98.浮かれる彼女にスコールを
アンタレス国が所有する大型の船舶。港に泊まっているその船の甲板に、焼き付けるような日が差している。
これでもかというくらいに晴れている空を、シェリルは甲板で一人、ぼんやりと見上げていた。足音が聞こえてきたので振り返ると、調子の悪そうなニックがふらふらとこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
「こんなところで日に当たってたら蒸発するよ」
船縁に倒れ込みながら、ニックが力無く呟く。
「自分が蒸発するリスクをおかしてまで忠告に来てくれてありがとう」
「違う。医者を紹介して欲しいんだ。誰か腕のいい奴知らない? 出港準備が整うのが明日だから今日中に診てもらえる所がいいんだけど」
ニックは暑さにとても弱いらしい。昨日、スプリング家の居場所を探すために外を歩き回って、すっかり体調を崩してしまったのだそうだ。
「もちろんいいけど、腕のいい医者は高くつくわよ。それでも大丈夫?」
「それじゃあジェイミーの財布を借りてきてくれよ。お礼はするから。ジェイミーが」
何をどこから指摘すればいいのか。シェリルは呆れた気持ちを隠さず、虚ろな目をニックに向ける。
「嫌よ。そんなの、自分で借りればいいじゃない」
「あー、痛い。石で殴られたみたいに頭が痛い」
「分かったわよ! 借りてくればいいんでしょう、借りてくれば!」
顔色は悪いが表情は満足げなニックは、人の悪い笑みを浮かべながらシェリルの顔を覗き込んできた。
「昨日からあいつのこと避けてるだろ。落ち込んでて鬱陶しいから、話しかけてやってよ」
「別に、避けてなんか……」
明らかな嘘は、ニックには通用しなかった。
昨日、旅支度の最中、アメリアとダミアンにとことん諭されたのだ。
ジェイミーは本当に親切な人なのかもしれないが、だからといって付け入られてはいけない。口説かれても本気にするな。好きだと言われても信じるな。ウィレット家のいざこざを解決しても、このままずっと一緒にいたいと請われるかもしれない。それはローリーの策略であってジェイミーの意思ではないから、断る自信がないのなら極力ジェイミーには近付くな。
シェリルは自分のことをよく理解していた。ジェイミーの願いならきっと、なんだって受け入れてしまうだろう。だから彼とは最低限しか言葉を交わさないと決めた。ジェイミーの家の問題を解決したあと、迷いなく仲間の元に帰ることが出来るように。
だからニックの頼みはシェリルにとって負担であった。そもそも、財布を借りるとは何だ。断られたらどうすればいいのか。
シェリルの心のわだかまりは、ジェイミーが今いる場所を聞いた瞬間、あっという間に空の彼方へ吹き飛んだ。
「港の市場を散策してくるって。一時間くらい前に船から出てった」
「なんですって?」
旅行者が溢れかえる港の市場。あそこはぼったくりの聖地である。価値のない商品を高額で客に売りつける専門家の巣窟だ。あの押しの強さに、あのジェイミーが対抗できるわけがない。シェリルはすぐさま、ジェイミーの救出に向かうべく市場へと向かった。
市場は普段と変わらずたくさんの人で賑わっている。人の波に流されながらも、シェリルは苦労してなんとかジェイミーのことを探し出した。偽の珊瑚を売り歩くことで有名な女に、銀貨を渡そうとしているところだった。
「ちょっと待って!」
すかさず二人の間に割り込む。勢い余ってジェイミーに激突してしまったが、彼は難なく受け止めてくれたので惨事はまぬがれた。
「シェリル? どうした、大丈夫か」
「ジェイミー、珊瑚を買うつもりならもっといい店を知ってるわ。こっちよ」
とにかくここを離れようとジェイミーの腕を引っ張る。するとシェリルの背後で、珊瑚もどきのブレスレットを腕にたくさんつけている女が声を上げた。
「ちょっと、客を横取りする気? 商売の邪魔をしたら許さないよ」
「知ってた? 偽物を本物だと言って売り付けるのは商売じゃなくて詐欺って言うんですって」
「奴隷の分際で偉そうなこと言ってんじゃないよ。ガキは引っ込んでな」
「引っ込まなかったらどうなるって言うのよ」
つかみ合いになりかけたところを、ジェイミーが慌てて止めた。だが止めるタイミングが悪すぎた。女が振り上げた拳が、ジェイミーの顎に勢いよく当たったのだ。
やばい、という顔をした女はくるりと踵を返す。
「あ、ちょっと……」
ジェイミーが顎を押さえながら声をかけるが、女は瞬く間に人混みの中に消えてしまった。ジェイミーの手には女が身に付けていたブレスレットがひとつ、握られている。
危機一髪だった。シェリルはやれやれと額の汗を拭う。
「それ、偽物よ。危ないところだったわね」
「ああ、うん……」
なんとも言えない顔で頷くジェイミー。
よくよく話を聞けば、偽の珊瑚で出来たブレスレットだということはちゃんと分かっていたらしい。あまりにしつこく売り付けてくるので、仕方なく代金を払おうとしていたのだそうだ。
なんと消極的な対処の仕方だろう。シェリルは一気に脱力する。
「そうだったの。余計なことしちゃった。ごめんなさい」
「いや、助かったよ。ありがとう」
ジェイミーは決まり悪そうに苦笑いした。会話が途切れ気まずい空気が流れる。昨日からお互いほとんど言葉を交わしていない。一ヵ月以上離れていたために、まるで赤の他人になってしまったようだった。
シェリルはとりあえず、ニックが財布を貸してくれと言っていることを伝えた。話を聞いてすぐ、ジェイミーは呆れきった様子でため息をついた。
「自業自得だな。暑さでバテてたのに、この国の酒場を制覇するとか言って朝まで飲み歩いてたから。つけが回ったんだろ」
それは確かに同情できない。しかし不調を押してまで人生を謳歌しようとするその心意気は、尊敬に値するかもしれない。
「二日酔いじゃ船旅は地獄ね。早く医者に連れていかなきゃ」
「衛生隊が同行してるんだから平気だよ。まぁ、どうせ旅の間じゅう文句を言われるはめになるから、一応連れていくけどさ」
ジェイミーはそう言って、シェリルの手を握った。そして当たり前というような顔をして歩きだすものだから、危うく何の疑問も持たず付いていきそうになった。
「ちょ、ちょっと、ジェイミー。そっちは港と逆方向だけど」
「いい店を知ってるんだろ? 案内してよ。本物の珊瑚を見る機会なんて滅多に無いし」
強引な口調ではなかったが、繋いだ手はとても力強かった。
「あの、それは……」
「だめかな」
こんな、懇願するような顔をされて、どうして断ることができようか。
シェリルは敗北を悟った。ローリーの策略に対抗する術はもうない。たとえどんなに理不尽なことを頼まれたって、ジェイミーに抗うことなど出来ないのだ。
雑踏を縫いながら、並んで歩く。シェリルは繋いだ手に意識を向けすぎて、適当なおしゃべりをする余裕を失っていた。はぐれないためなのだろうが、それ以上の意味があって欲しいと願わずにはいられない。アメリアとダミアンの忠告は頭の中から綺麗さっぱり抜け落ちている。
浮かれるシェリルに、頭を冷やせと天啓が下った。鼻の頭に水が一滴、ポツリと落ちる。
「雨?」
立ち止まって空を見上げたジェイミー。まさか、この時期に。そう言おうとして、シェリルは言葉を失った。あんなに青かった空が灰色の雲に覆われている。風が強くなり、どこからか雷の音が聞こえてきた。
何が起こるのか理解したときにはもう、手遅れだった。市場を行き交う人々めがけ、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。