1話 平凡な村娘
心地よい浮遊感を感じていた。
まるで空を飛ぶ鳥のように、不思議な解放感を味わっていた。
少女は夢心地で。
おぼろげな意識の中。
薄らと開いた瞳に写ったのは。
――赤黒い雫。
途端に意識が覚醒する。
見渡してみれば、あたり一面の暗闇。
少女の白い肌に纏わり付くように黒い霞が漂っていた。
噎せ返るような鉄の臭いが少女の精神を蝕む。
憎い、全てが憎い。
激情が、濁流のように押し寄せる。
火照る体。熱い、焼け爛れてしまいそうなほどに熱い。
魂を搔き毟りたくなるような苦しさ。
その体を冷やすのは、ぽたぽたと雨のように降る液体。
――赤黒い雫。
意識の外に追いやろうとしていた。
その雫は、いったいどこから降ってきているのだろうか。
そんな好奇心を抑え込んで、少女はじっと下だけを見続けていた。
見てはいけない気がした。
決して見てはならないと。そうしなければ絶対に後悔すると。
だというのに、なぜだろう。
少女の意識に反して、その視線は徐々に上に持ち上げられていく。
まるで何者かに操られているかのように。
「うぁ……」
呻くような声が漏れた。
見てしまったのだ。
赤黒い雫を流し続ける存在を。
その存在は、折れた漆黒の翼を愛おしそうに抱えていた。
涙を流しながら少女に微笑んでいた。
赤黒い雫は涙だった。
憎悪に濁った瞳から、とめどなく血の涙が流れ続けていた。
ソレから溢れ出した血の涙が、気づけば鎖となって少女の身体を縛っていた。
そして、その存在は少女に囁いた。
『――汝の行く道に祝福あれ』
その声と同時に、少女は胸の違和感に気づく。
漆黒の槍が少女の心臓を貫いていた。
全身を駆け巡る激痛。しかし、なぜだろう。
――その痛みが、堪らなく愛おしい。
◆◇◆◇◆
窓から差し込む日差しでアインは目を覚ます。
体を起こしてみれば、汗だくの寝間着がぺったりと肌にひっついていた。
「目覚め悪いなあ、もう」
酷く悪夢にうなされていたような気がしたが、しかし、その内容はすっかりと記憶から抜け落ちていた。
特に気になるほどでもなかったため、アインは寝間着から着替えて部屋から出る。
リビングに入れば、食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。
たどってみれば、テーブルには半熟の目玉焼きやカリカリに焼いたベーコン、野菜を煮込んだスープ、焼き立てのパンが並んでいる。
「あらアイン、丁度起こしに行こうと思っていたところよ」
「おはよう、お母さん。なんだか目が覚めちゃって」
「珍しいこともあるものねえ。今日は不吉なことでも起きるんじゃないかしら?」
「もう、お母さんったら」
母親の冗談にため息を吐きつつ、アインは椅子に座る。
少しして、アインの父親が起きてきた。
「おはようアイン。珍しく早起きじゃないか」
「うん。なんだか目が覚めちゃって」
「早起き出来たのは良いことだよ。主はそういう些細なところまで見ておられるからね」
アインの父親は椅子に座ると、手を合わせて神に祈りを捧げる。
信心深い彼は、こうして毎朝欠かさずに祈りを捧げていた。
母親が席に座ると、三人で改めて神に祈りを捧げる。
この世界では一般的な家族の光景だった。
美味しそうにパンを頬張っているアインに、父親がそういえば、と口を開いた。
「最近周辺の村で魔物の被害が酷いそうだ。つい先日も隣の村がオークの群れに襲撃されたらしい」
「オークが? この近辺に巣があるなんて聞いたことないけど」
「きっとどこからか移ってきたんだろう。普通のオークよりも凶暴で、村の自警団ではどうしようもなかったらしい」
父親の表情からアインは事の深刻さを察する。
おそらくは隣の村で酷い被害が出たであろうことも。
しかし、父親は首を振った。
「被害の方はそこまで酷くはなかったらしい。偶然近くを通りがかった教皇庁の方々がオークを撃退したそうだ」
「そうなんだ。でも、なんで教皇庁の人たちがこんなところに?」
「詳しい話は分からない。けれど、聞いた話だと邪教徒を追っているらしい」
「邪教徒……?」
「そう。悪しき神々を崇める危険な輩だ。まだこの近辺に潜んでいるらしいから、アインも気を付けるんだよ」
――悪しき神々。
その言葉を聞いた時、なぜだかアインの心臓がドクリと脈動した。
理由はわからない。しかし、その魂に刻み込まれた得体のしれない何かが反応していた。
「アイン? どうかしたのかい?」
「……えっ? う、ううん。ちょっと寝ぼけてただけ」
「それならいいけれど。とにかく、アインも気を付けるんだよ」
父親の真剣な表情に、アインは素直に頷く。
なぜだか、朝からずっと胸騒ぎが止まないでいた。
朝食を終えると、アインは両親と共に家を出て教会へ向かう。
彼女自身は特に熱心な信徒というわけではなく、神を心から信仰しているということはない。
ただ、この村では皆が毎朝の祈りに参加し、アインもそれに倣っているだけの事。
そんなアインだったが、この日ばかりは普段とは違った。
「――ッ!」
教会に足を踏み入れた途端、ピリピリとした変な痛みを感じた。
体中から力が抜けていくような感覚。
手足にうまく力が入らない。
魔物などが神聖な場所に足を踏み入れると似たような状態になる、というのはアインも知っていた。
しかし彼女は魔物ではなく、まして魔族でもない。普通の人間のはずだった。
だというのに、アインは明らかにその影響を受けている。
自分は人間だ。悪しき存在ではない。昨日までは普通に教会に入れていたはずだ。
熱心ではないにせよ毎朝の祈りにも参加しているし、神を冒涜するような発言など一度もしたことがない。
ならばなぜ、自分は痛みを感じるのか。今起こっていることをどう説明すればいいのか。
まるで自分が変わってしまったかのような、そんな違和感があった。
そしてまた、長居することが危険だということをアインの勘が訴えていた。
「アイン、顔色が随分と悪いようだけれど」
顔色の悪いアインを見て、父親が心配そうに尋ねる。
今の彼女は、端から見ても明らかに体調が悪そうだった。
「少し気分が悪いから、川に行って休んでくるね」
「ああ、そうしなさい。一人で大丈夫かい?」
「ありがとう。大丈夫」
アインは自身の状態を悟られないように誤魔化しつつ教会の外へ出た。
途端にピリピリとした痛みを感じなくなり、アインは愕然とする。
自分は人間ではなくなってしまったのか。
もともと人間ではなかったのか。
教会に足を踏み入れられないという事実が、彼女が悪しき存在であると突き付けていた。
川に着く頃には体の調子もすっかりと良くなっていた。
先ほどまでは手足に上手く力が入らなかったが、今は普段通りに動かせるようになっている。
気分転換に少し体を動かそうと考え、アインは川の近くにある小屋に立ち寄った。
そこは村の自警団の訓練場だった。
今は朝の礼拝で無人だったため、アインは立てかけてある槍を一本手に取って外に戻る。
川辺の足場が安定しているところに移動すると、静かに槍を構えた。
一つ一つ、丁寧に槍術の型を倣っていく。
流れるような動きで、自身を中心に円を描くように槍を振り回す。
身を守ることに重きを置いたこの槍術を、アインは正確に扱うことが出来ていた。
おそらく、村の自警団の中でアインと槍術の試合を行って勝てる者はいないだろう。
それほどまでにアインには槍の才があった。
村周辺の魔物程度ならば一人でも戦える程度には実力があった。
しかし、アインには致命的な欠点があった。
彼女は戦士ではない。槍を上手く扱えるだけの、ただの村娘だ。
ただの村娘には、槍の才を十分に発揮できるほどの魔力がなかった。
故に、純粋な技術だけの試合ならば勝てるとしても、実戦で魔力を用いるとなると途端に劣ってしまう。
それを埋めるための努力はしているものの、力の有る者と無い者の差は到底埋められるものではなかった。
だが、アインはそれを苦に思ったことはなかった。
彼女は戦士ではない。冒険者になるというわけでもない。
辺境の村で農業をして生きていくために、御伽噺に出てくる英雄たちのような強大な力など必要ないからだ。
あくまで自衛のため。
村周辺の魔物を相手に一人でも戦えるのだから、それ以上を望むことはない。
これまでのアインはそうだった。
ふと、違和感に気付いて槍を降ろした。
森がいつもより騒がしい。ざわざわと、焦燥を感じさせるようにざわめいている。
木々の間を吹き抜ける風も、普段のような爽やかさを感じさせない。
この胸騒ぎは何だろう。
そう思った直後――村の方角から悲鳴が聞こえた。