88.スプリング家緊急会合
潮風に乗って冷たい空気が容赦なく吹き付ける。朝だというのにうっすらとしか太陽を拝めないのは、空が曇っているからではなく太陽がまだ完全に顔を出していないからだ。冬になると太陽が内気になるというのは、アンタレス国とその近辺の地域ではごく当たり前の現象である。
とはいえ空は晴れているため、爽快な朝には違いない。牛乳と鉄屑をスプーンでかき混ぜたような空の下、シェリルは甲板のへりにもたれかかり一人で波しぶきを眺めていた。
「ジェイミー、大丈夫かな……」
海が教えてくれるわけでなし。冷たい風に吹かれるのも構わず、シェリルはジェイミーの身を案じてはため息をつくということを延々と繰り返していた。しかし無意味な時間は唐突に終わりを告げる。突然背中を蹴られたのだ。
結構な力で蹴られたため海に落っこちそうになり、あわてて目の前の柵を握りしめなんとかその場に踏みとどまる。振り返ったシェリルの目に映ったのは、スプリング家の仲間であるダミアンの姿だった。ヘーゼルの瞳からは、久々に再会した仲間に対するねぎらいは微塵も感じ取れなかった。
「やってくれたなシェリル。絶対何かやらかすとは思ってたけど、ここまで引っ掻き回してくれるとは思わなかったぞ」
もしかしなくても彼は怒っているようだ。だがシェリルは萎縮するよりも先に、疑問が口をついて出た。
「ダミアン、ここ海の上よ? どこから乗り込んだの。まさか泳いで来たんじゃないわよね」
「そんなわけないだろ、補給船から移ったんだよ。それよりも、これからどうするつもりなんだ。俺たちお前のせいであちこち走り回ってんだぞ」
今にも噛みつきそうな勢いで迫ってくるダミアン。シェリルは少しだけ気圧されたが、強気な態度で言葉を返した。
「だって、ジェイミーは襲うべきじゃなかった。ベイド子爵の顔なんて覚えてなかったんだから」
「そう言って子爵が納得すると思うか? 中途半端に失敗するのが一番最悪なんだよ」
「シャウラ国と手を組む方が最悪よ。どうかしてる」
「お前全然反省してないだろ! 処刑されても文句は言えないぞ!」
「処刑なんか怖くない!」
「へぇ。さすが、銀貨三枚で補充できる奴隷様は言うことが違うな」
「なによやる気?」
「上等だ、かかってこい」
「やかましい」
取っ組み合いの喧嘩に発展しかけた二人の口論を、いつの間にか側に来ていたカルロが止めた。やれやれと面倒くさそうにかぶりを振ったカルロは、シェリルとダミアンを目の前に並んで立たせた。それから厳しい表情を浮かべ両手を腰にあてる。
「スプリング家モットー! 公共の場では?」
「……大きな声で騒がない」
シェリルとダミアンのうんざりした声が重なる。カルロは満足げに首を縦に振った。
「小さなお子様を連れている方、日々の労働で疲れている方、他にもまぁなにかしら大変な方々がこの船を利用していることだろう。乗客は自分たちだけではないということを意識し、スプリング家の名に恥じないよう気品ある行動を常日頃から……」
くどくどと説教をたれるカルロに、ダミアンは白けた顔を向ける。
「カルロさん。もとはと言えばあんたがジェイミー・ウィレットを一発で仕留められなかったのがいけないんです。何やってるんですか。寝ぼけてたんですか?」
口答えするダミアンにカルロは気を悪くする様子もなく、いたずらをごまかす子供のように肩をすくめた。
「まぁそう言うなよ。まさか避けられるとは思わなかったんだ」
全く反省する素振りを見せないカルロに、ダミアンは苛ついた様子で声を荒げた。
「百回は言ったはずです。アンタレス国は身体能力が高い人間ばっかり集めて騎士として働かせてるんだから、真面目に仕事しないと失敗するって」
「でもなぁ。シャウラ国みたいな小国との紛争で追い詰められるような国の軍人だしなぁ」
「だから! あの国の軍は信じられないくらい連携が下手くそだけど個々の能力は高いんですよ! 一対一なら警戒すべきだって、一万回は言ったはずです!」
自分も彼の心労の一端を担っているとはいえ、シェリルはダミアンに少しだけ同情した。カルロはダミアンの言葉を右から左に受け流し、船の上を通過する水鳥をわざとらしく目で追っている。
「元々乗り気じゃなかったんだよなぁ。罪のない若者を手にかけるのは気が引ける。彼には悪いことをした」
「悪いことどころか、最悪なヒントを与えてしまいました。今ごろ自分が襲われた理由を考えているはずです。賢い奴ならアケルナー国がシャウラ国と通じてるってことにそのうち気付きますよ」
ジェイミーは気付くだろうか。シェリルは心の中で密かに、突然姿を消した理由をジェイミーには分かっていて貰いたいと願っていた。
今から約四ヵ月前。シェリルがジェイミーと出会う一ヵ月ほど前のこと。
アケルナー国王、バリック・リバーが息を引き取った。
バリックは王位を狙う弟に何度も暗殺を仕掛けられていた。だが彼の死因は暗殺ではなく、老衰であった。もともと流行り病で弱っていたので時間の問題だったのだ。スプリング家はこれまで何度もバリックの命を救ってきたが、暗殺は防げても、自然にはさすがに逆らえなかった。
期せずしてバリックの弟であるエリックは、長らく望んでいた国王という地位を手に入れた。
シェリルはこのエリックという男に対して、あまりいい印象を持っていない。彼はプライドばかりが高い臆病者である。兄であるバリックも傲慢さでは弟にひけをとらなかったが、同時に度胸と思いきりのよさを備えていた。しかし弟のエリックは、自分を大きく見せたいがために失敗を極度に怖れるノミの心臓の持ち主なのだ。
新国王エリックは、王位を継ぎスプリング家の所有権を手にした瞬間、ノミの心臓のごとき気の小ささをいかんなく発揮した。カルロを呼び出し、自分が王位を継いだことを近隣諸国に、特にアンタレス国に感づかれないよう対処しろと命じたのだ。王座を狙い兄を何度も暗殺しようとしておきながら、王位についたとたんそれを隠しておきたいとは、どういうことか。「お前は今最高に血迷ってるぜ」という旨をやんわりと告げたカルロだったが、エリックの意思は揺るがなかった。
王位を継いだことをエリックが隠しておきたい理由は、彼がアンタレス国との同盟に反対していた理由とほぼ同じである。
兄が進めるアンタレス国との同盟に、なぜエリックが反対していたかと言うと、アンタレス国王であるローリーを極度に恐れているからだった。同盟を結べばその瞬間に、ローリーにアケルナー国を乗っ取られると思っているのだ。
正直シェリルは、その気持ちが分からなくもなかった。近隣諸国からアケルナー国に流れてくる噂はローリーに関するものが少なくない。ある国は、油断しているうちに気づけばアンタレス国に有利な協定を結ばされていたとか。ある国は、気を付けていたにも関わらずアンタレス国を頼らなければ国が崩壊しかねない危機に陥っていたとか。
バリックがこの世から去った今、宙ぶらりんなままの同盟の話し合いを引き継がねばならないのはエリックだ。しかしエリックには正面からローリーと対峙する度胸がない。それゆえに、王位を継いだことを隠しておけ、という命が下ったわけだ。
王位継承が行われたことを隠しておけるものなのかと問われれば、不可能ではない、というのが答えである。スプリング家はこのようなときにこそ本領を発揮する組織だ。すでに広がり始めていたバリックが亡くなったという噂を握りつぶし、バリックの筆跡をまねて他国とのやり取りを継続し、巨大な情報網と確かな信頼性を誇るルドベキア軍を抱き込んだ。
このときシェリルは、アケルナー国で何が起こっているのか、全く把握していなかった。これは別に、スプリング家が連絡するのをうっかり忘れていたからというわけではない。ローリーに一番近い場所にいるシェリルに情報を流すことは危険だとカルロが判断したためだった。
スプリング家が右へ左へ奔走しているあいだエリックが何をしていたのかと言えば、シャウラ国と接触していた。
いくらスプリング家が地を這いずり回っても、国王が代替わりしたことを永遠に隠しておくことは無理である。
さてどうしよう、と悩むエリックの頭に浮かんだのが、シャウラ国だった。
一度はアンタレス国を窮地に追いやったこともあるシャウラ国。彼の国を間に挟めばローリーと直接対峙することを避けられるのではないか。
それは奇跡のように降って湧いた妙案だったという。
シャウラ国はシャウラ国で、アケルナー国と手を組みアンタレス国を侵略することを密かに目論んでいたため、話は驚くほどに滞りなく進んだ。
ダミアンは小柄な体を甲板のへりに預け、なにもかも諦めたという様相でため息をついた。
「それで? どうするんですか。口封じに失敗したなんて言ったら国王もベイド子爵も怒り狂いますよ。報酬ももらえません。俺たちもうすっからかんです。明日から何を食べて生きていくんですか」
エリックが即位したことを隠ぺいするために、スプリング家が要した労力は計り知れない。必死に走り回っている間に主人は勝手にシャウラ国と手を組んでいるし、アンタレス国に潜入しているシェリルは流れに逆らうように人身売買の黒幕を暴こうとしているし、極めつけはジェイミーに顔を見られたベイド子爵である。
やめておけばいいものを、シャウラ国が密かに企んでいた人身売買に、アケルナー国は荷担しようとした。アケルナー国に取り入るために計画された人身売買は、両国が手を組んだ時点で存在意義を失っている。しかしシャウラ国は売買する者たちをすでに何人も確保していたので、いざというときのための人質として捕らえておこうと、エリックは考えたのだ。
一度目の売買は、神殿暮らしの少女たち六人が取引されるはずだった。シャウラ国と自警団の男たちのみで行われるはずだった受け渡しは、シェリルとジェイミーの妨害によって、失敗に終わる。
二度目の受け渡しには、エリックが信頼を置いているベイド子爵が立ち会う予定だった。しかし一度目の失敗によって国境の警備が強化されてしまい、売買の目処がなかなかつかなかった。ベイド子爵は仕方なく、闘技場の幹部と今後の対応について話し合っていた。そこで鉢合わせしたのが、二年前に一度だけ顔を合わせたことのある、ジェイミーだったのだ。
この出来事への対応がノミの心臓の真髄であるとシェリルは思う。
確かにジェイミーはローリーの臣下であるし、国政に明るい立場でもある。しかし彼はベイド子爵のことを全く覚えていなかったのだ。わざわざ口封じのために殺してしまえば、その理由を考える機会をローリーに与えてしまうと、エリックは考えなかったのだろうか。
もの思いにふけるシェリルの目の前で、カルロが懐から、見るからに高級そうな細長い箱を取り出した。
「これで手を打ってもらおう」
そういってカルロが手渡してきた箱を、ダミアンは不服そうに受け取る。本を開くように蓋を開けたダミアンは、眉間に入っていた力を一気に緩めた。
「なんですかこれ。ルビー?」
「ダイヤモンドだそうだ。そうだよな、シェリル」
カルロに目を向けられ、シェリルは複雑な気持ちで頷く。
カルロという男は、本当に気まぐれな性格だ。例えば、一度見逃すと言って安心させておきながら次の瞬間にはやっぱりやめたと言って命を奪うということを平気でするような人間だ。本人が言うには、判断を下すまでの葛藤というものがそれなりにあるらしいが、それはシェリルが端から見ていて理解できるほと分かりやすいものではない。だからシェリルは、ジェイミーに解毒薬を与えた時点でカルロの気が変わらないよう、珍しいダイヤモンドがあるという話題を持ち出した。
「それ、元々はアンタレス国の秘宝なの。レグルス国は一度、ローリーにそのダイヤモンドで懐柔されたそうよ。貴重すぎて値段がつかないらしいから、エリック国王もベイド子爵も、きっと気に入ると思う」
シェリルの言葉にダミアンはへぇ、と相づちを打つ。人差し指と親指で輪をつくればギリギリ収まるくらいの、大粒のダイヤモンドが彼の視線を奪っていた。チェーンの部分にも宝石らしきものがあしらわれているが、真っ赤なダイヤモンドがこの場にいる者全ての関心をさらっている。
ダミアンは箱の蓋の裏に視線を移す。
「これって、アンタレス国の王家の紋章だよな。こんなもの盗んで騒ぎにならないのか」
なるに違いない。しかしジェイミーの命には代えられなかったのだ。
本音を言ってもどうせ怒られるだけなので、シェリルは何も答えなかった。代わりにカルロが口を開く。
「深追いされないよう、ルドベキア軍の手を借りた」
ダミアンは合点がいったというように、ああ、と声を上げる。
「だからシェリルを盗賊に仕立てあげたんですか。またルドベキア軍に借りが出来ましたね。もうどうなっても知りませんからね」
箱の蓋をパタンと閉じ、ダミアンは冷たく言い放つ。
三人で仲良く冷たい風に吹かれていると、遠くの方からシェリルの名を呼ぶ声が聞こえてきた。一斉にそちらに目をやると、ダミアンにそっくりな容姿の女が笑顔でこちらに向かってきている。カルロが驚いたように目を見張った。
「おや、アメリアだ」
ふわふわした栗毛をなびかせながら走ってくるアメリアの姿に、シェリルは自然と笑みをこぼした。