91.ジェイミーの呪い
片腕ほどの幅がある作業台の前に腰かけ、シェリルは本を読んでいた。染みや傷で薄汚れた作業台は、ひとつの部屋を二つに分断できるくらいの長さがある。
作業台の向こう、店の出入口がある方向にはマネキンが数体並んでいて、ドレスやジャケットをそれぞれがそつなく着こなしていた。
シェリルの背後にある棚には筒状に巻かれた色とりどりの布がたくさん押し込まれていて、作業台の上には針や糸が散乱している。
うだるような暑さとホコリっぽい布のにおいに懐かしさを感じつつ、シェリルはポツリと呟く。
「ジェイミー元気かなぁ……」
手元の本にほとんど意識を向けずそんなことばかり考えていると、リビングがある方向から足音が近付いてきた。
「うるさい!」
ダミアンが勢いよく叫びながら姿を現す。あんたの方がうるさい、と言い返そうとするが、そんな隙は与えられずダミアンが再び声を上げた。
「毎日毎日ジェイミージェイミージェイミージェイミー、呪文みたいに連呼して何がしたいんだ。お前のせいで昨日夢にジェイミーが出てきたぞ。会ったこともないのに!」
イライラと髪の毛を両手でかきむしりながら訴えるダミアンに、シェリルは膨れっ面を向ける。
「どうしてダミアンの夢に出てくるの? 私の夢には出てきてくれないのに」
「知るか! 出来ることなら譲ってやりたいよ! もうジェイミーが好きなのはよく分かったから想いはそっと胸に秘めろ。口に出すな」
シェリルがあまりにもジェイミーの名前を口にし過ぎるので、ダミアンは少々神経がやられてしまっている。
しかしいくら鬱陶しがられても気になるものは気になるのだ。ダイヤモンドを盗んでしまったからきっと困っているはずだ。それよりもまず解毒薬はちゃんと効いたのだろうか。
再び頭の中がジェイミーのことで一杯になっている間に、持っていた本をダミアンに奪われた。
「何だこれ。レグルス語?」
「そうよ」
「よりによって一番役に立たない言語を……。やめとけよ。お前語学の才能全くないから」
「うるさいなぁ。何を勉強しようと私の勝手でしょ」
むくれながら本を取り返す。
アケルナー国に戻ってきて一週間。シェリルは今、カルロが趣味でやっている仕立て屋の店番をしている。ローリーの弱点を書いた手紙をアンタレス国に奪われたことと、カルロに逆らった罰として、一ヵ月の外出禁止を言い渡されてしまったからだ。
お世辞にも店は繁盛しているとは言い難く、この一週間で客は二人しか来なかった。つまり暇で仕方がない。だからレグルス語でも修得しようかと思ったのだが、ダミアンの言う通りシェリルは語学の才能がないので全然はかどらず、結局暇を持て余していた。
「外に出てハンカチでも売ってこいよ。家計が目も当てられない状態なんだ」
「無理よ、外出禁止だもん」
「バレないように行ってこい」
二人でああだこうだ言い合っていると、チリンチリンとベルの音が鳴って店の扉が開いた。客かと思って目を向けると、現れたのはアメリアであった。
「お客さんいる?」
「一人もいないわ」
「そう。じゃあ今日はもう閉めましょう」
アメリアは扉にかけてある札をひっくり返して、勝手に店を終わらせた。まだ昼を過ぎて間もないというのにこのやる気のなさ。どうせ流行らないのだから店ごと売り払えばいいのに、仕立て屋の方を本業にしたいというカルロの希望によって店は命を繋いでいた。
アメリアはキョロキョロと辺りを見回し、それからシェリルに目を向けた。
「カルロさんはどこ?」
「お金が面白いくらい稼げる魔法の講習会っていうのに参加してる」
「ちょっとそれ大丈夫なの? 怪しいペンダントとか買わないように見張りに行ってきて」
「えー……」
外出禁止なのに、と文句を言うと半ば無理矢理外に追い出された。
スプリング家で一番の発言権をを有するのはカルロである。次いで、アメリアとダミアンがその他の者たちを従わせる力を持っている。シェリルはアンタレス国での働き次第では力関係が双子と並ぶ可能性があったのだが、いろいろと事態を引っ掻き回してしまったのでそれは叶わなかった。
結局シェリルはまだまだ下っ端で、アメリアの言うことを大人しく聞いて熱気がたちこめる通りをトボトボと進むしかなかった。
◇◇◇
シェリルを店から追い出したアメリアは、瞬時に神妙な顔を浮かべた。
「まずいわ、ダミアン」
「何が?」
作業台の上に散らばった糸くずを拾い上げているダミアンの視界に、アメリアは無理矢理入り込む。
「ジェイミーが来た」
「は?」
ダミアンはパチパチと瞬きしながら、自分と瓜二つの、真ん丸ともタレ目とも表現できるアメリアの瞳を見つめ返した。
「だから、ジェイミーが来たのよ」
「どこに?」
「コルヴィアの店で足止めしてる。マリアがどうすればいいか聞きに来たの。おまけにアンタレス国の人間が何人か辺りをうろついてる」
「嘘だろ。いくらなんでも早すぎないか」
シェリルの手紙を使って居場所を特定したのだろうが、住所は暗号で記してあるためそう簡単に見つかるはずがなかった。
アメリアは焦燥をあらわに作業台をせわしく指で叩く。
「まさか手紙の内容までバレてないわよね」
「それはないと思うけど……」
宛先を記すときに使う暗号は、手紙を仲介する人間が読めなければ意味がないので難解すぎるものは使えないことになっている。一方手紙の中身に関しては仲介人ですら解読できないことが望ましいので、やりすぎじゃないかというくらい凝った暗号を使うようにしていた。
「だといいけど。ひとまずシェリルを遠ざけたけど、あの子が気付く前に何とかしないと。ジェイミーが来てるなんて知ったらきっとすっ飛んでくわよ」
「もうすっかり骨抜きだもんな」
ダミアンはげんなりとした顔で呟く。
カルロ、アメリア、ダミアンの三人は、ジェイミーという男がシェリルを意図的にたぶらかしていたのだと確信していた。
シェリルは直情的だが警戒心は強い方だ。出会って数ヵ月であんなに惚れ込んでしまったのは、ジェイミーがその道のプロだったから、という以外に説明がつかなかった。国軍の騎士なのだから、少なくとも国王の命令で動いていることは間違いない。
「私昨日、夢にジェイミーが出てきたの。会ったことないのに。絶対シェリルが彼の話ばかりするせいよ」
双子は視線を交わし、そして同時に深いため息をつく。
「もう嫌だ……。どんどんジェイミーが迫ってくる……」
「講習会が終わるのが一時間後だから、それまでに何とかしないと。カルロさんには話した方がいいかしら」
「だめだ。あの人はシェリルに甘いから。俺たちで片付けよう」
「追い払っちゃう? 勝手に始末するのはさすがにまずいわよね」
「直接話をつけよう。聞き分けが悪いようならもう手段は選ばない」
今こそシェリルの執念によって生み出されたジェイミーの呪いを断ち切り、安寧を勝ち取るときである。二人はお互いに顔を見合わせ、力強く頷いた。
◇◇◇
夕方と言うには早すぎる時間だが、その酒屋はとても賑やかだった。建物の正面と背面に壁がなく、生ぬるい風が通り抜けて暑苦しい空気を遠くへ運んでいく。アケルナー国の人間にとってはそれで十分なのかもしれないが、アンタレス国の人間にとっては、熱い風はただのありがた迷惑にしかならなかった。
「お兄さんたちさぁ、いつまでここに居座るつもりなの? いくら粘ってもスプリング家のことなんて教えられないよ。そんな人たち知らないんだから」
恰幅のいい女がカウンター越しに呆れた視線を投げてくる。並んでカウンターの上にぐったりと頭を伏せているジェイミーとニックは、同時にゆっくりと顔を上げた。
「粘ってるんじゃない、へばってるんだ。なんだこの国は火にかけた鍋の底か。よくこんな環境で生きていけるな」
「氷だらけの国で生きてる人に言われたくないね」
ニックの言葉を鼻で笑った女は、周囲をぐるっと見回したあと店の奥に消えていった。
ジェイミーたちは今、ローリーの命に従い常夏の国アケルナーにいる。ジェイミーがベイド子爵のことを思い出してから一週間とたたないうちに、アンタレス国を出発するよう命令が下ったのだ。急なことだったので国軍はてんやわんやの大騒ぎとなったが、ローリーが事を急ぐのは仕方のないことであった。
現在アンタレス国は、シャウラ国、アケルナー国、そしてスプリング家とルドベキア軍を敵にまわしているかもしれない状態である。なぜそんなことになってしまったのか、アケルナー国で今何が起きているのか早急に知る必要があったのだ。
スプリング家の人間を見つけ出すことに専念するよう命じられているジェイミーは、ひとまずスティーブが解読した住所を訪ねてみた。そこにはシェリルもカルロという男も見当たらず、小さな酒屋があるのみだった。
店主であるマリアという女性にスプリング家について尋ねると、知らない、との返答。はいそうですか、と引き下がるほど素直でもないジェイミーとニックは、本当の事を言うまでここを動かないと言って店に居座り、今に至る。
ちなみになぜニックがここにいるのかというと、晴れ男だからという滅茶苦茶な理由でローリーが使節の一員に組み込んだからだ。
ニックのおかげかどうかは分からないが、旅の最中、アンタレス国一行は一度も雨に降られなかった。船旅では風にも恵まれ、通常一ヵ月半かかると言われる旅を一週間も短縮できた。全ては自分が同行したおかげだとニックは豪語していたが、ジェイミーは今、水一滴落ちてこない晴天を恨めしく思わずにはいられない。
今朝アケルナー国に足を踏み入れたときはまだ、二人とも少しばかりテンションが上がっていた。照りつける太陽と、開放的な異国情緒溢れる雰囲気。袖のない薄手のワンピースを着こなす女性たちには、あっという間に目を奪われた。健康的な小麦色の肌を眺めながら、ずっとここで暮らしたいなどと二人で話していたのが数時間前のこと。下心が暑さに負けるのにそう時間はかからなかった。
ついて来るんじゃなかった、と今さらなことをぼやいているニックの隣で、ジェイミーは何気なく、活気溢れる人々が行き交う大通りに目を向けた。
通行人の中には左肩に烙印がある者が何人もいる。彼らは奴隷の証を少しも恥じる様子はなく、烙印がない者たちと同じように明るく笑ったりしていた。
その光景にホッとしている自分に気付いて、ジェイミーは余計に頭が痛くなった。シェリルと同じ身分の人間がこの国で、虐げられていないことが分かったからなんだというのか。
別行動をしている仲間たちは何か手がかりを掴んだだろうかと、強引に思考を切り替える。そろそろ通行人に聞き込みでもするべきだろう。ニックは絶対に嫌がるのでどうやって説得しようか考えていると、目の前に突然、二つのグラスが差し出された。
「餞別よ。酒も毒も入ってないから安心しなさい」
店主にオレンジジュースらしきものを手渡され、ジェイミーとニックは顔をしかめた。
「追い出すつもりなのか? 言っておくが今外に放り出されたら店の前で即干からびる自信があるぞ」
ニックの言葉を無視して、店主は一枚の地図を二人の前に掲げる。
「粘ったかいがあったね。スプリングさんが会いたいってさ。せいぜいあの人たちの機嫌を損ねないように、頑張りな」
ジェイミーが地図を受けとると、店主は何事もなかったかのように店の奥に引っ込んでいった。