94.ローリーvs.カルロ
――陛下の汗はバラの香りがするらしい――
この何の役に立つのかよく分からない謎の情報をシェリルに提供してくれたのは、使用人時代の先輩、アニーである。
シェリルは今、情報の真否を確かめられる距離でローリーと対峙している。しかし残念なことに、彼は少しも汗をかいていなかった。人口密度が増してリビングの気温が一気に上昇しているというのに。
本当にバラの香りがするのかどうかが気になって仕方がないシェリルの隣では、ダミアンがしきりにローリーとカルロを見比べていた。
「世の中って不公平ですね」
「異論は無いが、なぜ俺を見ながらそんなことを言うんだ」
ダミアンはカルロの問いを無視し、ぼんやりと美貌の王に見惚れている。同じようにぽうっとローリーに見とれているアメリアはため息混じりに呟いた。
「まさに芸術品ね。カルロさんと交換したい」
「なに言ってるんだ。カルロさんだってまるで芸術品だろう。心の目で見れば分かる。こっちを見なさいアメリア。アメリア? おーい」
カルロの呼び掛けは彼女の耳を通り抜けていくだけだった。現れて数分と経たずシェリルと双子の心を奪っていったローリーは、全く目を合わせようとしないカルロにまっすぐ視線を送っている。
「エリック国王を訪ねたとき、執政官が長時間私の相手をしてくれた。彼と話していて思ったんだが、この国はあなた方のことをあまり高く評価していないようだ。大抵の問題は奴隷を使い捨てることで解決出来る。だから王家の財産を食い潰すような組織は滅多に使い道がなく、持て余しているとか」
「遠回しな会話の進め方が名君と呼ばれる秘訣なのか? アンタレス国の味方につけという話になるまであと何時間かかるか事前に教えてくれると助かるんだが」
不機嫌を隠すことなくぶっきらぼうに吐き捨てるカルロ。ローリーは苦笑しつつ、小さく首をかたむけた。
「それで、答えは?」
「断る。残念ながら君の国には興味が無いんだ。悪いね」
予期していた答えだったのだろう。ローリーは表情を変えなかった。
「なぜ? 我が国には、アケルナー国には無い未来がある」
「君が国を仕切っているうちはそうだろうな。自分に何かあったとき情勢が不安定になると分かっているから、俺たちを味方につけておきたいんだ。そんな危なっかしい国に仕えるなんてごめんだよ」
「国をひとつ滅ぼしたこともある組織なんだろう。それだけの実力があるのなら情勢が揺らごうが痛くも痒くも無いんじゃないか?」
「ああいえばこう言うね。いいか、我々が君の誘いに乗らない理由は大きく分けて三つある」
すました顔で指を三本立てて見せたカルロに、シェリル、アメリア、ダミアンの三人はげんなりとした顔を向けた。
以前、『賢く見える話し方講習会』というものに参加したカルロは、何を話すにもポイントを三つに絞りたい病を発症したことがあるのだ。こうやって話を切り出すときは大抵、一つか二つしか話すことを考えていないのだが、なぜか三つの項目があると言いたがるのである。
ローリーは真剣な顔で話を聞く姿勢を見せている。カルロは賢く見えるように腕を組み、語りはじめた。
「第一に、スプリング家の全盛期はもうとっくに過ぎ去った。国を滅ぼしたのは三十年以上も前の話だ。だから仕える国の情勢は、今の俺たちにとっては重要だ。第二に、スプリング家とアンタレス国は根本的に相容れない。俺はこの子たちに、身の安全より目的を果たすことを優先するよう教えている。邪魔になれば仲間の命だって奪う。これはアンタレス国にとって受け入れがたい話だろう」
確かに、とシェリルは心の中で頷いた。
ローリーはとにかく、守ることに執着しているきらいがある。国を守るために存在しているはずの軍人でさえ、危険な場所に送り込みたがらない。戦わずして平和を保っていることは見事としか言いようがないが、目的のためなら犠牲をいとわないスプリング家とは、体質が合わないだろう。
シェリルがそんなことを考えている間に、リビングには沈黙が流れていた。真面目に話を聞いていたローリーが、わずかに眉をひそめる。
「それで、三つ目の理由は?」
「三つ目ね。三つ目はその、あれだよ。何だったかな?」
急にしどろもどろになるカルロ。わざとらしく思い出すふりをしたあと、何かひらめいたようで、拳でぽんと手のひらを打った。
「ああ、そうそう。民兵だよ。君は十六年前、国のために大勢の民兵を犠牲にしただろう」
カルロが持ち出した話題は、部屋を占領している護衛たちの動揺を誘った。
ローリーは特に表情を変えることなく綺麗に微笑んでいる。
「民兵を犠牲にしたから、何なのかな」
「今アンタレス国は微妙な状況だろう。シャウラ国とアケルナー国が手を組んで、いつ戦争がはじまるか分からない。だからまた失っても惜しくない駒が必要なんじゃないか? 俺たちを味方にしたいと言いながら、本当は使い捨ての兵士が欲しいだけということもあり得る」
「身の安全は二の次なのに、命は惜しいのか?」
「偉い学者風に言うと、確率の問題だよ。方針は変えずに、より生き残る可能性のある道を選んでる。つまり我々はアンタレス国に属せばあっという間に全滅するかもしれないが、アケルナー国なら生き残る可能性がある。俺たちが命をかける前に、奴隷や軍人が犠牲になってくれるからな」
なんとか三つの理由を捻りだし、矜持を守りきったカルロ。なぜかシェリルたちまでホッと息を吐き出した。
ローリーはカルロのことをじっと見つめたあと、シェリルの方に視線を移した。非の打ち所のない、サファイアをはめたような瞳で見つめられ、思わず全身に力が入る。
「君はどう思う?」
「え?」
「これからはジェイミーと敵同士だ。それでも平気かな」
返答に詰まってしまった。戸惑うシェリルを見てローリーは笑みを深める。
注意を引くためか、カルロが大げさに咳払いした。
「ローリー君。シェリルはスプリング家の中では床下を走り回るネズミよりも役に立たない下っ端だから、話しかけても時間の無駄だよ」
「そうは思わない。彼女は人身売買を防ぎ、ジェイミーの命を救ってくれた。勇敢な上に、交渉に利用するには最適な人材だ」
そう言ってローリーは唐突に、背後に控えているジェイミーの胸ぐらを掴んだ。
「え、ちょっと」
なんの前触れもなく首もとを掴まれ手前に引っ張られたジェイミーは、主君に抗うことが出来ずそのまま目の前のテーブルに突っ伏した。
瞬間、シェリルは勢いよく立ち上がった。体勢を立て直そうとしているジェイミーに向かって叫ぶ。
「だめ! ジェイミー!」
「動くなジェイミー!」
シェリルに続いて、ニックも声を上げる。
ジェイミーは二人の忠告を素直に守り、身を起こす寸前で動きを止めた。おかげで、背後に待ち構えていた鋭利な剣刃に首がぶつかるようなことはなかった。
「陛下、何を……」
上体を伏せたままのジェイミーは訳もわからず、硬直している。
音もなく一瞬で抜剣して見せたローリーは、髪の毛一本分の隙間があるかないかというくらいまでジェイミーのうしろ首に刃を近付けた。
「ちょっと、ジェイミーを殺す気? その物騒なものを今すぐどけてよ」
手が滑っただけでも大惨事だとシェリルが指摘すると、ローリーは腹が立つほど美しいしたり顔を向けてきた。
「選択肢は二つある。仲間を説得するか、あるいは、君だけこちら側に付いてくれてもいい。拒否すればどうなるかは、分かるだろう」
「冗談で言ってるのよね?」
「もちろん、本気だよ」
言いながら、ジェイミーのうしろ首にすっと刃を滑らせるローリー。よく研いであるらしい剣刃は、ジェイミーの肌に赤い筋を残した。
顔色を失うシェリルの隣で、カルロは机の上に積んである野菜を退屈そうに弄んでいた。
「シェリルを脅しても無駄だぞ。こいつが何を言ったところで、俺は考えを変えるつもりはないからな」
「では、彼女がこちら側に付くと言った場合どうなるのかな」
冗談じゃない、とシェリルは叫んでやりたかった。しかし、うっすら血を滲ませているジェイミーの姿を前に迂闊なことは口に出来ない。
「無理よ。組織を裏切ったりしたら、殺される」
正直に告げると、ローリーはすっと目を細めた。
「ひとつ、不思議でならない事がある。君はジェイミーの暗殺を妨害したのになぜ生きているんだ? 言っていただろう、邪魔になれば仲間の命だって奪うと。それが事実だとすれば、君がここにいるのは道理に合わない気がするが」
野菜を転がしていたカルロの手がピタリと止まった。ゆっくりと視線を上げ、ぎり、と歯ぎしりしながらローリーを睨み付ける。
「邪魔というほどではなかった。それだけだ」
「いや、違うな。殺せないんだ、彼女のことは。そうだろう?」
まるで急所でも押さえているみたいに、自信溢れる口ぶりだった。カルロは馬鹿馬鹿しいという風にはっと笑う。
「俺がシェリルを特別扱いしているとでも言うのか? まさか、シェリルを人質にして俺を脅そうなんて考えてないよな」
「我ながらいい作戦だ。どうする? そろそろくたびれてきた。うっかり手が滑ってしまうかもしれない」
恐ろしいことを言って、決断を迫るローリー。シェリルは首を縦にも横にも振れず固まる。
「シェリル、これははったりだ。ジェイミー君は大丈夫だから、相手にするな」
「でも、カルロさん……」
「また俺に逆らうつもりか? こいつが本気で臣下を手にかけると思うのか?」
ローリーの脅しははったりだと、割りきる度胸がシェリルには無かった。判断を誤ればジェイミーが血まみれになってしまう気がして、身動きひとつとれない。
「私が味方になると言ったら、ジェイミーを傷付けないと約束してくれるの?」
恐る恐る尋ねると、ローリーは「もちろん」と優しい声を出した。同時に、カルロ、アメリア、ダミアンの三人が深いため息をつく。
分かった。仲間になる。そんなような言葉をシェリルが発しようとした瞬間、地を這うほどに低い、カルロの声が響いた。
「よく考えろよ」
とっさに口をつぐみ、そろそろとカルロに目を向ける。てっきり睨み付けられているものと思ったが、カルロはシェリルではなく、ローリーに鋭い視線を送っていた。
「後悔することになるぞ。お前の目の前でシェリルの喉を切り裂いても、構わないのか?」
「そんなこと出来ないだろう。どういう事情があるのか知らないが、強がりを言うのはやめておけ」
ローリーは本気で、カルロがシェリルを殺すことはないと思っているようだった。
そのとき、上体を机に伏せたままのジェイミーが声を上げた。
「陛下、彼の言うことは本当です。こんなことは無意味です。どうか……」
「お前は黙っていなさい。不敬罪で投獄されたくはないだろう」
「しかし……」
「私を信じなさい。彼女は殺されたりはしない。絶対に」
カルロは眉間にシワを刻みながら、思い詰めた風に何かを考え込んでいる。しばらくして、重々しく口を開いた。
「ローリー君。君にチャンスをあげよう」
「チャンス?」
「そう。道を踏み外さないための、チャンスだ」
カルロはアメリアとダミアンに、順番に目配せした。二人はすぐさま立ち上がり、懐に手を入れる。アメリアはナイフを、ダミアンは鋏を取り出して、それぞれシェリルの近くに移動する。
部屋を占領する男たちが剣の柄に一斉に手をかけた。カルロは彼らに一切意識を向けず、ローリーの顔を覗き込んでいる。
「君が望む場所から切り取ってやろう。どこから始めようか?」
「時間稼ぎなど見苦しいだけだぞ」
「ああ、そうだな、髪がいい。痛くないし、肩慣らしだ」
言い終わるか終わらないかというタイミングで、ダミアンがシェリルの髪の毛を掴んだ。肩の上までバッサリと、鋏で躊躇なく切ってしまう。焦げ茶色の髪がパラパラと床に散らばった。
「おいおい……」
ニックがひきつった声を漏らす。
カルロは眉尻を下げ、再びローリーの目を覗き込んだ。
「あーあ、可哀想に。君のせいだよローリー君」
「時間稼ぎは見苦しいと言っただろう。とどめを刺すことなど出来ないと、認めたらどうだ?」
「頑固だね君も。次はどこがいい? おすすめは指だ。たくさんあるから一本くらい無くなっても困らない」
ローリーは険しい顔つきのまま沈黙している。カルロはつまらないという表情で、アメリアに言った。
「耳がいいそうだ」
最悪だ、とシェリルは内心悪態をつく。耳を切られることは怖くない。でも、そんな姿をジェイミーに見られるのは、絶対に嫌だ。
考えている間に、アメリアに左耳を掴まれた。ためらいなくナイフが降り下ろされる。
待って、とジェイミーが叫ぶと同時に、アメリアが降り下ろしたナイフはぴたりと動きを止めた。
間一髪と言えるのか。ナイフはシェリルの耳に小指の爪の幅ほど食い込んでいた。汗が伝うように、真っ赤な血が肌を撫でる。
ジェイミーは体を伏せたまま、絞り出すような声で言った。
「陛下、お願いします。どうか彼女を使って交渉することはおやめください」
「信じろジェイミー。彼らは彼女を殺したりはしない。決断を引き延ばしているだけだ」
「承服できません。投獄されても構いません。ですからどうか、お願いします」
お願いします、と何度も繰り返すジェイミーを見て、ローリーは弱ったような表情になる。
必死に懇願するジェイミーの姿に、アメリアとダミアンは意外そうに目を見開いた。カルロはしばらくもの珍しそうな顔をしていたが、やがて口の端を持ち上げて、へぇ、と呟く。
「気が変わった」
言うが早いか勢いよく立ち上がったカルロは、アメリアが持っているナイフを取り上げた。そしてシェリルの腕を掴み自分の方へ引き寄せたあと、いやに優しい声を出した。
「お別れだシェリル」
「え?」
「心配ない。一瞬で終わる」
カルロがナイフを振り上げた瞬間、シェリルは悲鳴を上げた。
刺されそうになったからではない。剣を添えられたままのジェイミーが、無理矢理身を起こそうとしたからだ。
ものの数秒で決着はついた。
ローリーが素早く剣を引いたのでジェイミーは無傷で済んだ。カルロが降り下ろしたナイフは、シェリルの心臓を突き刺す一歩手前で止まっている。
二人の男の表情は対照的だった。ローリーは渋い顔で剣を鞘に収めている。一方のカルロは、機嫌のいい顔でナイフをアメリアに返した。
「ほらな。はったりだったろ」
言いながら、何事も無かったかのように椅子に座り直すカルロ。
リビングに冷え冷えとした静寂が訪れる。
もう帰りたい。ニックがぽつりと呟いた。