92.勘違い祭り
鍛冶屋や靴屋などの看板がずらりと並ぶ一帯に、小さな仕立て屋が一軒建っている。立派とは言いがたい佇まいに、ジェイミーとニックは全く同じことを考えていた。きっと地図を読み間違えたのだろうと。
二人でもう一度地図を見直しているところに、十歳くらいの少年が近付いてきた。
「お客さんですか?」
期待を込めた瞳で問われて、ジェイミーは申し訳なく首を横に振った。
「スプリングという人を探してるんだ。知ってたら教えて欲しいんだけど」
ジェイミーの問いに、少年はぱちくりと目を丸くする。
「もしかして、ジェイミー・ウィレット?」
唐突に名前を言い当てられたのでジェイミーは面食らった。ニックが「そうそう」と頷くと、少年は心得たとばかりに快活に笑った。
「ちょっと待ってて」
そう言って走り去る少年はみすぼらしい仕立て屋に吸い込まれていった。やっぱりここなのか、と二人は少しだけガッカリする。秘密組織の本拠地というものにそれなりの夢を抱いていたのだが、現実はこんなものらしい。
しばらくして小柄な男が店から出てきた。男はものすごく不機嫌だということが一目でわかるくらいに険しい顔で、ジェイミーたちの方に歩み寄ってきた。
「お前がジェイミーか。よくもうちのシェリルを弄んでくれたな」
「え、ちょっと……」
男は瞬く間に目前まで迫ってきて、なんの断りもなくニックの胸ぐらを掴み躊躇なく頬を殴りつけた。
地面に倒れたニックも、かたわらに立っているジェイミーも、突然のことにしばらく反応できなかった。通行人がざわつく音で我にかえり、どうやら男が人違いをしているらしいということに気付く。
ジェイミーが自分の名前を告げようとした瞬間、仕立て屋の扉が再び開いた。ニックを殴った男とそっくりな容姿の女が顔をだす。
「ちょっとダミアン。店の前で喧嘩しないでくれる?」
「来いよアメリア。ジェイミーのお出ましだぞ」
「なんですって?」
女の顔が険しくなり、立ち上がろうとしているニックを睨み付けた。
「いや、ちょっと待て。勘違いだ!」
ツカツカと近付いてくる女にニックは必死で訴える。ジェイミーは急いで間に入ろうとするが、先程の男に行く手を阻まれた。
ニックが一体何をしたというのだろう。ジェイミーも殴られるようなことをした覚えはないが。とにかくジェイミーと間違われ女の平手打ちを食らったニックが、アケルナー国に来たことを深く後悔していることは間違いないだろう。
「いやー、悪かったね! 君っていかにも他人を弄びそうな顔してるからさぁ。あ、何か飲む? 水しかないけど」
ダミアンと名乗る男は明るい笑顔を浮かべ、軽い調子でニックに謝罪した。その隣ではアメリアという女がこれまた似たような笑顔を浮かべながら、濡れた布巾をニックに差し出している。
「本当にごめんなさい。あなたを見た瞬間、どういうわけか女の敵って感じがしたのよね」
テーブル越しに受け取った布巾を頬に当てたニックは、最高潮に不機嫌な声を出した。
「お前らそれで謝ってるつもりなの? 俺の傷ついた心はこの生ぬるい布巾なんかじゃ癒されないんだけど」
仏頂面で抗議するニックの隣で、ジェイミーはスプリング家の巣窟に易々と足を踏み入れてしまったことを今さらながらに後悔していた。
現在、リビングのようなところでテーブルを挟み、先程ニックを殴った二人組と対峙している状態である。出口がある方向にアメリアとダミアンが座っているので、退路がない。もし今ここで拘束されても、きっと誰にも見つけて貰えないだろう。
「ごめんね、氷は高くて買えないから。そんなに痛む?」
アメリアは気の毒だという顔で立ち上がり、ニックの側に歩み寄った。そしてなぜか、ニックの膝の上に座り込む。ジェイミーはその時点でかなり驚いたが、ニックは相当頭にきているのかほとんど動じなかった。
「ああ、痛むね。特にあんたの平手打ちが最高に後を引いてる」
「可哀想に。もう一度真剣に謝ったら許してくれる? それとも、とっておきの謝罪をした方がいいかしら」
ニックの首に腕を回し、可愛らしく小首を傾げるアメリア。ようやく状況の異常さに気付いたらしいニックは一瞬返答に困っていたが、長く迷うことなくアメリアの腰に腕を回した。
「それじゃあ、とっておきの方で」
「冒険好きなのね。大胆な男って好き」
アメリアは完璧な微笑を湛えながら、ニックの髪の毛を自分の指に巻き付けて遊びはじめる。
どうしてこんなことになったんだろう。一人困惑するジェイミーはダミアンに睨まれていることに気付き、ますます戸惑った。
「君のことはシェリルから聞いてるよ。ずいぶんとあいつのことを可愛がってくれたそうだな」
まるで虫けらでも見るような目で言葉を投げてくるダミアン。
一体シェリルはジェイミーのことを仲間になんと言って説明したのだろうか。初対面で殴りたくなるくらいだからろくな内容ではなさそうだ。
「シェリルは今どこに?」
「聞いてどうする。言っておくが会わせるつもりはないからな」
ダミアンの言葉にジェイミーは自分でも驚くくらい落胆した。そして、シェリルとの再会を無意識に期待していたことを嫌でも自覚する。
ここに来た目的は、アケルナー国の現状を把握するためだ。シャウラ国やベイド子爵、王弟。確かめなければならないことはたくさんある。
駆け引きは苦手だが逃げ場がない以上もうやるしかない。ジェイミーは腹をくくり、不遜な態度でこちらを窺っているダミアンに毅然とした顔を向けた。
しかしいざ声を上げようとした瞬間、間延びするような少女の声に言葉を遮られた。
「アメリアー、ダミアンー、シェリルが帰ってくるけどどうしよう」
やけにのんびりした口調の少女がリビングの入り口からひょっこり顔を出している。アメリアとダミアンは同時に「はぁ?」と目を見開いた。ちなみにアメリアはまだニックの膝に乗っている。
「だめよ、早すぎるわ。カルロさんのところに行ったんじゃ無かったの?」
「カルロさんのとこに行く途中でモリソンさんに大量の野菜を押し付けられてた。だから一旦戻ってくるの」
「足止めしてこいよ」
「無理。もうそこまで来てるもん」
そう言って少女が仕立て屋がある方向を指差したとき、チリンチリンとベルの音が響いた。
◇◇◇
シェリルはたくさんの野菜を抱えながら、先程進んできた道を早々に引き返していた。
家計が厳しいとカルロがところかまわず触れ回っているせいか、露店で野菜を売っている知り合いが気の毒そうな顔で売れ残った商品を譲ってくれたのだ。日除けのために頭に巻いていた布を袋代わりにしても、抱えるのに苦労するほど大量にである。
こんなにたくさん貰っても食べきれなくて腐らせるだけなのにな、などと考えている間に家にたどり着く。
「ただいまー」
仕立て屋として使っている部屋を通り抜けリビングに足を踏み入れる。そこで目にした光景に、シェリルはそれはもう驚いた。
ジェイミーのような人が部屋にいる。
それとニックも。ニックはなぜか、アメリアを膝に乗せている。
「久しぶり……」
ジェイミーのような人が喋った。どうやら本物のようだ。
抱えていた野菜が手から滑り落ち、ゴロゴロと音を立てながら床に転がった。
ジェイミーとニック、二人と向かい合いながら、シェリルは居心地悪く視線をさ迷わせた。アメリアとダミアンはまるで囚人を移送する兵士のように、シェリルの両隣に座っている。
「二人とも久しぶり。ニックは、頭を殴ったこと、ごめんなさい」
とりあえずシェリルは、ニックに対して謝罪しておいた。ニックは一瞬なんのことか分からないという顔をしたが、すぐに話を理解したようで軽薄な薄ら笑いを浮かべた。
「本当だよ。君のせいで大変な目に遭ったんだからな」
「まだ怒ってる?」
「まぁね。詫びの方法はこっちで考えとくから楽しみにしてなよ」
シェリルは次に、ジェイミーの方に視線を移した。緊張で喉が急激に渇いていくが、意を決して声をかける。
「ジェイミーも、その、いろいろとごめんなさい。ダイヤモンドを盗んだこととか……」
語尾がどんどん小さくなっていく。続く言葉を見つけられないでいると、ジェイミーはどこか困ったような顔をした。
「いいんだよ。多分あのとき、助けてくれたんだろ。気にしなくていいから」
柔らかい物言いにシェリルはますます居たたまれなくなる。あれだけ酷い目に遭ったのに文句のひとつも出てこないなんて大丈夫だろうかこの人は。
シェリルの両隣では、アメリアとダミアンが注意深くジェイミーの表情を観察していた。ダミアンは皮肉っぽく口の端を上げる。
「なるほどね。そうやって相手の懐に入り込むわけか。ついでに酔ったふりしてキスでもすれば大抵の女はイチコロなんだろ?」
シェリルはぎょっとしてダミアンの方を見る。
「なんてこと言うのよ!」
「シェリル、お前もお前だ。こんな安い手に引っ掛かるなんてスプリング家の人間として恥ずかしくないのか」
「ジェイミーは素でこれなの! 難癖つけるのはやめて」
これ呼ばわりされて微妙な顔をしているジェイミーを置き去りに、言い争いは続く。アメリアが口を開いた。
「こんな下手くそな演技すら見破れないでどうするの。何度も言ったでしょう。真夜中に突然ベッドに忍び込んでくるような男は、信用するべきじゃないのよ」
「そうね。その考えには同意するけどベッドに忍び込んで来たのはジェイミーじゃなくてスティーブだって私も何度も言ったはずよ」
そうだったっけ? とアメリアはごまかすように視線を逸らした。
双子の言いがかりによってすっかり顔色を青くしてしまったジェイミーに、シェリルはもう一度謝罪する。ジェイミーはシェリルの言葉が聞こえているのかいないのか、微動だにせず固まっている。
「……ちょっと待て。スティーブが何だって?」
ようやく出てきた言葉はひどく動揺していた。無理もない。出世を競うライバルの、手段の選ばなさ具合に驚いているのだろう。
そのとき、楽しそうに一部始終を眺めていたニックがそれはそれはいい笑顔で声をかけてきた。
「それじゃあ、酔ったふりしてキスってのもスティーブの話なの?」
シェリルはジェイミーの目を気にしつつ、首を横に振る。
「いえ、それはジェイミーだけど、でも……」
「なんだ、ちゃんと覚えてたんだ。ジェイミーは君が酒のせいで何も覚えてないって落ち込んでたんだぜ」
「何も覚えてないのはジェイミーの方でしょ?」
「え?」
「え?」
シェリルとニックの噛み合わない会話は、スプリング家の仲間の間延びした声に遮られた。
「アメリアー、ダミアンー、カルロさんが帰ってくるけどどうしよう」
アメリアとダミアンの「はぁ?」と言う声が重なる。
「早すぎるわ。講習会はまだ終わってないでしょ?」
「途中で切り上げてきたみたい。つまんなかったんじゃない?」
「足止めしてこいよ」
「無理。モリソンさんがカルロさんに大量の野菜を」
「分かった。もういい」
双子は同時に頭を抱える。ほどなくしてチリンチリンとベルの音が響いた。
カルロが抱えていた野菜は、リビングの床にゴロゴロと転がった。