剣を引き抜くと、背後から迫ってきた魔物を叩き切る。
頭部を潰された魔物は、力無く地に転がった。
魔物はホーンウルフの亜種のようだった。
過酷なこの地で鍛え上げられ、独自の進化を果たしたのだろう。
その瞳には魔物らしからぬ知性の色が窺えた。
「……マシブ」
「ああ、分かってる」
霧に紛れて気配を隠しているのだろう。
微かな森のざわめきだけが、魔物の襲撃を知らせていた。
迷い人の森は深部に進めば進むほど濃密な魔力が漂う。
特にエルフ族の里周辺は魔力が濃く、それ故に強大な力を持つ魔物も多く生息している。
ビリビリと鋭い殺気を肌に感じながら、アインとマシブは周囲を警戒する。
「――ッ!」
霧の中から飛び出してきたホーンウルフがアインに襲い掛かる。
一匹だけではない。
左右から翻弄するように二匹のホーンウルフが飛び出してきていた。
アインは間合いを量りつつ後ろに下がる。
濃い霧の漂うこの場所では、敵との距離が把握しにくい。
短剣を逆手に持ち、アインは右側から迫るホーンウルフへと駆け出す。
真正面からぶつかる寸前のところで僅かに身を捻ると、すれ違いざまに喉元に刃を突き立てた。
休む間もなく、背後からもう一匹のホーンウルフが迫る。
アインは短剣を引き抜くと、足元目掛けて投擲した。
だが、ホーンウルフは跳躍することでそれを躱し、鋭く尖った角をアイン目掛けて突き出す。
それを見て、アインは左手を前に突き出して身構える。
突き出された角に手を添えて受け流すと、無防備になったホーンウルフの腹部を蹴り上げる。
宙に跳ね上がったホーンウルフが落下してくると、それを霧の奥へと蹴り飛ばした。
アインは挑発するように笑みを浮かべる。
この程度の魔物が集まったところで、今の自分には脅威足りえない。
広大な森で迷っている状況を考えると、むしろ食糧が確保できるため歓迎だった。
「ったく、キリがねえな」
襲い掛かってきたホーンウルフを叩き切り、マシブが愚痴る。
未だに多くの魔物の気配が周囲にあった。
体力も魔力もあまり消耗していないが、それでも戦い続けるとなると精神面での疲労が出て来るだろう。
しかし――。
「おいおい、なんだってんだ?」
森の奥から口笛が聞こえてきた。
すると、それに従うようにホーンウルフたちが去っていく。
まるで何者かに差し向けられたかのようだった。
少しして、霧の中から人影が見えてきた。
それを見てマシブは驚いたように目を丸くする。
そこにいたのはエルフ族の男性だった。
「お前たちは何者だ」
エルフ族の男性が問う。
弓に矢を番えた状態で、警戒した様子で二人のことを見つめていた。
「何者ってんなら、そっちが先に答えろ。今の襲撃は何だ?」
マシブは殺気を隠す事無く問う。
返答次第では即座に目の前のエルフの首を切り落とす。
強烈な殺気に当てられ、エルフ族の男性は後ずさる。
「……里で手懐けたホーンウルフだ。見回りの最中に貴様らを見つけたから襲撃したまでだ」
「ああ? エルフ族は排他的な種族だとは聞いていたが、ここまで酷いのかよ」
マシブが呆れたように肩を竦める。
エルフ族は他の種族との関わりを基本的に持とうとしない。
そのため、このような森の奥深くで暮らしているのだ。
エルフ族の男性とマシブが相対している中、アインは周囲に他の気配があることに気付く。
微かな風音が聞こえ、アインは地を蹴って駆け出す。
「――ッ!?」
エルフ族の男性は愕然とした表情で固まっていた。
彼の目の前で、アインが森の中から飛来した矢を受け止めたからだ。
それを見て、マシブも驚いたように矢を見つめる。
狙われていたのはアインでもマシブでもなく、エルフ族の男性だった。
だが、射手が間違えたというわけでもない。
放たれた矢は、アインが受け止めなければエルフ族の男性の頭部を捉えていただろう。
「どうなってんだ?」
マシブが首を傾げる。
エルフ族の男性の向ける警戒は矢の飛来してきた方向へ移っていた。
何らかの事情があるのだろうが、それを察するにはあまりにも情報が少なすぎる。
しかし、アインは迷うことなく森の方へ駆け出していく。
追いかけようかと悩んだマシブだったが、エルフ族の男性を放っておくわけにもいかないだろう。
アインが駆けて行った方向を見つめ、じっと待つ。
少しして、アインが何かを引きずりながら戻ってきた。
それは黒装束の男だった。
その背にはボウガンが掛けられており、先ほどの矢は彼が放ったものだと分かる。
「あなたの目当てはこれ?」
アインはエルフ族の男性の前に死体を投げる。
彼はしばらく驚いた様子で見つめていたが、少ししてアイン達に向き直った。
「……すみませんでした。最近、怪しげな連中が里を狙っていまして。あなたたちが連中の仲間だと思ってしまったんです」
先ほどとは一変して丁寧な言葉遣いの彼を見て、マシブは驚いたように見つめる。
エルフ族は排他的でなく、高慢で他種族を見下すことでも有名だ。
そんなエルフ族の男性が自分たちに頭を下げているのが意外だった。
「こっちに被害は無かったから構わねえけどよ。こいつは一体どういうことなんだ?」
「説明しましょう。その黒装束の男は――」
エルフ族の男性が答える前に、アインは気付いてしまう。
その服に描かれた怪しげな紋章――黒鎖魔紋の存在に。
「――邪教徒」
黒鎖魔紋を持つ者のことではない。
邪悪な神を崇め奉る狂った集団。
正真正銘、本物の邪教徒だった。
「知っていらっしゃるのでしたら、話が早いです。我々の里は今、邪教徒の襲撃を受けています」
武具を仕立てに立ち寄るだけだったはずが、思わぬ面倒ごとに遭遇してしまった。
関わるのであれば、多くの血を見ることになるだろう。
アインは新たな楽しみが増え、目を輝かせた。