83.消えた真実
目覚めることにそれほど苦労はなかった。全身に激痛が走ってとても寝ていられなかったからだ。
ジェイミーはうっすらと目を開け、体を起こそうとした。その瞬間内臓が焼けつくような痛みに襲われ、勘弁してくれ、と誰に対してでもなく呟く。もう日は沈んでしまったのか、部屋の中は薄暗く、壁にかけられた蝋燭の火が寂しく揺れていた。ベッドのかたわらには頭に白い布を巻いた、とても不機嫌そうな顔のニックが座っていた。
「起きたか。おーい、目を覚ましたぞ!」
ニックが部屋の外に向かって叫ぶ。ジェイミーはなんとか体を起こし呆然と辺りを見回したあと、ゆっくりとニックの方へ視線を戻した。
「ニック、お前、頭どうした。ていうか、ここどこだ?」
「何言ってるんだ。お前の家でお前の部屋だろ」
呆れ顔のニックに、そうか、と気のない声を返す。バタバタと足音が聞こえてきて部屋の扉が開いた。そして次から次へと人が入ってくる。
リリー、ウィル、衛生隊長のマーソンとその部下のロイド、それから護衛のためか、騎士隊の仲間が二人。
リリーは部屋に入ってくるなり勢いよくジェイミーに抱きついた。
「兄さん、よかった、このまま死んじゃうのかと思った!」
「痛い痛い! リリー、離れろ!」
大げさに叫んだジェイミーを見て、その場にいた全員が目を丸くする。そしてリリーにゆっくりと視線が集まる。リリーは顔をうっすら赤くして、頬を膨らませた。
「な、なによ。私はそこまで怪力じゃないわよ!」
ぷんすか怒っているリリーをよそにマーソンが難しい表情を浮かべる。
「痛いのか。左腕か?」
「……なんというか、ありとあらゆる所が」
ぐったりと答えるジェイミーの左腕をロイドが掴む。袖をまくり、巻いてある布を取って針のあとを確認する。
「傷は相変わらずですが他は問題ありません。毒の作用ではなく体の組織を修復しようとして痛むのかも。油断は出来ませんが今のところは痛み止めを与えるくらいしか出来ないと思います」
「同感だな」
言いながら、マーソンはジェイミーの額に手のひらを当てたり下まぶたの裏を見たり心臓近くに耳を当てたりとせわしなく診察する。
ジェイミーはされるがまま、マーソンに尋ねた。
「使用人は無事ですか……」
「ああ。負傷してるのはお前とニックだけだ」
「そういえば、ニック。その怪我どうした」
ジェイミーの問いに、ニックは相当に機嫌の悪い様子で答える。
「お前と同じ。あの女にやられた」
「あの女?」
「シェリルのことだよ。ニックとお前を襲ったあと、逃走したんだ」
ウィルの言葉にジェイミーは目を見張る。
「いや、違う。俺はシェリルにやられたんじゃない。男にやられたんだ。確か、カルロって名前の……」
その瞬間、ジェイミー以外は全員、怪訝な顔をした。
「記憶障害でしょうか」
「まさか頭も負傷してるのか?」
ロイドとマーソンがジェイミーの頭をつかんであるはずもない怪我を探そうとしたので、ジェイミーは焦って声を上げた。
「本当だ。使用人に聞けば分かる。姿を見てるはずだから」
妙な空気が流れる。どうやらジェイミーとその他の人間とで微妙な認識の差があるらしい。ウィルが「もう一度使用人に話を聞こう」と提案し、執事のエミールと従僕を一人、ジェイミーの部屋に呼び出した。
彼らの話はこうだ。
シェリルと名乗る女が気絶したニックを背負って屋敷を訪ねてきたのは今日の昼頃。
暴漢に襲われたと偽り屋敷に侵入したシェリルは、たまたま屋敷に帰ってきていたジェイミーに助けてくれと泣きついた。そうしてジェイミーが油断した隙を狙って、毒針をジェイミーの左腕に突き刺した。毒にやられて動けなくなったジェイミーを尻目に、シェリルは屋敷を好き勝手に荒らしまわり、最終的に解毒剤のようなものをジェイミーに飲ませ、逃走した。
もう何度も話したのだろう。二人は実に流暢に事の顛末を語った。
ジェイミーは混乱しつつも、そうじゃない、と二人の話をはっきり否定した。
「黒い服を着た男が窓から入ってきて俺を殺そうとしたんだ。シェリルが来なかったら、あのまま殺されてた」
「恐れながら、ジェイミー様。ジェイミー様はあのときほとんど意識がありませんでした。ウィレット家の使用人は全員、はっきり見ております。シェリルという名の女が、ジェイミー様を襲ったのです」
エミールは毅然とした態度でそう断言した。再びジェイミーが何か言おうとすると、二人は「仕事がありますので」と言ってさっさと部屋を出ていってしまった。
ウィルが口を開く。
「使用人全員に話を聞いたけど、皆同じことを言っていた。シェリルがお前の腕に針を刺したって」
「いや、そんなはずない。確かに覚えてる。男がいたんだ。そいつが俺を……」
「ジェイミー、そんなことよりも、今考えないといけない問題はもっと他にある」
真剣な表情のウィルに、ジェイミーは何かただならぬ事が起こっていることを予感した。
「問題?」
「実は、ニックの立場がちょっと不味いことになってる。シェリルをこの屋敷に連れてきたのはニックだ。伯爵はもちろん怒ってるし、上層部はニックを軍法会議にかけようとしてる。今隊長がなんとかしようと頑張ってるけど、最悪、軍をクビになるかもしれない」
ウィルの話にジェイミーは言葉を失う。
続けて、リリーがためらいがちに声を上げた。
「それとね、兄さん。落ち着いて聞いて。さそりの心臓が金庫から消えてしまったの。使用人は皆、シェリルに奪われたと言ってるわ」
ジェイミーは段々、今自分の身の周りで起こっていることが、どこか遠くの国の、見たこともない誰かの話なのではないかと思えてきた。しかし毒針を刺された左腕がズキズキと痛みを主張するせいで、全ては現実だと受け止める他なかった。
◇◇◇
絶対安静にするようマーソンに命じられたジェイミーは、軍の本部に戻る機会を完全に失ってしまった。かれこれ一週間もウィレット家の屋敷に滞在している。もしかして新記録ではなかろうか、とベッドの上でボーッと考えていると、ウィルとニックが見舞いにやってきた。ここ一週間、四六時中ジェイミーの部屋に入り浸っているリリーは嬉しそうにウィルに駆け寄り抱きついた。
「ウィル! 今日も来てくれたのね。嬉しい!」
「リリーちゃん、俺にもそれやってよ。ほら、遠慮なく飛び込んでこい!」
両手を広げるニックを無視し、リリーはウィルに夢中で話しかけている。ニックはリリーとの抱擁を諦め、ジェイミーに八つ当たりした。
「お前また陰気になったな。すっかりベッドの上が板についてるじゃないか。もう騎士隊には復帰できないんじゃないの?」
頭を怪我しても軍をクビになりかけても嫌味を言うことを決して怠らないニックを、ジェイミーはもはや尊敬している。この図太さが功を奏したのか知らないが、ニックは軍法会議を免れ、クビにもならなかった。本人は日頃の行いがよかったからだと言っているが、実際は隊長があちこち駆け回ったおかげなのだろう。
「もう頭の怪我はいいのか?」
「ああ、別に大した怪我じゃなかったし」
ジェイミーが頭の怪我のことを尋ねると、ニックは苦々しく表情を歪めた。彼にとって頭を負傷したことは近年まれに見る恥なのである。本人が言うように怪我自体はたいしたものではなかったのだが、プライドを相当傷つけられたらしい。
ニックは気付いてしまったのだ。あの日、シェリルがウィルでも隊長でもなく自分を頼った理由に。一対一で気絶させるとしたらニックの方が可能性があると、彼女はそう思ったのだろう。
ジェイミーは上体を起こし、友人としてニックを励ましておくことにした。
「元気出せよ。お前なんだかんだ言ってシェリルと打ち解けてたしさ、油断しても仕方なかったって」
「お前はちょっとは反省しろよ。殺されそうになる程に油断してたのはどこのどいつだ」
「いや、だから、俺はシェリルにやられたんじゃないんだって……」
もう何度も説明しているのだが、これを言う度に周囲の人間は皆、気の毒そうな顔でジェイミーを見る。今も例外なく、リリー、ウィル、ニックは哀れみの表情を浮かべている。
ジェイミーがシェリルに惚れていることをこの三人はとっくのとうに知っていた。リリーなど、ジェイミー自身が好意を自覚する前から何となく気づいていたらしい。
だから、シェリルを庇うようなことを言うたびに、三人は微妙な顔をする。どうやらジェイミーが現実を受け止められず己の記憶を改竄していると思っているようだ。
何せ、目撃者である使用人たちは全員、シェリルがジェイミーを襲ったと証言している。ジェイミーは何度も本当のことを話すよう使用人たちを説得したが、彼らの証言は変わらなかった。こうなってくると、自分の方が間違っているのではないかという気になるのは必然である。ジェイミーは段々、自分の記憶に自信がなくなってきていた。
「今日は大事な話があって来たんだ」
ウィルが突然あらたまって神妙な顔を向けてきた。なんだか深刻そうな表情をしているのであまり話を聞きたくなかったジェイミーだが、逃げることも出来ないので大人しく話を聞くことにする。
「何だ?」
「今朝、本部にルドベキア軍の兵士が訪ねて来たんだ。シェリルのことを探しているそうだよ」
世界の平和を守ることに力を注ぐ、屈強、高潔、公平な組織、ルドベキア軍。国際的な犯罪を取り締まる彼らが、なぜシェリルを追っているのか。
「ルドベキア軍がシェリルを?」
「ああ。これを見てくれ」
ウィルはジェイミーに一枚の紙を手渡した。そこには、シェリルにそっくりな女の顔が描いてあった。