90.隊長はなんでもお見通し
図形が規則的に並び、幾重にも重なりあっている。ずっと眺めていたら精神が参ってしまいそうだな、というのが封筒の中身を見たジェイミーの率直な感想である。
幾何学模様から顔を上げ、正面に立っているスティーブに視線を移す。スティーブは図形を指差しながら難しげな解説を披露したあと、真顔でジェイミーと向き合った。
「というわけで、この手紙は読めない。もうさっぱり分からない」
無駄に堂々と、スティーブは言ってのけた。
軍学校時代、暗号学の試験を史上最年少でパスしたスティーブ。どうせ解けるわけがないと、試験の例文に上司に対する愚痴を綴っていた教師を、恐怖のどん底に突き落としたスティーブ。そんなスティーブが解けないと言うのだから本当に誰にも解けないのだろう。
今から約二ヵ月前。シェリルがローリーの弱点を見つけたと宣言した日。
副隊長はその日のうちに、王都中の伝書屋に私兵を送り込んだ。シェリルがスプリング家の仲間に対し、目的を果たしたことを報告するはずだと見越していたのだ。
騎士隊の部下ではなく個人的に雇った人間を伝書屋に忍ばせたというのが、副隊長の賢いところである。上層部の許可を得る必要がないため素早く行動を起こすことができ、先回りに成功したのだ。シェリルは副隊長が雇った私兵とは面識がないため、警戒することなく伝書屋に手紙を預けた。そしてその手紙は無事に副隊長の手に渡った。並外れた人脈と財力を持っていた副隊長だからこそ成し遂げられたことだと言えよう。
騎士隊の中で手紙の存在を知っていたのは、隊長、副隊長、そして軍学校を主席次席で卒業した騎士数人である。彼らは手紙の内容を解読しようと必死に知恵を絞ったが、手がかり無しに解読など不可能であるという結論に至った。
そこで、スティーブがシェリルに近付き暗号の解き方を直接探るということになったのだ。
スティーブはシェリルに絵画や図形を描かせて暗号解読のヒントを得ようとしたが、情報を引き出そうとしていることがバレてしまっては元も子もないためなかなか上手くいかず、未だ手紙の内容は謎に包まれている。
だが現在、手紙の内容はさほど重要ではないと隊長は言う。
シェリルの手紙は封筒が二重になっており、外側の封筒には共通語でアケルナー国の住所が、内側の封筒には無数の数字が記されていた。恐らく外側の封筒に記されている住所には仲介所のような場所があり、内側の封筒に記してある数字がスプリング家の本拠地を示す暗号なのだろうと、隊長たちは予測した。数字の暗号は図形の暗号ほど難解ではなく、スティーブがどうにかこうにか解読した。
つまり、手紙の内容は依然として謎のままであるが、スプリング家の居場所を特定することには成功したのだ。
この手紙の存在があったからこそ、隊長たちはルドベキア軍の情報が嘘であることを見抜けたのである。もしシェリルの目的がダイヤモンドを盗み出すことだったなら、この手紙も計画の一部だったはず。副隊長が手紙を手に入れた時点で計画は滞るはずなのに、そうはならなかった。
隊長は事のあらましを簡単に説明したあと、渋い顔のまま話を続けた。
「お前が考えている通り、我々が把握できていない何かがアケルナー国で起こっていることは明らかだ。だから陛下は一度、アケルナー国に使者を送り込みたいとおっしゃっている。陛下が指名した使節の構成員の中には、ジェイミー、お前の名前もある」
呆然と話を聞いていたジェイミーは、数秒のあいだ沈黙したのち、ゆっくりと口を開いた。
「あの……」
声を発した瞬間、隊長は片手をあげてジェイミーの言葉を制止した。
「いや、いい、分かってる。どうせお前はアケルナー国行きを断らないだろう。だからジェイミーが完全に回復するまでアケルナー国への訪問は待って欲しいと、いま陛下に進言しているところなんだ」
隊長の手が下がるのを待ってから、ジェイミーは再び口を開く。
「なぜ手紙のことを今まで教えて下さらなかったんですか?」
「元々はスプリングに感づかれると思って黙っていた。お前が負傷してからは教えるという発想すらなかった。死にかけてまだ一週間だぞ? 知らなかったのなら教えてやるが、一応俺には部下を気遣う心というものが備わっているんだ」
「あの、さっきも言いましたがこの通り、全快しました。もうどこも悪くありません」
隊長は疑念を含んだ視線をジェイミーに向けた。全快したという言葉を全く信じていないようである。
困り果てるジェイミーに対し、スティーブは呆れきった顔で言った。
「隊長はお前の怪我だけじゃなくて、家のことも心配してるんだ。ウィレット家が揉めてるってことは騎士隊の全員が知ってる。お前は跡継ぎだし、仕事どころじゃないだろう」
スティーブの言葉にジェイミーは思わず苦い表情を浮かべる。
家のことに関しては正直、まだ気持ちの整理がついてなかった。出来れば触れてほしくない話題なのだが、個人的なことで上司を煩わせたままというのもそれはそれで気が引ける。
とりあえずジェイミーは、自分はもうウィレット家の跡取りではないのだということを説明した。ウィレット家の騒動に関しては部外者になってしまったから心配する必要はないと伝えると、隊長の眉間のシワはますます深くなってしまった。
もうどうすればいいんだか、と投げやりな気分になっていると、隊長がおもむろに立ち上がった。
「いいかジェイミー。一度しか言わないからよく聞け」
「はい……」
長い説教がはじまる予感がして、ジェイミーは大人しく頷きながら心の中で密かに嘆息する。隊長は有無を言わせぬ雰囲気を漂わせながら、腕を組み、教え諭すように静かな口調で言った。
「そもそも、お前が自暴自棄になったり周囲に当たり散らしたり、そういうことができるような奴だったら俺はここまで気をつかったりしなかった」
「はい……」
素直に頷いて見せると、隊長は疲れた様子で眉間を押さえ大きくため息をついた。
「俺の言っていることが分かるか? お前は滅多に文句を言わないだろう。何があっても平気な顔しか出来ない奴は、ある日突然、なんの前触れもなく潰れてしまったりする。そういう人間を俺は何人も見てきた」
隊長はあらためて、ジェイミーの目を正面から見据える。
「だから、お前がそうやって平然としている限り俺は安心できないんだ。死にかけた上に大事にしていたダイヤモンドを盗まれて、おまけに家族を失いそうになってるんだぞ。いい加減、助けを求めることくらい出来るようになったらどうなんだ」
隊長の話を聞きながら、ジェイミーは自分のことを天井から見下ろしているような、そんな感覚に陥っていた。
これほど心配されているのだから、自分は今散々な状態なのかもしれない。しかしどういうわけか、なにもかもが他人事のような気がしていまいち深刻な気分になりきれないのだ。
まるで金縛りにあったみたいに動けないでいるジェイミーに、副隊長が声をかける。
「左腕はまだ痛むのか?」
いえ、と答えようとして、言葉を飲み込んだ。数瞬ためらったあと、首を縦に振る。
その瞬間、隊長と副隊長はどこか安心したような顔になった。
「衛生隊には痛みは消えたと言っているようだが、なぜ嘘をつくんだ。隠したって仕方がないだろう」
まるで子供に言い聞かせるような声で隊長に尋ねられ、ジェイミーはどことなく居心地が悪いような、なんとも言えない気分になる。
「あの、両親が離婚するので……」
「だからどうした」
「だから、その……」
困った顔をして見せても見逃しては貰えないようだ。視線を泳がせて時間を稼いだりしたあと、最終的には観念して、本心を打ち明けた。
「ここを追い出されたら、行くところがありません」
思いきって白状すると、隊長たちは出端をくじかれたみたいに目を白黒させた。
「誰が誰を追い出すって?」
珍しい生き物でも見ているような顔をしながら、隊長が尋ねる。ジェイミーはほとんど自棄になりながら言葉を返した。
「だって、片腕が使えないんじゃ騎士としては役に立たないでしょう。家の力があって入隊できたようなものですし、もし怪我を理由にクビにされても文句は言えません。でももうここにしか居場所が無いんです。だから治ったと言うしかないじゃないですか」
一息に告げると、時が止まったんじゃないかというくらいに部屋の中がしんと静まり返った。
非常にいたたまれない。やっぱり言うんじゃなかった、と本音を口にしたことを早々に後悔しているジェイミーの耳に、重々しい隊長の声が届いた。
「お前は一つ勘違いをしている」
深刻な声色でそう切り出され、ジェイミーは無意識に全身を強ばらせた。
「勘違い?」
「そうだ。俺は別に、ハデス伯爵に頼まれたからお前を騎士隊に入れたんじゃない。お前が軍学校時代、群を抜いて便利な奴だったから部下にしたいと思ったんだ」
「…………はい?」
身構えていた分えらく素っ頓狂な声が出てしまった。便利だから部下にした、と聞こえたが、聞き間違いかもしれない。とにかく最後まで聞いてみようと再び耳をすます。
隊長はそれはそれは真面目な顔で語った。
「どうして自分ばかり雑用を押し付けられるのか疑問に思ったことはあるか? 普通はな、嫌がるんだよ。教材を運んだり、訓練場の予約を取ったり、馬の糞を片付けることを頼まれそうになったらお前以外の生徒はものすごい勢いで逃げていた」
話の流れについていけないジェイミーを無視して、隊長は続ける。
「卒業生を各隊に割り振る会議で、争奪戦になったんだ。稀代の雑用係をどの隊に配属するかで揉めに揉めた。俺のくじ運が強くなかったらお前は今ここにはいないだろう」
「くじで決めたんですか?」
ショックを隠せないでいるジェイミーに、隊長は真剣な顔で頷いて見せた。
「だから怪我くらいで手放すわけないだろう。安心しろ」
「できれば実力で選んだとか言って欲しかったんですけど」
「実力で選んだぞ。それと、雑用の実力だ。クビになるなんて悩むだけ無駄だと思え。何か他に気がかりなことはあるか?」
「……しいて言えば、くじで決められたことが気がかりです」
「つまり特には無いってことか。じゃあ今すぐ医務室に行って腕のことについて話してこい。正直に話すんだぞ」
隊長の指示に従い、ジェイミーは大人しく医務室へと向かう。納得出来ない気持ちを抱えつつドアノブに手をかけた瞬間、扉が額に激突した。
「隊長! 団長が話があるそうですよ!」
扉の向こうから現れたのは騎士隊に配属されたばかりの新人であった。部屋に入るときはノックをしろと騎士隊総出で再三注意しているが、彼は自分の道を貫き通す心の強さを持っているので少しも効果がない。
新人の背後から現れたのはものものしいご面相の団長である。団長は貫禄を見せつけるようにゆっくりと執務室に入り、そして額を押さえてうずくまっているジェイミーに目を向けた。
「ウィレットが復帰していると聞いて様子を見に来たんだが、やはりまだ優れないのか。無理はするものじゃないぞ。国軍の待遇が疑われるだろう」
頭上から降ってくる声に答えられないでいるジェイミーの代わりに、隊長が口を開いた。
「さっきまで元気だったんですがね」
副隊長とスティーブが小さく吹き出す。もうこんなところ辞めてしまおうかな、とジェイミーは額を押さえながら思ったのだった。