第5話 美咲希と尚希
鍵であるボタンを押し、カチリという音を確認すると重い扉を開け、中に入る。その瞬間、美咲希は普段と様子が違うことを感じ取った。いつもならば、駆け足気味に尚希がやってきて温かい笑みと共に「おかえり」と言ってくれる。しかし、今日はその尚希がいない。家はしんと静まりかえっている。こんなことは一ヶ月半ぶりだ。そんな懐かしさに寂しさを覚える。
スリッパに履き替えて、手洗いうがいを済ませた後、階段へ上がり白いブラウスと青いスカートに着替える。夕食前には帰ってくるだろうと期待しながらも二度と帰ってはこないのではないかという不安が襲いかかる。そう考えただけで、涙が自然と溢れ落ちた。
「……あれ、どうして……どうして、こんなに……」
涙を袖で拭っても拭っても止めることができなかった。
目覚まし時計のベル音がどこかで鳴り響いている。音の元を闇の中で探す。見つけるとバシリと叩いた。モゾリと身体を動かす。時計を確認する頃には短針は四の数字を指していた。鏡に映った自分を見つめる。そこで、ようやく状況を把握した。ボサボサの髪、パジャマ姿ではない服装、赤い瞼。泣き疲れて、少し眠ろうとしてぐっすりと朝まで寝てしまったという所だろう。目覚まし時計はきっと寝る前に午後四時設定にしたところ、鳴り続けていたのに目を覚まさなかったといった所か。上半身を起こし、精一杯伸びをする。そして、ベッドを降り、自室を出た。
いつも尚希は兄の部屋で寝ている。兄の部屋は美咲希の部屋の向かい側にある。兄がいた頃はよく部屋に遊びに行ったものだ。しかし、尚希が来てからは入らなくなった。やはり赤の他人だ。そのためか、なんとなく憚りがあった。ドアの前に立ち、深呼吸を三回する。そして、ノックを三回。反応がない。恐る恐るドアノブに手をかけて、押してみる。ドアはなんの抵抗もなく開かれた。そっと覗く。すると、ベッドには紺のジャケットを着たまま小さくなって寝ている尚希の姿があった。気持ちよさそうに寝息を立てている。その姿に思わず胸を撫で下ろした。それと同時に胸がトクントクンと鳴っているのに気づく。胸に手を当てると、普段より速くなっている。そっと尚希の髪に触れる。少しパリっと固まっている。黒っぽい粉が指に着く。指の匂いを嗅ぐと鉄臭い。血が付着したのだろう。次に皺くちゃになった紺のジャケットを脱がせるため、襟に手をかけたが白っぽいシャツにべったりと血液が付着しているのに気づき、手を止める。そして、ベッドに腰掛ける。ギシリと鳴った。尚希の頬に手を乗せる。じんわりと温かさが広がる。昨夜、尚希は誰か殺したのだろう。もしかしたら、またその人を食べたかもしれない。だけど、それでも美咲希は尚希を憎めなかった。美咲希は尚希から大切な何かを貰った。それが何かはわからない。ただ、ひとつ言えることはーー
「……ありがとう」
そう呟き、美咲希は優しく頬に唇を落とした。尚希がゆっくりと瞼を開ける。
「美咲……希?」
美咲希は顔を勢いよく上げた。
「もしかして……起きてた?」
顔を紅潮させる美咲希の腕をぐいと引き寄せ、美咲希の両手首を掴んだ状態で押し倒す。美咲希は抵抗せずされるがままになっていた。そんな美咲希を尚希がじっと見つめる。
「美咲希?」
「なに?」
「頬にキスしたの、初めて?」
「初めて」
「他の男には?」
「ない。全然ない」
尚希は美咲希の唇に自らの唇を重ねる。それを何度か繰り返す。そして、耳元で囁く。
「こういうキスは?」
美咲希は顔色ひとつ変えずに答える。
「初めて。今のがファーストキス」
「じゃあ、口開けて」
すると、尚希は舌を入れる。突然のことに美咲希は目をパチクリとさせる。しかし、どうすることできないため、全てを委ねることにした。尚希は舌で美咲希の口腔を撫でるように動かす。美咲希は意識が蕩けてぼんやりとし始めた。しばらく続くと、尚希がつぅと糸を引かせながら離した。
「……こういうキスは?」
息絶え絶えになっている美咲希は酸素を取り込もうと必死に呼吸を繰り返す。
「は、初め……て」
美咲希の左手首を解放すると尚希はそのまま美咲希の白いブラウスのボタンに手をかけ、丁寧に外していく。
「こういうことも?」
「初めて」
解放された左手で火照った顔を隠す。上半身を脱がされたのだろう。つつつと指が肌の上を滑るのがわかる。
「肌を見せたことは?」
「誰にも、ない。初めて」
「美咲希?」
その呼びかけに美咲希は左手を退かす。馬乗りになっている尚希は喉を鳴らしながら、美咲希の腹部を見つめている。
「腹が減って腹が減って仕方ないんだ。いつもならこんなに減らないのに…。やっぱり、君じゃなきゃダメなのかな?」
そんな尚希の姿に美咲希は優しく微笑む。
「だったら、尚希は私のこと好きってこと?」
「……多分」
尚希は美咲希の白い腹部に唇を落とす。そして、何度も甘噛みを繰り返す。
「私もよ。私も好き。大好き。愛してる」
「僕もだ。僕も愛してる。だからさ…」
腹部にさらに深く口づけした。
「僕とひとつになってよ」
勢いよく噛み付く。あまりの激痛に腰を浮かせ、仰け反る。涙がほろほろと溢れる。
「……い、痛い……」
「ひとつになりたい。愛してるんだ。だから、だから……だからっ!!」
尚希の頬に美咲希の手がそっと触れる。
「ずっとずっと側にいてあげる。ひとりになんかしないよ。だけど、まだ食べちゃダメ」
尚希の頬に温かいものが伝う。
「私のこと、嚙みつこうがなにしようが構わない。でもね、まだ死ねないの。死にきれないの、このままじゃ。だから、待って」
美咲希はそう言うと、上半身を起こし尚希を強く抱きしめる。尚希も抱きしめ返す。
「ずっとずっと一緒にいよう、ね」
美咲希のその言葉が聞こえると尚希は泥のように崩れた。