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82.カルロ・スプリング

 社交シーズンのみ人が滞在するウィレット家の屋敷に、ジェイミーはいた。


 ほんの一時間前、ハデス伯爵が落馬して大怪我を負ったという手紙が本部に届いた。馬から落ちたくらいであの人がどうにかなるわけがないと思ったジェイミーだったが、同僚が気をつかって仕事を代わってくれたので、念のため屋敷を訪ねることにしたのだ。訪ねると言っても一応自分の家なのだが、ジェイミーは田舎にある屋敷にも王都の屋敷にもほぼ寄りつかないため、他人の家を訪ねるのと何ら変わらない心持ちである。


 ジェイミーはリリー以外の家族ととても仲が悪い。特に現当主である伯爵とは一生分かり合えないと思っている。だからいくら伯爵が怪我をして弱っているからといって、ウィレット家の屋敷を訪れるのはそれなりに覚悟が必要だった。


 しかしどうしたことだろう。馬に乗って一時間。久々に足を踏み入れた屋敷には使用人しかいなかった。

 長年ウィレット家に仕えている執事のエミールが言うところによると、毎週この時間、屋敷の主人らは近所の礼拝堂に通っているのだという。そして今日もつつがなく、伯爵を含むウィレット家の面々は神に祈りを捧げているらしい。つまり伯爵は落馬していないし怪我もしていないのだ。


 では本部に届いた手紙は何だったのか。ジェイミーが首を傾げていると、エミールが突然泣き出した。


「ど、どうした……」


 ジェイミーは驚きのあまり手紙のことが頭から吹っ飛んでしまった。エミールは申し訳ありませんと何度も謝ったあと、未だ涙の止まらない瞳をジェイミーに向ける。


「ジェイミー様、どうか本日はお屋敷でお過ごし下さい。誠心誠意お世話致します。リリーお嬢様もさぞ、お喜びになることでしょう。このまま本部に戻るなどとおっしゃらないで下さい」


 ジェイミーは苦笑いしつつ、分かったと答えた。本当はすぐに屋敷を去ろうと考えていたのだが、エミールの必死な様子を前にそんなことはとても言い出せない。着ていた外套をエミールに渡すと、それはそれはホッとした顔をしていた。






 ジェイミーは自室のソファーに腰かけ、とりあえず、本部に届いた手紙のことを考えた。懐から手紙を取りだし、すみずみまで注意深く眺める。ウィレット家の封蝋印が押してあったため何の疑いもなく本物の手紙だと信じてしまったが、これは誰が何のために送ったものなのか。


 伯爵が元気だということは、この手紙は偽物なのだ。偽の手紙と言えばシェリル。シェリルと言えば偽の手紙。しかしジェイミーを屋敷に向かわせてシェリルに何の得があるというのだろう。


 窓から差し込む光に手紙をかざしていると、ふと違和感を覚えた。窓から冷たい風が吹き込んでいる。ついさっきまで窓は閉まっていたはず。


 不可解に思いながら立ち上がった瞬間、頭で考えるより早く、反射的にジェイミーは振り返った。


「ジェイミー・ウィレットか?」


 闇よりも暗い、黒い瞳がそこにあった。髪も服も、真っ黒いインクを垂らしたような漆黒だ。男はジェイミーをじっくりと眺め、そしてニヤリと笑った。


「当たりだ。悪いね、君には何の恨みも無いが、これが俺の仕事だから仕方ない」


 目の前の男は誰なのか、何を言っているのか、それを疑問に思う前に、ジェイミーは本能が警告するのをはっきりと感じた。


 逃げろ、殺されるぞ。


 とっさに男と距離をとろうとしたが、うまくはいかなかった。


◇◇◇


「三十分で着いた。天才か俺は……」


 普通なら一時間かかるところを、三十分でウィレット家の屋敷にたどり着いたニックとシェリル。ニックの背の二倍の高さはあろうかという門扉の前で、二人は一旦馬から降りる。さすがに疲労困憊のニックだったが、シェリルはニック以上にダメージを受けていた。二日酔いのうえに全速力の馬に三十分も乗っていたのだ。かろうじて意識を保っているというところである。


「おいおい、大丈夫かよ」


 ニックは地面にへたりこむシェリルに近づいた。かたわらにしゃがみこみ、シェリルの顔を覗き込む。このときニックは完全に油断していた。まさかシェリルが地面に落ちていた掌大の石を、しっかりとその手に掴んでいるなんて夢にも思っていなかった。


「ごめん!」


 そう叫び、シェリルは持っていた石でニックの頭を殴った。狙った場所は完璧だった。ニックは地面にあっという間に崩れ落ちる。


「なに……するんだ、くそ……」


 一瞬失敗したかと焦ったシェリルだったが、ニックはすぐに気を失った。


 急な来客が多いためか、門扉に鍵はかかっていなかった。シェリルは意識のないニックを背負い、屋敷の前まで歩いて行って扉の横にある紐を引っ張り、ベルを鳴らす。


 しばらくして、扉が開く。

 扉の向こうから出てきた初老の男は、シェリルを見て目を見開いた。


「どちら様でしょうか?」

「助けて下さい! 暴漢に襲われたのですが、助けて下さった騎士様が怪我をしてしまって……。医者を呼んでください! お願いします!」


 必死な気持ちが伝わったのか、簡単に中に入れて貰えた。

 ニックはどこかの部屋に運ばれていった。シェリルを屋敷に迎え入れてくれた、執事らしき男性が「ジェイミー様を呼んでこい」と従僕に命じる。従僕は頷き、階段を上がっていく。階段を上がりきった彼がどこに向かうのか、目を離さず見ているシェリルに執事が声をかけた。


「あなたは? 怪我はありませんか?」

「平気です。ありがとう」


 シェリルはそう答えるやいなや、駆け出した。


「あ、こら! 待ちなさい!」


 執事の制止を振り切り、階段を駆け上がる。幸い見晴らしのいい廊下だったので、従僕はすぐに見つかった。彼が今まさにノックしようとしている扉の向こう。そこにジェイミーがいるはず。シェリルは驚いている従僕を押し退け、扉を開いた。


「ジェイミー!」


 急いで中に入ったが、遅かった。スプリング家の長であるカルロ・スプリングが、ジェイミーを壁際に追い詰めている。そして金属製の編み針のようなもので彼の心臓を突き刺していた。――ように見えたが、実際は左腕に刺さっていた。横から見たので心臓に刺さっているように見えただけだった。


「シェリル?」

「なにやってるんだシェリル」


 同時に声を上げたジェイミーとカルロは、え、とお互い顔を見合わせた。二人が困惑している隙に、シェリルはカルロを押しのけ、ジェイミーとの間に立つ。


「この針何ですか!? 毒ですか!?」

「当たり前だろう。お前どうしてここにいるんだ。ちゃんと手紙読んだのか?」

「手紙ってこれですか? この下手くそな手紙ですか? 半分も理解出来ませんでしたよ!」


 この場で一番平静さを失っているのがシェリルである。その次が扉の近くに呆然と立っている従僕である。彼はジェイミーが侵入者に襲われているらしい、ということをじわじわ理解した。そして完全に我に返ったとき、階下に向かって大声で叫んだ。


「誰か来てくれ! 強盗だ!」

「だめだ、そのまま下に逃げろ! 誰も近付けるな!」


 ジェイミーが焦って言うのと同時に、カルロは従僕に向かってナイフを投げようとした。その腕を、シェリルが押さえる。


「何するんだ」

「殺す必要なんてありません! 話を聞いてください!」


 従僕はジェイミーに命じられた通り一目散にその場を去った。カルロは舌打ちし、シェリルの手を乱暴に振り払う。


「どけ。話ならその男を片付けてから聞いてやる」

「い、嫌です。どきません」


 シェリルはジェイミーを背中に庇い、カルロの目の前に立ちはだかった。カルロは何も言わずシェリルを睨み付ける。しばらくにらみ合いが続き、やがてシェリルの背後で、ジェイミーが呻き声を上げ床に崩れ落ちた。毒がまわってきたのだ。カルロは諭すようにシェリルに言った。


「このままでは酷い痛みに苦しみながら死ぬことになる。長引かせるのは可哀想だ。そこをどきなさい」

「嫌です。解毒剤を下さい。持ってるでしょう?」


 毒を持ち歩くときは必ず解毒剤も一緒に持ち歩くように、とはカルロの教えである。


「面倒だな」


 カルロは不機嫌に呟きながら、シェリルの首筋にピタリとナイフを押し当てた。ただの脅しだ、とシェリルは最初、そう思った。しかしカルロの目を見て背筋がゾッと凍りつく。殺すつもりだ。本当に。

 冷たいナイフが首の血管を切り裂こうとしたその瞬間、ジェイミーがシェリルの腕を思いきり引っ張った。シェリルの体は後方に傾き、間一髪のところでナイフが喉元を掠める。

 ジェイミーはすかさず立ち上がりカルロが持っているナイフを奪い取ろうとした。だが毒がまわっている体でそんなことが出来るはずもなく、「あれ?」と気の抜けた声を出したあとふらりと顔面から倒れ込みそうになる。それをカルロが腕で支えた。


「驚いたな。まだ動けるのか」


 カルロは感心したように言ったあと、ジェイミーをソファーに座らせ彼の腕に刺さったままだった毒針を引き抜いた。ジェイミーは痛みに顔を歪ませ、完全に戦意喪失したといった様子でパタッと横たわる。


「あの……誰だか知らないですけど……殺すにしても助けるにしても、早くしてくれませんか……。ちょっともう、本当に苦しいんで……」

「だろうな。避けるのが悪いんだよ。心臓に刺されば一瞬で綺麗な死体になれたのに」


 カルロはソファーの正面にある机に腰かけ、やる気なさげに溜め息をつく。シェリルはジェイミーの側に駆け寄り、光を失いかけている青い瞳を覗き込んだ。


「もしこのままジェイミーが死んだら、私ここでナイフを飲み込みますからね。帰りの荷物が増えてしまいますよ」

「脅してるのか? かわいくないなぁ、そんな子に育てた覚えはないぞ」

「私は本気です。早く解毒剤を出さないと、暴れますよ」

「お前が暴れるまでもない。勇敢な戦士たちが押しかけてきたようだ」


 カルロはそう言って、扉の方に視線をやる。そこには斧やスコップを握りしめた使用人たちが立っていた。


「か、観念しろ、強盗め」

「今軍に助けを呼びに行った。逃げられやしないぞ」

「ジェイミー様から離れろ、悪党!」


 まずい、と思いシェリルはカルロに目をやった。カルロは凍てつくほどに冷たい視線を使用人たちに向けている。


「俺は別に人殺しが好きというわけじゃないのに。何のために一人の所を狙ったと思ってるんだ」


 ぶつぶつ独り言を言いながら使用人たちの方へ向かおうとしたカルロの腕を、ジェイミーが掴んだ。


「やめてくれ……。頼むから……」


 もうほとんど力が入っていない手に掴まれたまま、カルロは弱ったように頭をかく。


「そう言われてもなぁ」


 言いながら、あっさりとジェイミーの手を振りほどいたカルロは使用人たちに歩み寄った。降り下ろされる斧やらスコップやらをひょいひょいと避けたあと、青い顔をして立ち尽くす使用人たちを無表情で見据える。


「そんなに彼を助けたいのか?」

「……あ、ああ」


 気絶しそうなくらい蒼白な顔で頷く使用人に、カルロはふぅん、と細めた目を向ける。


「まあ、もともと乗り気じゃなかったしなぁ……。助けを呼びに行ったという奴を連れ戻せ。そうすれば誰の命も取らないでやるから」


 使用人全員が高速で頷くのを確認したあと、カルロは懐に手を入れ小さな小瓶を取り出した。


「あーあ、ダミアンに叱られるなぁ」

「カルロさん、早く! 死んでしまいます!」


 はいはい、とカルロはうんざりした顔で小瓶の蓋を開けた。それからソファーのかたわらに跪き、朦朧としているジェイミーの口の中に小瓶の中身を全て流し込んだ。

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